第6話 6 人類絶滅後のメシア

 放課後。ハンスは教室を出て、特別教室棟の二階にある化学実験室に移動した。道中で借りた鍵を用い、閉まっていた扉を開ける。掃除用具入れから道具を取り出し、室内を掃除する。二十分ほど費やし、床や窓を綺麗にした。道具を片付け、自身の鞄を置いていた机に向かう。

「結局、誰も来なかった」

 いつの間にか開いていた扉。その扉枠に寄り掛かる少女=トリクシー・ファルカンの放った言葉はハンスの耳に届いていた。彼は鞄に手を掛けつつ、「そうですね」と答えた。

「雑用係同然の扱いに対して、嫌にならないの?」

「やりたいことも、やるべきこともない僕にとって、こうして作業を割り振られる事は歓迎したい出来事です。気を遣わせて申し訳なく思いますが、僕は大丈夫ですよ」

「別にあなたの心配なんてしてない。私にとっての心配事は人に任せることを当たり前とするようなクラスにならないかということ。現に、ノイラートに掃除を任せることが常態化して、誰もそれをおかしいと感じていない。今日の日直もそう。本来、早起きして作業するのは当番の人だというのに、何故かあなたがやっている。それが一度や二度ならともかく、殆ど毎日。そんな風に、あんまりやりたくないこと、義務感で遂行する事柄をあなたが代わりに行うことで、皆の人としての感覚を鈍らせている。あなたはそのことについて自覚はある?」

 問われたハンスは首を振り、否定する。

「いいえ、その危険性についてはまるで考えていませんでした。こうしてファルカンさんに指摘を受けなければ、気付かなかったとも思います。ありがとうございます。今日で、無闇に人の役割を請け負う行為はやめます」

「ええ、よろしく。また思うところがあったら言うから覚悟しといて」

 トリクシーは部屋から立ち去った。


 学校と駅とを繋ぐ道。朝という時間帯に於いて、混雑を見せる歩道。制服を着たハンスは同様の服装を着込む人々に混ざり、一方向に進む群れの一部と化していた。道中、コンビニに立ち寄り、惣菜パンを購入する。店を出たところで、クラスメイトのトリクシーと顔を合わせた。

「おはよう」とトリクシー。道の先に目を向けていたハンスは、戻るかのように視線を動かし、トリクシーを見て挨拶を告げる。先を歩くハンス。その背を眺めていたトリクシーは不意に近寄り、「最近どう?」と訊ねた。

「順調だと思います。新しい生活にも慣れてきたところで、特にこれという問題も起きていませんから」

「そっか。それは良かった。スーパーだっけ? 続いているようで安心。まだ一ヶ月だけど、アルバイト未経験からって考えたらね」

「平日の放課後、それも週に三回なら身が保たない程の消耗とはならないですよ」

「そうかもしれないけど、作業量はともかく、人間関係の面倒も有るじゃない。それに加えて休日はボランティアやってるんでしょ? 学校の提出課題も考慮に入れたら、わりかしハードな生活送ってるんだから、安心の一つくらいするって」

 トリクシーの言葉に謙遜を返すハンス。と、そのとき前を歩いていた男子生徒が振り返り、トリクシーに声を掛ける。応対を始めた彼女に、ハンスは「それでは」と告げて、早足で学校へと向かった。

 教室に到着し、席についたハンス。前の席の男子生徒が頭を抱えながらノートに向かっている姿を見つけ、声を掛けた。今日提出の課題が終わらないそうだ。ハンスは反省を促す言葉を発しながら、自らのノートを彼に貸し出した。その後、朝のホームルームにて教員の監督の下、生徒らは鎮静剤を服用した。


 日が沈み、外灯によって照らされた街並み。駅内部の一角にて、或る集団は解散を告げていた。ハンスは背負っていた鞄を下ろし、手に持っていたファイルをその中に入れる。

「じゃ、また来週宜しくね、ノイラートさん」

「はい。こちらこそよろしくお願いします」

 このように幾度か別れの言葉を交わした。ハンスもまた、未だ残っていた人達に別れの挨拶を告げて、駅のホームへと向かう。その直後、駅構内、延いては街全体にサイレンが響き渡った。そして、避難勧告も始まる。注意喚起の内容=怪物の出現に伴うシェルターへの避難。放送も終わらないうちに、人々は慌てたように近場の安全地帯へと走り出す。避難という意味で一様な反応を示す人々。出遅れた形となったが、ハンスも人々の動きに追従する。ところが、駅構内のシェルターに続く通路は押し寄せる人々を受け止めきれず、長蛇の列を形成していた。我先にと自身の体を押し込む人も多く、そこかしこで怒号が響いていた。駅員の拡声器による誘導も空しく、混乱は広がるばかりだ。

 ハンスは列を抜け出すことで一人分の順番を譲り、来た道を引き返した。外は危ないと告げる声には、「ご心配なく」の一言を返した。彼はそのまま駅を抜け出した。ビルの外壁に張り付く獣は力なく落下し、地面に激突した。体毛なき皮は幾重にも切り刻まれ、傷から多くの血が流れ出ている。怪物の周囲を囲むように現れた集団=各々の武器を構えている。怪物は咆吼を発し、抵抗を試みるも、対抗する集団の連携に翻弄され、直に殺された。

 狩りは滞りなく終了した。そのことを告げる放送により、どこからか人が湧いて出てくる。ハンスは駅のホームに入った。運行の再開は一時を要した。

 翌日の放課後、ハンスは或るスーパーマーケットの裏口を抜け、更衣室に入った。制服に着替えた後、スーパーの業務を執り行う。数時間の労働を経て、ハンスのシフトは終わった。

 私服に着替えたハンスは、休憩室で雑誌を読んでいた男性=リーヤンに声を掛ける。

「お先に失礼します」

「おつかれー」

 立ち去ろうとしたハンスは雑誌の見出しに気付く。彼の視線に気付いたリーヤンは「そういえば市内で怪物が出たそうだね。気になる?」と訊ねた。

「いえ。ただ現場に居合わせたので」

「へえ! 僕は直接見たことが無いから分からないけど、実際のところ迫力あった?」

「既に狩人の攻撃を受けて傷だらけだったので、そうでもなかったですね」

「あー、そうなのか」

 リーヤンの反応を見て取ったハンスは「ああいうの、好きなんですか?」と訊ねた。

「え!? 違うけど、どうして?」と答えるリーヤン。

「想像との違いを残念に思っている節があったので」

「そんなわけないでしょ。ははは……」

「僕は好きですよ、怪物」

 目を逸らして笑っていたリーヤンは即座にハンスの顔を見た。「そうなのか?」という問い掛けを受け、ハンスは「怪物見たさにシェルターに隠れるのをやめて、こっそり覗きに行ったんです」と答えた。

「……実は僕も、怪獣とか結構好きなんだよね。子どもの頃に見てた特撮の影響なんだけどこんな世の中だからさ、カミングアウトするのって難しいと思ってた。けど、そうか。まさかノイラートくんもだなんて思わなかったな」

「そんな意外でもないですよ。僕の周りでも、好きって子は居ますから」

「学生は素直だねえ。社会人になると、冗談でも口にするのははばかられるよ。あ、そうだ。良かったらさ、今度僕が作ってるファイル見せてあげるよ。全国の怪獣とか怪人の記事を集めてるもので、見応えあると思うよ」

「是非」とハンスは笑みを見せた。

「ちょっとリーヤンさん! いつまで休憩してんの! 早く戻って!」と休憩室に顔を出した店長を務める男性が怒鳴った。リーヤンは「すみません! いま行きます!」と言って店内に戻っていく。ハンスは机に残された雑誌を横目で捉え、店を後にした。

 或る日の午後のことだ。授業を終えて、教室の空気は弛緩していた。ハンスは携帯電話を取り出し、メッセージの通知を確認する。それを見ていたトリクシーは「彼女?」と訊ねた。

「いえ、アルバイト先の同僚です。あと、男性です」と告げて、ハンスは画面をトリクシーに見せた。トリクシーは視線を向け、その内容を確認する。

「SNSやってたんだ。というか、怪獣好きだったの?」

「ああいったものに好きも嫌いや感情を向けていませんよ。だからといって、相手の好きな事柄に対して、自分はどうとも思っていないとは言えませんから」

 このようにハンスは相手の話に合わせていると語った。トリクシーは「変なことに首突っ込まないようにね」と釘を刺した。

 翌日、アルバイトを終えたハンスは着替えのために更衣室に入った。リーヤンはノートを持った状態で待ち構えており、部屋に入ってきたハンスに喜々として中身を見せた。ノートには多くの新聞記事の切り抜きと注釈が記されている。リーヤンの私見と世間一般の反応および仮説は注釈として添えられていた。ノートに目を通しながら、ハンスは言う。

「凄いですね。このように纏めるために相当の労が掛かったでしょう」

「ま、好きでやってることだから。趣味に労を惜しみたくないし」と言うリーヤンだが、その声はうわずっていた。

「そういうものですか」

「ノイラートくんは何か趣味はないのか? こういうのとか」

「生憎と趣味と呼べるものはありませんね。怪物に関しても、インターネットで調べて、それで満足する程度なのでリーヤンさんに比べたら全然」

「そうか。いや、でもまあ、まだ学生なんだし、これからだよ!」

 リーヤンの励ましの言葉を受け、ハンスは薄く微笑んだ。ノートを閉じ、机の上に置いた。

「ところで、参考までに聞かせてほしいのですが、どうして怪物を好きになったんですか?」

「……社会は間違ってる。でも、誰も社会を変えようとしない。そんな誤った社会を破壊する怪物はきっと正しいんだ。この正義なき世界で、怪物は唯一の正義を体現する。痛快だ。人を利用するルールの堆積物を怪物は一掃してくれるからな。ほら、ゴミ掃除は誰も否定できない正義だろう?」

 リーヤンはノートを開き、特定のページをハンスに突き付ける。古い写真=モノクロ写真で、見出しには工場の破壊とある。

「工場なんてものが出来たおかげで、人間味のある、クリエイティブな仕事が減った。代わりに生まれたものは誰でも出来るような仕事ばっかり。怪物は知っていたんだ。工場は文明の孕んだ病だって。正すべき悪だって」

「リーヤンさんは社会が嫌いですか?」

「当たり前だ! 一回レールを外れただけで人を無能扱いするような社会。本当に大事なことを知らないんだ」

「というと?」

「それは……自由とか、平等とか」

「ではリーヤンさんはそれらを獲得する行動を取らないんですか? 欲するものを理解していながら、得られないのは苦痛でしょう? 何故こんな所で留まっているのですか? 此処はあなたの嫌う場所と同様の筈」

「だけど、弱いから。人の体は弱いから。だから、怪物の破壊力じゃないと駄目なんだ」

 弱々しく呟くリーヤン。目線は下がり、天井の照明を反射する床を見つめている。ハンスはその姿を見下ろしている。

「まるで体が強かったら希望が叶うかのように言うのですね」

 その言葉は狭い室内によく響いた。覆い被さるように店内放送が聞こえてくる。

 翌週のことだ。放課後、アルバイトに出たハンスは仕事をこなしていた。同じくシフトに入っている人達は同僚=リーヤンの悪口を話していた。

「前々から気味悪いし、早く辞めて欲しいって思ってたけど、まさか無断欠勤とはねえ」

「店長も電話したけど連絡つかないそうよ。これだからフリーターは。社会への責任を負う気がないのよ。まあ、だから正社員にもなれないのでしょうけど」

 ハンスは一人、仕事をこなしていた。アルバイトを終えた帰り道、往来が騒がしいことに気付く。どうも近場で怪人が現れたそうだ。足を止め、携帯電話でインターネットを見る。今日の夕方頃、怪人が保育園を襲撃したというニュースがネット上に報じられていた。重軽傷数十名、死傷者一名とのこと。幸いにも近隣にいた狩人が早々に獣狩りを達成したようだ。ハンスは携帯電話を閉じ、歩みを再開させた。


 或る日の夜。外灯の下に立っていた女性=アネット・ホルドルフは学校側から歩いてくる制服を着た青年=ハンス・ノイラートに声を掛ける。自身の名と所属=汚染対策局であることの証明書を提示し、彼を話――先日の保育園での出来事について――に誘う。ハンスは頷き、近隣の自然公園に立ち寄った。自動販売機で飲み物を購入し、二人並んでベンチに座る。

「この前の汚染災害の件で原因の追究のため、当局が送り込んだのが私。それで現場に足を運んで、記憶を読んだ。私、いわゆるサイコメトラーだからね、そういう芸当が出来る。で、浮上したのがあなたってわけ」

「そうですか」

 ハンスはプルタブの閉まった缶を手に持ったまま、遠くを見ていた。そんな彼を、アネットは観察している。

「大勢の人が傷付いて、ひと一人死んでいるというのに罪悪感ひとつ抱いていないようね。それとも、自分が二人の人間を死に追いやったって自覚もないの?」

「罪悪感についてはないこともないですよ。けど、そのことで弁解するつもりはありません。ところで、ホルドルフさん。あなたは僕に反省を促すためにわざわざ会いに来たのですか? 逮捕するだけなら、こうして面と向かって話し合う必要はないと思いますけど」

 しかし、その言葉を無視するように、アネットはハンスの行動の意図について訊ねる。言い換えると、なぜリーヤンを唆したのか。ハンスは人助けと答えた。リーヤンは人生に苦しんでいたし、自分の欲しているものも分かっていなかった。だから、会話を通して彼自身が欲するもののところへ道を示したのだ、と。

「クズみたいな発想ね」

「そうですね」とハンス。

 アネットは過去にも同様の行為を実行したか質問し、ハンスは自覚する範囲では今回が初めてであると答えた。家と学校を往復する時間の中で、切羽詰まった生き方をしている人物と会う機会がなかったのは回数の少なさに関係しているのではないかと、彼は説明した。

「リーヤンさんが怪人へと変身した理由は彼自身の持つ苦悩と、僕の煽動に求められます。かといって、僕は能力者ではありません」

「最初から、あなたが能力者か否かは疑ってない」

「では、この会話の目的は?」

「分からない?」と間髪入れずに告げるアネット。

 問われたハンスは暫し沈黙し、「僕を使おうというわけですか」と言った。

「先に断っておくと、あなたの期待には応えられないと思います。今回の件はリーヤンさんだから成立したこと。僕のしたことは相手の望みを露出させるだけで、怪物に変身させることではありません。ましてや話術とは到底呼べるものではないというのに」

「後半は外れね。私は誰かを怪物に変えたいわけじゃない。私が注目したものはあなたの自己理解と一致している。けど、良かった。協力自体に否定的でないのは」

 ハンスは対象について訊くと、アネットは「私」と答えた。

 翌日の学校。午前中の休み時間に携帯電話を弄っているハンスに、トリクシーは珍しいと言った。ハンスは操作の手を止め、「そうですか?」と言った。

「うん。ノイラートって大体の場合、窓の外見てるから」

「まあ、そうかもしれないですね」

「彼女でも出来た?」

「そういう相手はいないですね」

「じゃあ、相手は友達?」

「いえ。知り合いです。今度会う日程を詰めているところです」

 トリクシーは疑わしいものを見るように、「詐欺には気を付けてね」と注意を促した。ハンスは苦笑とともに了解した。

 週末の午後。ハンスは住宅街に隣接するカフェに入る。受付で待ち合わせであることを告げ、個室に案内される。小さな一室にはアネットがいた。

「お待たせしてすみません」

 店員に注文を告げて座ると、ハンスは遅れた事を謝った。アネットは時間通りなので問題ないことを告げ、テーブルの上に置かれた飲み物を手に取った。

「静かで良い場所ね。よく女の子を連れ込むの?」

「人聞きの悪い。此処には一人でしか来たことがありませんよ」

「どうだかね。良心の呵責があるかも分からないから、平気で相手を泣かせてるかもしれないし、嘘を吐けるかもしれない」

「人殺しとあっては信用されないのは当然かもしれませんね」

「まあ、職場に突き出すこともなく、今日のように密会してる時点で私も似たようなものよ」

 などと話しているうちに注文した飲み物が届いた。口に含んでいると、アネットは学校が楽しいか訊ねた。ハンスは楽しいと答えたが、アネットの反応は芳しくない。先の話の続きで、そういう人間が学校を楽しむことに疑義を持つのかと訊く。

「思うところがないわけではない。ただ私が気になったことは別。ノイラートくんって楽しくないだなんて答えないだろうなって、そう思ったの」

「僕が生来のポジティブ人間であるという話ですか?」

「かもしれないね。だから煽動についても、ポジティブに捉えているのかも。そして、私はそのことにおかしさと羨ましさも感じる。人殺しの分際でという気持ちと、死を肯定的に捉えられるところに」

 ハンスの有り様に肯定と否定の両面を持つと吐露するアネット。ハンスはアネットが殊更ネガティブな思考をするようには見えていないと言うと、彼女はそうかもねと同意した。

「別に何事も否定的に捉えるわけじゃない。問題は私の仕事について」

「記憶を読み取ると言っていましたね」

「うん。正確には死の記憶。物や場所、延いては死体から記憶を読み取ることで、関連する出来事を見聞きすることが出来る。死と言っても、落ち着いたものから生々しいものまで多種多様。記憶の内容にはショックなものも多いし」

「能力発現からの期間はどのくらいですか?」

「二ヶ月辺りってとこ。薬も飲んでたのに急にね。まあ、怪物にならなかっただけ幸運なんだろうけど、よりによってこんなのって感じ。職場も変人多いから、仕事内容的に単独行動できるのが唯一の救いかな。でも、全然慣れない。必要だからってだけじゃ、やってられないよ」

「仕事は嫌いですか?」

 アネットは答え辛そうに唸った。

「好き嫌いの二択じゃ割り切れないというのが正直なところかな。怪物になった原因を探ることは大事なことだから責任重大だけど、やってて誇りに思う。それに、私が嫌がったところでね。他に代わりになる人はいるけど、仕事量が増加することになるでしょ? 自分で辛いと思ってる仕事を他人に押し付けるのってキツい」

 今度は能力使用による精神的苦痛について質問する。アネットは死によって感情を揺さぶられることに辛さがあると語った。記憶の読み取りは鮮明な映像体験として行われるため、感情移入が強まる。高い没入感は他者の死を自らのものとして疑似的に経験することを意味し、仕事を通じて幾度も自殺未遂をするようなものだと言った。

「では、暗示というのはどうですか?」

 仕事は続けたいが、能力使用の弊害は解決したい。アネットの話からそのことを確認したハンスは率直な調子で、認知に働きかけることで行動に伴う苦痛を軽減しようという考えを示す。当の相手の反応は悪くないが、手放しに同意するわけでもない。

「そう上手くいくかな」

「試してみて駄目そうなら他の方法を探しましょう」

「他人事だと思って、簡単に言う」

 アネットの言葉を聞き流し、ハンスは専門機関への相談を推奨した。こうして話もまとまったところで、今日は解散という流れとなる。挨拶とともに経過報告の約束を交わし、二人は別れた。


 激しい雨音がある。放課後の図書室は閑散とし、利用者は数える程しかいない。椅子に腰掛け、机に向かっていたハンスは開いていた本を閉じ、席を立った。本を元の場所=本棚に差し込み、次の本を探す。背表紙を眺めていく姿は作業的だ。

「熱心だね。悩み事?」

 声の方向に視線を向ける。女子生徒=セリーヌ・ヴィクターは微笑みを浮かべていた。

「暗示や催眠に頼るのは解決が容易ならざる時だよ。正攻法で解き明かせないから、突飛な手段に頼りたくなる」

 そうかもしれませんね、とハンスは苦笑した。

「僕の知り合いがストレスを抱えているようなので。何か役立つ情報はないかと探しているところです」

「専門家に任せるのが一番じゃないかな。素人が口出ししても、良好な結果が得られるとは思わない」

 ハンスは同意した。自覚していることだ。図書室で関連書籍を読み漁る行為は自己満足に過ぎない。けれども、何もしないわけにもいかないと語る。相談を受けた身なのだから、聞くだけ聞いて放置は気が引けると。セリーヌは「責任感があるというのも困りものだ」と言った。ハンスは苦笑いを継続し、そう立派なものではないと告げた。

「ま、気持ちをリラックスさせて心を休ませてあげようってくらいが丁度いい。変に力んで相手を困らせたら本末転倒でしょ?」

 実に真っ当なアドバイスを受け、ハンスは感心した。礼を告げると、セリーヌは「そんな大したこと言ったつもりないって」と言った。汚染領域の拡大する昨今、不安に駆られる心の平静を保つ行為は日常生活を営むうえで基本であると語った。

「けど、そうか。君はそういう心構えを以て生きているってわけじゃないんだね」

「鈍いだけです」

「過敏なあまり心が押し潰れるよりかはいいよ。街を出なければ、直接的な危険なんて例外的に出現する異形くらいのものだし、あれは事故のようなものだから警戒する余地もない。だったら、どっしり構えて気楽に過ごしていた方が楽しいと思う。汚染の可能性も下がるし」

 ハンスは一度本棚に目を遣り、それから美味しい料理でもてなす等はどうかと訊ねた。セリーヌは笑みをこぼし、「いいねえ」と賛成した。ハンスは「早速、料理本に目を通してみます」と言う。背を向けて歩き出した彼の背に、セリーヌは質問を投げ掛ける。毎朝起きたとき、何を思うか/感じるかを。ハンスは立ち止まった。

「改めて振り返ると、特に何かを感じたりはないと思います」

 やっぱり鈍いですね、とハンスは言った。


 翌日の朝。学校に向かう途中で、ハンスは歩道を歩く生徒達の中にセリーヌの姿を捉えた。陰鬱な様子で、下を向いて歩いている。ハンスの視線は彼女の後頭部を追っていたが、やがて視界から外した。

 放課後になるとセリーヌは教室を出て、まっすぐ校門に向かった。そこで少し待っていると、ハンスがやってくる。彼女は手を挙げ、これから時間はあるか訊ねた。しかし、彼はアルバイトがあると答える。帰りながらで良ければ話を聞くと返すと、セリーヌは了承した。

「昨日の事で話したいことがあってさ。もし良ければ、その人を教会に連れて来られないかな」

「どうしてですか?」

「日常から離れてみるのも手だと思って。心の弱っているとき、安らげる場は必要だから。私も習慣で通っているんだけどお勧めだよ。みんな優しくて親切だし、祈りは気持ちが休まる」

「分かりました。伝えておきますね」

「よろしくね」

 それきり、会話は途絶える。数分の時を経て、セリーヌは言う。

「こんな世の中で、君は生きることに不安を覚えたりしないの?」

 ハンスは人並みに感じると答えたが、セリーヌは納得しない。目覚めに何も思わないような人間の答えとしては妥当ではないとのこと。そこで、セリーヌは「なら」と言った。

「友達になろうよ」

 急な提案だった。ハンスは笑みを見せる相手に目的を訊ねた。

「君が喪失を恐れていないからだよ。喪失を恐れないのは失うものが無いから。だから、私が友達になることで、私を失わせたくないと思わせることで、君に不安を知ってもらう」

「不安を知って何になりますか」

「不安を知る相手と近しくなれる。私と、君を相談相手に選んだ相手と」

「そうですか。遠慮します」

 拒否の言葉はあっさりとしていた。

「それはどうして?」

「今の距離感で満足しているからです」

 ハンスは出勤時間を理由に足早に去っていった。


 朝の教室。ハンスは席に着いて、料理本に目を通していた。彼の隣の席に座るトリクシーは「最近は物騒だっていうのにそっちは平常通りね」と言った。空席が目立つなど教室は閑散としているため、その声はよく響いた。

「そう言うファルカンさんも学校に来ているじゃないですか」

「だって家に居たってすることないし」

「僕も同じような理由ですよ」

 ホームルームで教員はテロリストの攻撃に対する備えを忠告した。その後、生徒の鎮静剤服用を監視し、授業が始まる。それからすぐのことだ。地響きが起こった。誰もいない机や椅子は倒れる。生徒は教員の指示で机の下に隠れた。ハンスは青空には黒い点が浮き上がり、それらが浸透するように広がっていく様を見た。そして、黒い部分から墨汁のようなものが垂れ落ちる。直に黒い雨が降り出した。地震がようやく収まると、教員は生徒の無事を確かめる。数人の生徒は体に倒れた物がぶつかったことで得た苦痛を訴えている。教員は怪我した生徒の対応に追われ、無事な生徒に待機を命じた。

 鋭い悲鳴が起こる。悲鳴を発した生徒は窓の外を指差した。校庭や校舎の壁面に現れた異形の数々。その姿を認識した大半の人間が戦慄した。怪物の群れは直ちに破壊を始める。怪物の肉体を介した物理的暴力は建物を木っ端微塵に吹き飛ばし、その余波で内部にいた者達の人体も損壊する。

 その惨状を目の当たりにし、いち早くこの場を離れようとする者と竦む者で反応は二分された。トリクシーは腰を抜かしていた。目尻には涙を浮かべ、乱れた呼吸を繰り返している。未だ空を眺めていたハンスは傍にいる少女の様子に気付くと膝を折った。幾らか無言の時間が経つと、トリクシーは「此処に居て何がしたいの?」と聞いた。

「落ち着いたら一緒に逃げようと思って」

「一人で行けばいい」

「僕一人だと心細いので」とハンスは苦笑しながら言った。

 トリクシーはハンスの言葉を聞くと、鼻で笑った。それから彼の腕を借りて立ち上がり、教室を出る。廊下の窓から外を覗くと、大量の死体と赤く染まった怪物の姿が見える。その中の一体が不意に跳躍する。ハンスは咄嗟にトリクシーを引っ張って、その場を離れる。高速度の体当たりで壁を貫いて、怪物は廊下に降り立った。

 怪物の腕=無数の触手のうちの一本がトリクシーの腹に刺さった。ハンスは触手を抜こうとしたが、それとは異なるものが彼を弾き飛ばした。トリクシーの呻き声。全身を襲う痛みをものともせず、ハンスは立ち上がる。ハンスは自身の手に刺さるガラスの破片を抜き取り、それを握り直した。疾駆、同時に向かってくる触手。先端部目掛けて、ガラス片を突き刺す。噴出する血が自らに掛かることを厭わず、走行*継続。

 接近するハンスに対し、触手による迎撃が行われるが、彼はこれをスライディングによって回避。トリクシーの元に到達するとガラス片で触手に一撃を入れる。痛がる怪物を余所にトリクシーを抱えると、ハンスはこの場を後にした。


 街でも破壊は起こっていた。トリクシーを背負ったハンスは怪物に注意を払いながら病院に向かっていた。泣き叫ぶ人々を無視して、全力で走っていた。

「見捨ててくれて良かったのに」

 弱々しい声で紡がれた言葉。

「それが本意でないことくらいは僕にも分かります」

「信じられない」

「どうしてですか?」

「ノイラートって平気で嘘吐くだろうから」

「心外です。あと、話さない方がいいです。とにかく大人しく、」

「いいよもう。ノイラート、降ろして」

 ハンスは歩みを徐々に遅くした。やがて動きを止め、背にいる少女を下ろして腕で支える。

「ごめんね。断らないこと知ってて言ったのも、こんな風に重荷になったことも、あなたの生き方を否定したことも」

「僕は別に」

「中学校のとき、クラスメイトで頼みを断らない子がいたの。嫌な顔もせずに、むしろ率先して雑用していた。長期休暇が終わると、その女子は学校に来なくなった。あなたの生き方はその子を彷彿とさせるから、私は個人的な感情で、」

「あなたの言い分には一理ありました。気に病むことなんて、」

「……恨み言の一つ言ってくれたっていいのに」

 トリクシーは笑った。笑いながら血を吐いた。腹部からは止め処なく流血している。縛った布は赤色で染色されているようだった。

「ノイラート、此処から逃げて。少しでも私から離れて」

 流血は停止する。腹部は樹皮で覆われ、それは全身に及ぶ。間もなくトリクシー・ファルカンは巨木と化した。否、それはエセリアルを帯びた汚染怪獣である。

 樹高四〇メートルの大樹を中心に根は広がり、枝葉は空を覆う。自在に伸縮する蔓は転がる死体に刺さると栄養を吸い上げた。毒々しい色の赤い果実が生える――生命の濃縮。

「僕は断らないわけではない。人の役に立てると思えたから手伝っていたんだ。僕には時間が有ったから。皆みたいにやるべきこともやりたいことも無かったから。僕が代わりを務めることで、その分だけ相手は前に進めるってそう思っていた。だから、僕の犯した過ちを指摘してくれたことに感謝していた」

 ハンスは見上げた。大樹/黒ずんだ空。何処より湧いた妖精/小人が果実を喰らい、哄笑している。

「リーヤンさん。あなたと違い、彼女は怪物になることに肯定的ではなかったと思います。なので、終わらせます」

 ハンスは最寄りのガソリンスタンドに向かい、保管庫に押し入り、灯油缶を抱える。その間も大樹は成長している。戻ったハンスは灯油を根元に浴びせる。妖精達が妨害を開始し、ハンスの肉体を食むように肉片を千切っていく。全身出血に加え、顔面の皮を剥がされるが、彼は妖精になど目も暮れず、一緒に持ってきていたライターを投擲――着火。

 オイルを媒介に大樹は火に包まれる。暴れ狂う樹木の動作に合わせて火の粉が舞う。妖精は慌てて逃げようとするが、押し寄せる大量の火の粉を躱すに能わず、絶叫とともに燃焼した。

 ハンスは火傷を負いながらもその場に留まり、紅蓮の業火に燃やし尽くされる木を見ていた。


 猛火と充満する焦げた臭い。周辺を闊歩していた怪物さえ近付かない一種の空白地帯。重傷を負ったハンスは炭と化した巨木の前で座り込んでいた。

「圧巻だな」

 しわがれた声の持主=壮年の男性はハンスと、彼の前にある残骸を見てそう言った。

「聖職者でもなく、魔術師でもなく、ましてや能力者でない。人の身で成した偉業を認めてやれるのが私だけで申し訳ないとさえ思うよ」

「あなたは?」

「今回の騒動を引き起こした張本人……と言うと語弊があるか。組織的行動を取る中で指揮を執る者ではあったが、指導者であって実行犯ではない」

「そんな人が此処に何の用ですか?」

「用なんてものじゃない。やるべきことを済ませ、後は気儘に過ごすのみ。此処には興味本位で来ているだけで、目的は持ち合わせていない。君、名前はなんと言う?」

「ハンス・ノイラート」

「そうか。私はゴドウィン。ノイラート君、良ければ私の暇潰しに付き合ってくれないか? と言っても遊ぶわけではない。単に話をするだけだ。雑談の内容はそちらが決めてくれていい」

「そうですね。では……何が起こったか聞いてもいいですか?」

「構わないよ。一言で言えば、汚染領域との境界線を破壊した。エセリアルは瞬く間に国土を汚染し、全土に於いて異形の発生が起こった。国中は大混乱し、立て直しも困難な程になっている。質問から少し外れるが、救助は期待できない。君の人生はここで終わる。聞いてやれるのは私くらいだが、何か言い残すことはあるか。可能な場合、伝言を頼まれてもいい」

 ハンスは首を振った。

「伝えたい言葉はなく、相手も居ません」

「そうか。ならば、もう行くことにしよう。安心するといい、ノイラート君。君は救われる。そのための終末だ」

 一陣の風が吹いた。ハンスは空を見上げた。黒く塗り潰されたかのような光景が眼前に有った。



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