第4話 4 ハローグッバイ
教壇に立つ男は連絡事項を伝え終えると、生徒に向けて解散を告げた。教室は椅子を引く音や会話=週末の過ごし方で慌ただしくなる。ハンス・ノイラートもまた席を立った。
「今日で百億か」
隣の席に座る青年=入江は独り言を口にした。ハンスは彼の机を横切り、教室を出た。
月曜日の朝。校内放送で緊急集会の開催を伝えられ、生徒たちは体育館へ移動していた。舞台の上に立った校長は本校の生徒の一人が自殺を図ったことを明かした。
「一同、黙祷」
副校長の指示に従い、全校生徒が沈黙する。数十秒の静寂は副校長自身によって破られた。
全校集会の終了後、体育館を出た生徒たちは騒ぎ出し、死んだ生徒の話題で盛り上がっていた。
教室に戻り、席に着くハンス。隣の席が空いていることに気付く。それは他の生徒も同様だった。
「もしかしてさ! 死んだのって入江なんじゃね!?」
その発言はクラスメイトに様々な反応を起こした。笑い、怒り、軽蔑、悪意という感情を発露し、阿鼻叫喚とした空間の中で、ハンスは窓の外を眺めていた。
一限目の時間。科目を担当する教員は現れず、代わりに担任の教員が登場した。そして、入江が亡くなったことを明かした。
「葬式の参加は自由だ。受験生という立場を考慮して行動するように」
という言葉で締め括り、教室を出る担任。交代で入ってきた教員は静まった生徒たちには何も言わず、粛々と授業を行った。
昼休み。ハンスは黙々とコンビニ弁当を食していた。教室で休憩時間を過ごす生徒は少なく、また活気もない。隣の席には花瓶が置かれており、白い花が数輪生けられていた。それは教員の一人が置いていったものだ。教室を訪れた他クラスの生徒の一部は花を見ては死人の話をしていた。
教室の隅では一人の女子生徒が友人に囲まれながら、様々な言葉で慰められている。全校集会の後に体調不良を訴え、早々に保健室へ移動していた者だ。その目は赤くなっていた。
昼食を終えたハンスは教科書を開き、ぼんやりとした様子でページを眺めていた。
放課後。ハンスはトイレ掃除の当番のため、校内のトイレの一つに来ていた。監督する教員や他の生徒の姿はない。ハンスは一人で床掃除を行い、便器を磨き、石けんを交換し、トイレットペーパーを補充した。
掃除を終えたハンスは教室に戻った。教室後方のゴミ箱周辺には一人の少女=茅原がいた。彼女はゴミ袋を纏めていた。
「あ、ノイラートくん」
人の気配を感じた茅原は顔を上げ、当人の名を呼んだ。
「茅原さん。他の人は……?」
問われた茅原はすぐに笑顔を作り、「みんな忙しいんだって。部活やバイトがあるもんね」と答えた。
「そっか。時間もあるし、手伝うよ」
ハンスはゴミ袋を持った。茅原は申し訳なさそうな様子で感謝を告げた。二人は校舎裏のゴミ捨て場に向かった。そこで教室のゴミを捨てた。ハンスはポリ袋の山に背を向ける。
「入江くんはどうして死んだのかな」
茅原の視線はゴミ袋の山に定まっていた。
「クラスにイジメはなかった。入江くんは被虐の対象に成り得る立場でも、排除されるような人柄でもなかった。あの人の死の原因はクラスにはない筈」
茅原の考えを聞いたハンスは足を止め、振り返る。
「警察が調べてくれる」
「記事を読んだけど、遺書は見つからなかったって。だから、当初は他殺の可能性もあったくらい。けど入江くんの死は自殺で確定せざるを得なかった。その死は彼自身によって語られていない。警察も、周囲の人間も、私も、これだと思える理由を原因と祭り上げることしか出来ない」
「そこまで分かっているなら、」
「だとしても、理解に努めることは出来る。今回のことでよく分かった。私は、クラスメイトが亡くなっても笑顔で居られる人間には成り下がりたくないんだって。ノイラートくんも私と同じでしょ? 私達で入江くんの死の真相を曝こうよ!」
溌剌とした笑みで誘いを掛ける人。
「断る。僕はその行為が墓荒らしと変わらないように思う。僕は墓荒らしなんてしたくない」
背後から浴びせられる罵倒の言葉を気にすることなく、ハンスは教室に戻った。
電車が動き出す。西日が車窓より射し込み、ハンスの横顔は明るく照らされる。次の駅名を知らせる車内アナウンス。集団で固まって行動する学生達。荷物を隣の席に置いて眠る者。数台ものベビーカーで通路を塞ぎ、お喋りに興じる者。通路を走り回る子ども。大声で電話する社会人。
吊り広告には政治家の疑惑、芸能界のスキャンダルを掲載する雑誌の名前があった。扉付近の広告には英会話教室や法律事務所の文字があった。
ハンスは不意に視線を上げた。扉付近にある液晶画面には世界人口が百億を突破したニュースが映し出されていた。
帰宅後、ハンスは夕飯を食べていた。帰り道の途中で立ち寄ったスーパーで購入した惣菜をおかずに、白米を口にする。
テレビでは自殺について討論が交わされていた。コメンテーターは各々の立場と考えから自殺について、親の躾が悪い/SOSを見逃した学校の怠慢/自殺は負けであり、弱いから死んだ/政権批判を語った。
ハンスは食事を終えると、テレビの電源を切った。
翌週の平日。電車に乗ったハンスはそこでクラスメイトの姿を認めた。男女二名。一人は入江の死に際して泣き崩れ、もう一人は彼女を慰めていた男だった。密着した状態で楽しげに会話している。
学校の最寄り駅に到着後、彼らはハンスの前を歩いていた。その頃には二人は離れ、一定の距離を保ってコミュニケーションを取っていた。
放課後、コンビニに立ち寄ったハンスは朝と店員が異なることに気付いた。購入時の手続きについての手際は何も問題なかった。
夕飯時にテレビを点けると、ニュースキャスターが代わっていることに気付いた。こちらについても淀みなく原稿を読み上げる様から問題ないようだった。
昼休み。ご飯を食べ終えたハンスは窓の外に視線を遣り、ぼーっと過ごしていた。クラスの喧噪に微塵も関心がないようだ。そんな彼の下に近付くクラスメイトがいた。吉田という男子生徒だ。
「なあ、ノイラート。今日の夕方だけど予定空いてるか? 実は友達が急にバイトに入ることになってさ、ライブのチケットが余ったんだ。良かったら、一緒に行かないか?」
「ごめん。音楽に詳しくないから、」
「気にすんなって。ていうか、アイドルのライブだから堅苦しい感じじゃないし。普通に楽しめばいいんだよ」
そう言って、吉田はハンスの予定を埋めた。彼は今日のアイドル鑑賞を楽しみにしているようで、当該チケットに出演するアイドルについて熱心に語った。
放課後になり、二人は電車でライブ会場に向かった。会場は雑居ビルの地下にあり、狭いエレベータで移動した。地下空間の大半はライブ会場になっており、エレベータの出入り口がそのまま会場の出入り口となっている。受付でチケットを切り、開けた空間に移動する。会場の照明はピンク色だ。壁紙を何度も張り替えているために薄汚れた剥き出しの壁。椅子はなく、客は立ち見かあぐらをかく形になるだろう。出演者であるアイドルを目立たせるため、ステージだけはお立ち台として高い位置にある。
飲み物を買うために離れた吉田は顔見知りの客と談笑していた。戻ってきたのは開演時刻直前だった。ハンスはジュースの代金を彼に渡し、甘い液体をストローで飲む。
「みんなー! 待ったー!?」
舞台に登場したアイドルの数は四人。グループで活動しており、トップバッターを任されていることから、その人気は他の出演者と比較して相対的に高い。会場も早くも沸いており、大声でアイドルの名を叫ぶ者もいたし、ペンライトをぶん回す者もいた。
厚化粧に奇抜な服装。身振りとしての踊りは精彩に欠き、声に張りはない。とにかく動き回るスポットライトと、ハウリングするマイク。紡がれる歌詞はいま流行りのアニメのものとは吉田の言である。ハンスは渡されたペンライトを規則的に振り回す。その色は吉田の指示で彼と同じ色=橙色で合わせている。
このようなことが繰り返されること、一時間半。合計六組の合同ライブが終わる。終了後、吉田はアイドルのファンサービスを享受すべく、ステージに群がる者共に加わっていた。ハンスは少し離れた場所=壁際に落ち着き、その様子を眺める。出演者の中でも十代後半のアイドルには十数人の列が生まれ、今年で三十四歳となるアイドルには一人ふたりの列が生じていた。前者は貼り付けたような
笑みで、後者は必死な様子で握手を交わしていた。
「楽しかっただろ!」
雑居ビルを出た直後、吉田はこのようなことを言った。ハンスは同意を示し、笑みを浮かべる。
「いつから応援しているの?」とハンスは訊ねた。
「あー、今日のは大体三ヶ月くらいかな。あの辺の地下アイドルはグループ生命が短いことが多いから」と吉田は結成したばかりのアイドルを応援する理由を話した。
「単独で活動はしないのか」
「しないんじゃなくて、出来ないんだよ。だからセット売りすんの。長く続くグループの場合でも不祥事でメンバーが抜けたりすると、余所から補充してくるし。言うなれば新陳代謝だな」
「アイドルでさえ、アイドルですら世知辛いな。どんな職業とも、どんなものとも変わらない」
「そりゃそうだ。SNSで見たけど、今の地球上には百億もの人間がいるんだぜ!」
ハンスは振り返った。先程までライブを楽しんでいた人々はアニメやゲームなどの話題を含め、ファン同士の交流に勤しんでいた。
放課後。ハンスは帰りの途中で駅ビルに立ち寄り、そこの本屋で買い物を行った。その後すぐには家に帰らず、同じくテナントとして入っているカフェに入った。店内は混雑していたが、席は幾つか空いていた。コーヒーを購入後、ハンスは窓際の席に座った。壁はガラス張りとなっており、駅周辺を一望することが出来た。
隣の席に座る男が溜息を吐いていた。くたびれたスーツに傷のある革靴を身につけている。髪はワックスで固めているようだが、白髪が目立っていた。彼の前にはドリンクと履歴書が置かれていた。書き終えたそれを見つめていたり、携帯電話で様々な企業のホームページを閲覧している。不意に男の携帯電話が鳴った。
「……はい……はい……あ、はい、その日は空いております。はい、よろしくお願いします」
電話を終えると、男はメモ帳にスケジュールを書き込み始めた。軽快な速度で日時や企業名を記し、それが終わると早速インターネットで対象の企業について調べていた。途中、ドリンクの追加のため、カウンターに注文に向かう際の足取りは軽やかであった。
ハンスはコーヒーを飲み終えると、ゴミとなったものをゴミ箱に捨て、店を出た。
或る冬の日の夜。雲に覆われた空の下、ハンスは歩道を歩いていた。家から数十分ほどの距離にある川に来ると、そこから上流へ向かって進む。橋の架かった場所まで来ると、彼は欄干に手を置き、真っ暗な場所に目を遣った。
川の流れる音に混じる形で、遠くから船の音が聞こえてきた。誘導灯の赤い光は暗闇の中でぼうっと光っている。
ハンスは欄干の上に登った。風を浴びながらも、その目は水平線を捉えている。ハンスは体の重心を前に傾けた。水面に映る黒い影は大きくなり、やがて水飛沫が生まれ、影は消えた。
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