第2話 2 情けは人のためならず
時刻は二十三時を回る。市街地の交通量は依然として多い。駅から少し離れたところにある駐輪場は無料で利用できる。ハンスはそこにバイクを停めた。キーを抜き、駅に続く道を歩く。途中、高架下がある。オレンジ色の照明に照らされた空間に人影はない。内壁のコンクリートは所々ひび割れていた。
唸り声が響く。音の方向=背後を振り向くハンス。そこには獣がいた。鋭く尖った牙を口元から覗かせ、ハンスを睨んでいる。黒い毛に覆われており、その体は発達した筋肉に支えられている。姿形は犬や狼に近い。しかし、その尾は二つだ。
後退するハンス。直後、獣はハンスに飛び掛かる。ハンスは両腕を交差したが、そのうち前面にあった右腕を食い千切られた。失血と苦痛、腕の喪失という出来事が重なり、ハンスの表情が苦しげに歪んだ。
通り過ぎ様に片腕を奪った獣は口で咥えたそれを吐き捨て、前足で踏ん張るような姿勢を取った。そして、二尾が伸長し、その先端はハンスの背中を貫いた。勢いよく貫通したことで彼の体が宙に浮く。獣はハンスを地面に叩き付け、尾を抜いた。
尾の先端部分は血で赤く染まり、滴るそれは歩道に血痕を残す。一方、うつ伏せに倒れた体からは止め処なく流血し、円状に広がっていく。ハンスは手足を動かそうとするが、満足に力が入らないのか、全身を血に浸すだけに終わった。
「おお、まだ生きてる」
突然、現われた少女=小早川一華はハンスを見て、他人事のようにそう言った。
黒のロングコートを羽織り、甲の部分に魔法陣が刻まれた手袋を装着する人間。その登場に気が立った獣は先程使用した尾による打突を放つ。が、その攻撃は少女の前面に展開されている不可視の壁によって阻まれた。
小早川は獣の連撃に身じろぐことはなく、足元で倒れる青年に手を翳した。すると、傷はみるみるうちに塞がり、欠損した腕部は生えてくることで見た目においては元の通りとなった。血も補填されたのか、意識を失っていたハンスの顔に生気が戻る。加えて、服まで新品同然となっていた。
「さて、次はこっちか」
発言し終えたと同時、周囲に無数の光る球体が生成された。光球は直に滞空状態から高速旋回に移行。小早川が腕を差し向けると、一斉に射出され、獣の肉体を撃ち抜いた。獣は回避を試みた様子だったが、俊敏性で弾速を上回ることは出来なかったようだ。
道路上で力なく倒れる獣。その体には無数の風穴がある。やがて獣の肉体は黒色に発光する粒子に分解される。小早川は獣の消滅を見届けると、戦闘の形跡、主にハンスの体液で汚れた歩道に視線を向ける。数秒後、辺りは何事も無かったかのように平時の姿を取り戻した。
足元のハンスを見下ろすこと数秒。小早川は彼の腹部に一発蹴り込むと、その場から去った。
気が付いたハンスは体を起こした。さっと周囲を見回した。ハンスを除いて、高架下に人はいない。ポケットの奥で震える携帯電話。ハンスは再度周囲を確認し、早足で高架下を出る。
「やっと出た! 何してんのよ、馬鹿!」
着信に出たところ、相手=高崎仁美より罵倒を浴びたハンス。彼は謝罪とともに先程体験した出来事を話したが、寝惚けているのかと難なく一蹴され、用事を催促される。ハンスは通話を切り、駅へ急いだ。
「遅い!」
「ごめん」
ハンスの第一声及び続く言葉は謝罪に費やされた。当初、少女は寒そうに身を震わせていたが、ハンスに文句を言い放っているうちに体が温まった様子だった。一頻り罵倒すると、ハンスを連れ立って駐輪場に向かう。ハンスが高架下を迂回する道を選んだときは少女も眉を吊り上げ、口を挟んだが、彼は頑として譲らなかった。
「お化けとか出るって思っちゃってるー?」
人を小馬鹿にした様子で疑問を投げつける仁美に、ハンスは「違うよ」と返すのだった。
翌朝。ハンスは六時過ぎに目を覚ました。寝汗を掻いており、髪が肌に張り付いていた。体温計で熱を測ると、平熱より少し高い数値が表示された。棚にしまっていた風邪薬を取り出した。服用後、シャワーを浴びる。制服に着替え、朝食を食べた。支度を整え、のんびりとテレビのニュースを眺めた。
マンションを出る。よく晴れた日で、陽射しが暖かい。ハンスは電車で学校に向かった。教室に入り、自分の席に着く。周囲の生徒は雑談に耽るか、勉強に腐心している。ハンスは教科書を取り出し、その内容を確認する。
朝のHRを終え、授業が始まる。教員はプリントを配布し、前半の時間に問題を解かせ、後半は答え合わせと解説を行っていく。生徒の実力はまちまちで、中には他教科の勉強を行う者もいたが、教員はそれを見逃した。この行為は他の授業でも見られた。
放課後のことだ。鞄に道具を詰め込んでいるところに、或る男子生徒=高崎秀幸が訪れた。
「今日はずっと調子悪そうだったが、大丈夫か?」
「……頭痛が少し。休むほどではないけど、」
「風邪か?」と秀幸は言った。
「分からないけど、帰りに病院に寄るつもり」
「そうしとけ。本番も近付いてきて教室の雰囲気も変わったし、この時期伝染したら恨まれるぞー」
「みんな頑張ってるからね」
ハンスは席を立った。
「そういや昨日、あいつと何かあったのか? 帰ってきたと思ったら不機嫌なのか、電話でおまえの悪口ばっか言ってたぞ」
「迎えに遅れたんだ。そのせいだと思う」
「……まったく」と秀幸は腕を組んで外を睨み、それからハンスに謝った。
「気にしないで。慣れてるから。それじゃ、また明日」
ハンスは別れを告げ、教室を出た。
病院から帰る途中、ハンスは下を向いて歩く少年=男性/子ども=鳥山を見つけた。その子は今にも泣きそうな顔で地面を見つめているが、視線はあちこちを彷徨っていた。
「何か探し物?」
突然、知らない人に声を掛けられたことで鳥山は戸惑った様子だった。しかし、ハンスの顔を見つめること数秒、元気のない様子で頷いた。
「家の鍵、失くして。友達と遊んでて、気付いたらポケットから無くなってて」
説明するうちに思い出したのか、状況を客観的に把握したのか、鳥山の瞳が涙で滲む。ハンスは腰を落とし、膝を着いた。
「大丈夫、きっと見つかるよ。僕も一緒に探していいかな?」
「え、でも、いいの?」
「もちろん」
ハンスは鳥山の目を見て、はっきりと言った。
それから、ハンスは彼から色々と質問して、情報を整理した。また、ハンスは近隣の交番にて鍵の落とし物が届いていないか、確認を取った。紛失届については先送りにした。
携帯電話が鳴る。ハンスは鳥山に断りを入れ、少し離れたところで電話に出た。
「今どこ? ちょっと出掛けるからバイクだして」
声の主は仁美だ。
「ごめん。予定あるから」
「は? なに言ってんの? 私より優先することなんてあんたにないでしょ」
「鍵を落とした子と会ったんだ。酷く困ってる。見過ごすわけにはいかない」
「知り合いじゃないんでしょ? じゃあ、どうでもいいじゃん。それよりあんたが迎えに来ないと私が困るんだけど。そんな子どもと私のどっちが大切なの」
「高崎さんの方が大切だとしたら、人を見捨てていいわけじゃない。時間もないし、これで切るよ。ごめんね」
ハンスは通話だけでなく、携帯電話の電源も切った。そして、鍵の捜索に戻った。
日も沈みきると、鳥山は一層項垂れた。また、時間を気にしている。そのことについて訊ねると、親の帰宅時間が二十時頃だそうなので、それまでに見つけないといけないようだ。
「やっぱりもう誰かが拾って」
「そうであれば、交番に届いている。そうでないということはまだどこかに落ちているってことじゃないかな」
「……早く、見つけなきゃ」
鳥山の呟きには怯えから来る焦りがあった。ハンスは何も訊ねず、励ましの言葉を口にした。
時刻も十八時半を過ぎた頃。いよいよ鳥山は無言になっていた。ハンスが声を掛けても、返事はろくにない。
そのときだ。ハンスは頭部に刺すような痛みを感じた。脳髄を掻き回したかのような乱雑な苦痛に耐えようと、反射的に瞼を閉じた。すると、ハンスは暗いところを目撃した。網の向こうに月を見る。
瞼を開くと、先程の情景はもう見えない。ハンスは荒い呼吸を整え、鳥山の通った道、その側溝を片端から確認した。視界の暗さで探索は困難だったが、遂に鍵を見つけた。
ハンスは探し物を鳥山に見せた。少年は破顔し、鍵を大切そうに握り締める。その後、二人は公園の水道で手や鍵を洗った。また時間も遅いので、鳥山を彼の自宅の近くまで送る。
「今日はありがとう」
「どういたしまして。次からは鍵にチェーンでも付けておくといいよ。そうすればもう安心だ」
「分かった!」
鳥山は素直にハンスの提案を呑んだ。その顔を見て突然、ハンスは手を前に出した。鳥山の後ろを大型トラックが走っていた。鳥山は差し出された手を握り、「じゃあね」と言って、家に向かっていく。その背を見送り、一人になる。
ハンスは手を見た。その手を目に当てる。頭を振り、ハンスは帰途に就いた。
住宅街を照らす外灯。ハンスは自宅近くの歩道を歩いていた。
「死にかけた翌日に外出とは不用心な人」
足音が響く。ハンスは背後を振り返った。外灯の下、現われる少女=小早川一華。
「……昨夜、僕を助けていただいたことは感謝します。ですが、あなたを知るまで半信半疑だったので」
「白昼夢の可能性を捨てきれなかったようだけど、前後の状況でも信じるに足るでしょうに」
「確たる証拠は無かったので。それで、僕に何の用でしょう。救助の代金として金一封くらいなら渡せますが」
「……そうね。助けてあげたお礼として、少しお願いしたいことがあるの。まさか命の恩人の頼みを聞かないなんて言わないでしょう?」
少女は屈託のない笑みを浮かべた。
「内容次第としか。出来ないことを命じられても困りますし、無条件に応じるわけにはいきません。ただあなたは僕について誤解しているかもしれないので伝えておきますが、高いハードルを越えられるような人間ではないことを承知しておいてください」
「そこは大丈夫。頼みというのはあなたに或る相手と話してほしいというものだから。その者と友達になれと強制することはないし、相手から無理強いされても断ってくれていい」
「……色々と確認しておきたいところですが、まあ、そのくらいなら構いません」
「サンキュー。あと、私含め、敬語でなくていいから。気楽でいいの、ほんと」
「うん、わかった」
二人は連絡先を交換し、次回の待ち合わせ日時や場所を決めた。話を終えると小早川は暗闇に消えた。ハンスは暫し暗闇を見つめてから家に帰った。
昼休みのことだ。自分の席でパンを食べているところをクラスメイトに話し掛けられた。その女子生徒はハンスを訪ねてきた子がいると告げ、席に戻っていく。ハンスは視線を教室の扉に向けた。高崎仁美という少女が不機嫌そうな様子で立っている。ハンスはパンを袋に詰め直し、席を立った。
「どうしたの?」
そう声を掛けたところ、仁美は鋭い目付きで睨んできた。そして、低めた声で「来て」と言い、返答を待たずにハンスの腕を強引に掴み、廊下を歩き出した。そのまま人気のない渡り廊下までやってくる。外気に晒されているため、微風が二人の髪を撫でた。
「で、どういうこと?」と訊ねたのは仁美だ。それに対し、「何のことかな」と答えるハンスは困り顔だ。
「しらばっくれるな! メールは全然返さないし、電話にも出ない! 昨日もそう! どうして私を優先しないの!」
「ああ、そのことか。それについては最初に返した通りだよ。昨日の件も電話で話したように見捨てるような真似はしたくなかった。単なる巡り合わせだよ。高崎さんを捨てたわけではない」
仁美は俯いていた。俯いたまま、語りかける。
「私が……デートしたから? 我慢ならなくなったんでしょ……? そう、でなければおかしい。こんな……急に……」
すると唐突に、仁美はハンスに抱き付いた。彼の背に両手を回し、密着した。
「ほら、これでいいでしょ。私も悪かった、謝る。そうよね、褒美もなしに、」
「違うよ」
ハンスは体から仁美を離した。そして、左手で右腕を押さえる。距離を取られた仁美は動揺からか前後不覚になるが、それも一瞬のこと。すぐに問い質す。
「なんで! じゃあ、何が駄目なの! ……昨日のことはまだいい。アンタのことだから、まだ理解はできる! でも、今日はどうして!」
「だから、メールで伝えた通りだよ。放課後は予定があるんだ。その人にはお世話になったから、断るわけにも、日を改めるわけにもいかない」
「だったら、何の予定かくらい言ってよ。言えるでしょ、そのくらい」
「……遊びに該当する。詳しいことは聞いてない」
「なにそれ。そんな誤魔化しが通じるとでも思ってんの?」
「事実だからね。僕からはこれ以上何も言うことが出来ない。さあ、そろそろ教室に戻ろう。昼ご飯に割く時間が無くなるよ」
仁美は口を開け、言葉を発しようとしたが、結局やめた。そして、「教室まで送って」と言った。
市内のターミナル駅。駅周辺の開けた空間、その壁際に小早川は立っている。壁に背を預けているだけで絵になるようで、かなり目立っていた。実際、道行く人々は一瞥し、遠くに立つ者はじっくりと彼女を眺めている。ハンスは彼女に近付き、声を掛ける。
「お待たせ」
「私より遅いのは感心しないな」と言って、小早川は口角を上げた。ハンスは「参ったな」と言って、おどけるように肩をすくめた。
小早川はハンスと連れ立って、或る店に向かった。会員制の喫茶店で、店内は光量を多く取り入れており、明るい雰囲気だ。小早川は店員と顔見知りのようで、慣れた様子で会話し、つつがなく席に案内された。その席には一人で窓から外を眺める者がいた。
「瀬名、この人よ」と小早川。
「そいつか」
その人物=瀬名は警戒した様子でハンスを見る。ハンスは笑みを浮かべる。
「どうも、こんにちは。ハンス・ノイラートです。瀬名さん、本日はよろしくお願いします」
「ふん、私はおまえとよろしくするつもりはない」
そう言って、瀬名は視線を小早川に移した。
「一華。私達にこんな男は必要ない。即刻、家に帰すことを提案する」
「まあまあ、そう言わずに。色々な人と接触を持つことの重要性については説明した通りでしょう」
小早川はソファーに腰を落ち着かせた。瀬名の隣だ。ハンスには対面に座るよう指示を出す。彼は素直に従った。瀬名はハンスを正視せざるを得ないことを嫌ったのか、顔を背けていた。
「瀬名はいま私の家にホームステイしているの。極めて世間知らずなんだけど、本人はそれを良しとしているものだから改善が難しいの。たとえそれで今は良くても、将来的にどうなるのか分からないわけだし、適当に放り出すのもね。というわけで、家主としての責任を取ろうと、彼女の人格矯正を図るべく、ノイラートくんを呼ばせてもらったってわけ」
「……お役に立てるよう微力ながら尽くすよ」
「そう言ってもらえると助かる。ところで瀬名、いつまであらぬ方向を見ているつもり?」
声を掛けられた瀬名は視線を小早川に向ける。
「会話については……分かった。だが、顔を合わせる必要は感じない。電話とかあるんだろう? なら、それでいいじゃないか」
「そうもいかない。私はあなたに会話の練習をしてもらいたいだけじゃなくて、人と接することを覚えてほしいの」
この場を設けた意味を説かれ、瀬名は押し黙った。ハンスはぼんやりと二人のやり取りを眺めていた。机の下では今にも暴れ出しそうな腕を押さえている。
瀬名との挨拶から一時間後、会話の場は解散となった。店を出た小早川は腕を伸ばす。
「瀬名。私はノイラートくんと話があるから先に家に戻って」
「……時間が掛かるのか?」
「んー、どうかな。わりとすぐに終わると思うけど」
「なら、少し離れた所で待ってる。それでいいだろう? 待ち合わせ場所を指定してくれたら、ずっとそこにいる」
「そう、それじゃあ、」
小早川は駅の周辺で待ち合わせ場所に相応しいであろう、よく目立つ場所を指定した。此処から程近い。瀬名は二人から離れ、一人その場所に向かっていく。
「それで何の話かな」とハンスは訊ねた。
「所感を聞きたいなと思って。あの子、どう?」
問われたハンスは暫し無言になった。そして、
「今日はあまり会話に参加できなかったし、ただ見聞きした情報をまとめるだけになるけど、僕のことを嫌ってる……いや、違うか。警戒してる。どうしてかは分からない。他にはそうだな、何も感じるものはなかった」
「印象が薄いってこと?」
「何を聞いても、そうなんだとしか思わなかった。意外性とは掛け離れてる。正直、小早川さんの知り合いということで、もっととんでもない人が来ると思ってたから驚いた」
「酷い、なにそれ。私をどういう目で見ているか、今の発言でよく分かった」
小早川は詰問するような目でハンスを見る。
「けど、そう。あの子に対する印象、私と同じね。包み隠さず言えば、『つまらない』。外見と中身が一致してるから、知ることの喜びがない」
「見た目と性格が相応ということか。世間知らずというのも大分怪しいな」
「どうして引き合わせたか、詮索するなとは言わないけど?」
小早川は溌剌とした笑みを見せる。
「……そんな子がどうして僕を警戒するんだろう」
「それを調べるかはあなたの好奇心次第といったところかしら。以前伝えた通り、私から指示を出すことはないから、他者に踏み込むことを遠慮したいときはそうしてくれて構わない。そんなわけで、明日からは二人でよろしく。私は席を外すから。はいこれ、会員証」
小早川はポケットからカードを取り出し、ハンスに渡した。
「僕だけでは来てくれないと思うけど」
「ああ、言ってなかったっけ。私、魔術師なの。だから、あの子を来させる方策なんて幾らでもある。待ち惚けの心配なんてせずに行きなさい」
小早川は軽く手を振り、この場を去ろうとする。ハンスは咄嗟に呼び止めた。
「あら、まだなにか?」
「最近、僕の身に起こっている出来事について何か知っているなら教えてほしい」
「例えばどんな?」
微笑みを絶やさず、小早川は先を促す。
「突発的に訪れる暴力への衝動。視界に入るだけで、会話しているだけで、切っ掛けもなく人を殺そうとしている。時間が経つ毎に自分が自分で無くなっていくような、そんな感覚に襲われる」
「そう。あなたの状態に心当たりはある。体調も悪いでしょう?」
小早川の問いにハンスは勢いよく頷いた。
「獣に襲われたでしょう? あれは人にとって有害な物質で構成されている。それによって傷付けられたあなたは、その有害物質の影響を受けている可能性が高い。体調の悪化や殺意の生成は『汚染』の代表的な特徴ね。進行の果てに、あなたは人殺しを達成することになる」
その予言を聞いたハンスは間髪を入れず問う。
「治療の術はないのか?」
「無い。通常の医療行為はもちろんのこと、そういった事柄に精通している者でも不可能。そのため、発症は人格の破綻、その不可避的破滅を意味する。とはいえ、先延ばしに過ぎないにしても、進行を緩める抑制の手段はある」
小早川はポケットから小袋を取り出した。
「有害物質はあなたの人体に干渉するもの。であれば、人体、特に脳内環境の安定は一定の抑制効果を生む。この薬には人間の脳内活動を低下させる効果がある。副作用として眠気や眩暈、性欲の減少、虚脱感といった影響がある。それでも欲しい?」
「選択の余地はない」
「ノイラートくんらしい。代金はいい。これは私の善意であり、今回の都合に合わせて必要な処置と言えるから。けど、こんなものは気休め。有害物質の活動が活発化すれば、それでお終いということを忘れないで」
そして、今度こそ小早川は去った。残されたハンスは受け取ったものを眺めていた。
翌、放課後。瀬名は小早川の指定した待ち時間きっかりに姿を現わした。学校から到着までの時間を計算した時刻なので、ハンスは相手をそう待たずにいた。瀬名はソファーに背を預け、不機嫌そうにストローを啜っている。
「質問してもいいですか? 答えたくなければ、無視してくれて構いません」
「……なんだ」
「瀬名さんはどうして小早川と共にいるのかと思いまして。昨日のお話を聞く限り、あまり人付き合いを欲していないように感じたので」
「一華から何も聞いていないのか?」
「ええ、まあ。質問すれば教えてくれたでしょうけど、こういうことは当人から聞いておくものだと思いましたので」
瀬名は言うか言うまいか迷う様子を見せたが、最終的に決心したのか、口を開く。
「求婚だ」
その言葉の意味を掴み損ねたのか、ハンスは返答できなかった。それが分かったのだろう、瀬名は自身の発言に言葉を付け加える。
「私は小早川一華の夫に成りたい。だから、彼女の傍で好意を示すことにしている。彼女の家に身を寄せているのはそういう理由だ」
「成程」
「受け入れ難いか?」
「いえ、特には。ただ瀬名さんが僕を警戒している理由が判明したので、そのことに納得しただけです」
「一華は周囲に男性を寄せ付けない。てっきり、私の思いを理解してくれたと考えていた。だから、突然現われたおまえを敵と認識した。この認識は今も変わりない。ノイラートには窮屈を強いるが、このことで譲る気はない」
「構いません。というより、勘違いしてますよ。僕も彼女も、そういう関係は望んでいない」
「信じがたいな」
「客観的な根拠を示すのは難しいですが、少なくとも僕にとっては事実です。それと、僕は受験生なので恋に現を抜かしている場合ではないんです」
「そう、だったのか」
瀬名は何やら考え込む様子で視線を落とした。
「本当に一華に好意を抱いていないんだな?」
「ええ。此処に居るのも義理だけです。あなたの都合とは理由が異なります」
「そうか。よし、それなら頼みがある」
「なんでしょう」
ハンスは続きを促した。
「おまえは私の敵ではない。中立である。そうだな?」
「まさしく」
「では、私の味方にもなり得るわけだ。ということで是非、私の恋愛成就を手伝ってほしい。それを以ておまえを信用しよう」
瀬名の提案を聞いたハンスは困った顔を浮かべた。
「やはり嫌か?」
「いえ。ただ僕は恋愛の経験がありません。誰かに相談を受けたこともなければ、そもそも関心を持った記憶もない。そんな僕がお手伝いをしたところで、と思った次第です」
「安心しろ。現状、私だけの力では全く足りていないんだ。一華を振り向かせるため、他所の力を結集する必要がある」
「そうですか、分かりました。こんな僕で良ければ、よろしくお願いします」
ハンスは瀬名の提案に応じ、その手助けをすることを請け合った。
一区切りついたところで、瀬名が切り出す。
「それで相談なんだが、私はどうしたらいいだろう」
「そうですね。一応、確認しておきたいのですが、小早川さんは瀬名さんの好意を明確に把握している状況ですか?」
「ああ、いわゆる告白というものはした。そして、断られている」
「厳しい戦いになりそうですね」
「くっ」
率直な意見を述べたところ、瀬名が呻いた。
「距離を縮めないとですね。その過程で印象を良くしていきましょう」とハンス。
「たとえばどんな? 一華の前で人助けするか? そうなると、困った人間を据え置く必要があるな」
「そんな奇々怪々な行動に出た日には良くて珍獣扱いですよ。そうではなくて、正攻法です。ほら、デートとか」
「デート?」
「小早川さんと二人きりで出掛けたことはありませんか?」
「ないな。私としては一華を一人きりにすることに抵抗感があるから、出来るだけついていきたいのだが、学校を始めとしてあらゆる場所への同行を拒否されている」
「よく一つ屋根の下に住むことを許されていますね」
「一華の七不思議に追加していいぞ」
「自分で言いますか。いえ、それよりその現状を脱却するためにもデートの重要性を悟りました」
「しかし、」
「臆することはありません。今回は断られない理由を作ればいいんです。というのも、瀬名さんはこれまで小早川さんについていこうとするあまり、同行を許される理由をおろそかにしていませんでしたか? 例として学校を挙げると、学籍のないあなたがそこにいるのはおかしい。友達と遊びに出掛けるのであれば、その人たちと面識のないあなたを連れて行く必要がない。ですから、今回はあなた方ふたりが時間を共にする理由を用意すればいいわけです。デートというのはそういう意味です」
「私と居る正当性か……なら……」
「何か思いつきましたか?」
「私が夫というだけで、」
「却下です。その前段階未満であることを理解してください」
「……冗談だ。その、あれだ、一華の買い物に付き合うというのはどうだ? 荷物持ちというのはありがたいだろう。一華はよく無駄遣いすることだし、チャンスはある」
「でも、断られた経験があるんですよね? ああ、傷付かないでください。それが趣味、もしくはストレス発散の一環であると考えれば、瀬名さんは却って邪魔になると判断されただけですよ。それは誰であっても同じの筈」
自身の迂闊な発言を無力化するハンス。その甲斐あってか、瀬名は特に気にした様子もない。
「映画館とかどうですか? 共通の話題を即席で用意するには手軽なようですよ」
携帯電話のアプリケーションでインターネットに接続したハンスは膨大な情報から一定の共通点を見出し、自己にとっての有用性によって形作った情報を発した。
「映画か。確かに良さそうだな。問題は、」
「心得ています。小早川さんが映画に関心があるか、そして誘えるかですね? 聞いてみましょう」
ハンスは小早川にメールを送った。そして、瀬名とともに返信を待った。
「あ、返信来ました」
「見せてくれ!」
机上に上半身を乗り出して、ハンスの携帯電話を覗き込む瀬名。その内容を読み、顔が綻ぶ。
「これなら誘えそうですね。あとは具体的な行動テーブルの作成……その前に肝心の選定か」
「選定?」
「残酷なことに世の中には面白い映画とつまらない映画というものがあります。純粋な技術力に加え、観客の趣味嗜好の如何によって映画の評価が大きく変動するからです。もし小早川さんの趣味に合わない映画を選んだ場合、」
「苦痛の二時間。いや、その後も」
「そういうことです。幸い、先程のアプローチで彼女の好み、その大まかな傾向は分かっています。恋愛、アクション。分かりやすいジャンルで助かりましたね。あとは公開中の映画の中から条件に合致し、且つ世間の評価の高いものを選びましょう」
ハンスは再びインターネットの海に潜行し、有益と思われる情報を探索/収集する。瀬名は手持ち無沙汰なのか、ハンスの様子を眺めていた。
「こんなところかと」
携帯電話のメモアプリに良いと思われる映画をピックアップし、それぞれのストロングポイントとウィークポイントをまとめた。そのメモを瀬名に見せる。
「映画はこの中から瀬名さんの好みで決めればいいかと思います。それでは当日の動きですが、」
「ま、待ってくれ。この中から、この情報だけで決めるのか?」
「ああ、各映画のPVを視聴しますか。少し待ってください」
「そうじゃない。ここに来て急に博打を打つのかと疑問に思ったんだ。私次第と言い出すから、」
「そういうことですか。……そうですね、では下見しますか?」
「下見?」と聞き返す瀬名。
「はい。結局、映画の是非を決定付けるには視聴するしかないわけで、であれば見に行くのが良いということです。当日の動きを計画するためにも、事前に現地を調査するというのは理に適っていますし。場所は僕が案内します。お金も出すので気にしないでください」
「分かった。ノイラートの意見に従う。あと資金はあるからな」
席を立つ二人。各々で会計を済ませ、店を出た。
映画館に移動した二人。ハンスは瀬名と共に立地を確認し、チケットや飲食物の購入方法をレクチャーした。そのとき、瀬名は二十歳であると告げ、年齢区分における『大人』を一枚買った。
「ノイラートの分はいいのか?」と瀬名はチケットを片手に訊ねた。
「ええ。僕の仕事はここまでです。あとは瀬名さんが選定するだけです」
「それは困る。先程から思っていたが、伝えるべきことは伝えた、後は勝手にしろと言わんばかりに急に放るな。相談役として最後まで付き添ってくれ」
「ですがそうなると、映画の評価に僕の考えが混じります。それは映画選定時のノイズとなる。判断基準から見れば、この上なく不純物です」
瀬名は不満そうだ。購入窓口の近くに留まったまま、離れようとしない。
「瀬名さん?」
「おまえは練習台だ。ノイラートを相手に見立てることは気に障るが、二人で行動するという経験は得難いものだ。違うか?」
「まあ、そうですね」
「ノイラートを丁重に扱うことに抵抗を覚えないわけではない。しかし、それも本番を思えば苦ではない。不純物如きで手放す機会ではない。というわけだ。おまえの分も買ってくるからそこで待っているがいい」
そう言い放つと、瀬名は窓口の列に並んだ。列の長さから順番待ちの時間はそう掛からないだろう。だが、ハンスは瀬名の傍に寄った。
「な、なんだ。待ってろと言っただろうに!」
「知らなかったんですか? こういうときは一緒に行動するものですよ。それに、はぐれたら困るでしょう。瀬名さんを放送で呼び出すことに心苦しさを感じることですし」
「……ふん、待機も出来ないとは、」
「独り立ちもまだの人に言われるとは」と言って、ハンスは笑った。
すると、何を思ったのか、瀬名はハンスの顔をじっと見つめた。
「どうしました?」
「や、別に。気にするな」
瀬名は前方=窓口を見据えている。
「不快でしたか? すみません、口が過ぎました」とハンス。
「違う。いや、違ってない。あーだから、ただ驚いただけだ。私はてっきり自立できているものと思っていた。だが、ノイラート、おまえの目からは依存しているように見えたんだな?」
その問いを発する声音および顔/表情、視線は真剣味を帯びている。
「いいえ。それとも、あなたは人に頼ることを依存と呼びますか? 全幅の信頼はどうですか? 独り立ちの否定は依存を意味するものではない。僕はそう思います。あなたは今、僕の助けを受けて成長している最中です。それは自立しようという気概を示すものでしょう。いずれはあなた一人で小早川さんを相手にするんです。もしくは本番でも僕を連れて行きますか?」
「ふん、馬鹿を言え。吉報を届ける。家で待っていればいいさ。そのときは今みたいについてこなくていいからな」
瀬名は堂々と言ってのけた。
翌日の昼。ハンスは校内の廊下にいた。人気もなく、遠方から騒がしい声が響いてくる場所。
「こっちの呼び出しを断っておいて、そのくせ人を呼び出すなんて都合がいい」
窓辺に腕を預け、市街を見下ろしていたハンス。その背に声を掛けた仁美はすこぶる機嫌が悪い。ハンスは簡素に詫び、「助言が欲しいんだ」と言った。
「助言? なんの?」
「一口で説明すれば、恋愛」
「はー? 何が悲しくてお使いも出来ない受験生の頼みを聞かないといけないの」
「他に頼れる相手がいない。それに高崎さんは恋愛経験が豊富なようだから、その点を見込んだのであって、単なる消去法だけが理由ではないよ」
「そんなこと言われてもね。で、なに? 告白したの? されたの? それともまだ?」
「いや、僕はあまり関係ない」
ハンスは事情をかいつまんで説明した。個人名は出さず、それぞれの性格も一般的に翻訳した。
「なんだ。アンタ、思い切り部外者じゃない」と言って、仁美は溜息を吐いた。「素人が善意で口出しすることじゃない。それはアンタがよく分かってそうなことだけど、話を聞く限り、当事者も相当ね」と言った。
「その子、世間ずれしていないんだ。純朴と言い換えてもいい」
「どこでどうやって知り合ったんだか」と仁美。
「複雑なんだ、色々と」
「あ、そ」
それから、仁美はアドバイスとして、極力背伸びしないことを伝えた。身の丈に合わない行動は滑稽に映る。一緒にいるとき、恥を掻かしてはいけないと。
「私から言えるのはね、相手と付き合えたら終わりじゃないってこと。むしろそこから始まり。だけど、迫り来るハードルを常に越えようと、自分を良く見せようとすれば、いつかは限界になる。そんなとき、相手は別れてしまえば済む話だけど、壊れたその人はどうなるの?」
「……もしかして僕の心配?」
「私には手伝いという名の行動が過剰に見える。私の知る限り、アンタはお節介焼きでも何でもない。優しいかと問われたら、別にそんなことはない。そうするだけの事情もない」
「眼前に困っている人がいたら、手は差し伸べるものじゃないかな。それがたとえ、役立たずの手であろうとも」とハンスは平素と変わらない様子で告げた。
「そこよ。気持ちと行動が釣り合ってない。その程度で、単なる情けで、どうして他人の恋愛を応援しようと言うの。自分の弱さを口にするなら、責任は持てない筈。だから、私にはその場しのぎの正解を選択しているようにしか見えない。手を引け。アンタの居場所はそこにはない」
「そうだね」
ハンスはあっけらかんと同意した。
「高崎さんの言う通りだ。反省するよ。事情があるから、距離を置くことはできないけど、軽はずみな行動は控えることにする。気付かせてくれて、ありがとう」
「バカ。何も分かってない。物分かりが良いように見えて、結局」
仁美は罵倒を吐くと、そのままハンスの前から去った。
放課後、ハンスは喫茶店に足を運び、瀬名に事情を話した。
「なるほどな」
話を静かに聞くと、瀬名はそう呟いた。無表情で、瞼を閉じている。
「ノイラートの言いたいことは理解できた。これからは私一人で進めていこう。元々、私の都合で巻き込んだのだ。今更、おまえを警戒しようとも思わん。道半ばだが、ここでお役御免というわけだ。これまでありがとう」
「……いいえ、乗りかかった船です。映画には付き合いますし、当日の動きも一緒に考えます」
「応援する理由がないと分かっていても?」
「途中で、自分の都合で無視なんて真似できません。これが僕なりの責任の取り方です」
「そうか。なら、後悔するなよ。今日は映画を三本見る予定だからな」と瀬名は言った。
宣言通り、その後ふたりは映画館に長時間滞在することになった。予定を履行し、映画館の外に出たとき、空はすっかり暗くなっていた。
「なあ、まだ時間に余裕はあるか?」
「はい、大丈夫です」
「本当だろうな」
にじり寄り、ハンスを見上げる瀬名。その確認に対し、「ええ」とハンスは答えた。
近場の公園に足を運ぶ。駅から最も近い憩いの場であるため、人の姿が散見される。二人は芝生の上を歩き、木々の近くに設置されたベンチに腰掛けた。
「決めたよ、観るべきものを」
「そうですか」
一つ頷くと、瀬名は映画の題名を告げる。それを聞いたハンスは「良いと思います」と返した。
「おまえのおかげだ。ありがとう」
「いえ、僕は特に。瀬名さんの頑張りがあってこそです。……では、」
「ああ。一華を誘う。……ふふっ、緊張するな」
自分の状態を可笑しく思ったのか、瀬名は笑みを溢した。ハンスはその様子を微笑ましそうに見つめる。瀬名はその視線に気付くと、気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「変か?」
「注いだ労力の分、期待しているだけのこと。そのことで緊張するのは決して『変』ではないですよ」
ハンスは自身の見解を語り、瀬名の状態を普遍的なものと教えた。
「決行はいつにするつもりですか?」
「今週の日曜日だ。予定が無いことは確認してる」と瀬名。
「そうでしたか。では、お店の予約はどうしますか? 携帯電話が無いのであれば、こちらで済ませますが」
「場所は決めてある。頼もう」
瀬名は当日の予定をハンスに話した。彼は手筈を整えていく。数本の電話を入れたが、どれも人数などを指定するだけなので、滞りなく予約は完了した。
「上手くいくといいですね」
「吉報を届けると言っただろう。練習もしたんだ。当日は緊張するだろうが、そのことを心配しても対策のしようがない」
「成れるといいですね、夫に」
「喜べ、結婚式には呼んでやろう」
「学生服で出席出来たらいいですね」
「なんだとー」
そうやって会話するうちに気付いたのだろう。瀬名は言う。
「おい、大丈夫か?」
問われたハンスは深呼吸し、相槌を打つ。
「持病のようなものです。薬も飲んでいますし、直に収まりますから気にしないでください。」
「無理するな。引き留めて悪かった。今日はこれで解散としよう。駅まで送る」
瀬名は立ち上がり、ハンスに手を伸ばした。ハンスはそれを数秒見つめた後、自力で立ち上がった。
「私では不満か? これでも力はあるぞ」
「伝染させるわけにいかないので、接触を控えただけです」
「持病と言っても、実際はエセリアルの侵蝕だろう。なら、気にするな。物理的接触は問題ない」
そう言って、瀬名は強引にハンスの手を取る。
「知っているんですか?」
「多少、知識を持つだけだ。詳しいわけではない。ほら、行くぞ」
瀬名に引っ張られる形で、ハンスは歩き出す。
「教えてください。エセリアルとは何ですか?」
「そういう質問はするんだな」と瀬名。漏らした言葉に続きはない。
「どういう意味ですか?」
「おまえは、私のことを聞かなかったし、どうして私が一華を欲するか知りたがらなかった」
「そうですね」
「何故だ」
足を止め、振り返る瀬名。
「聞く必要がなかった。一つ理由を挙げるとすれば、それだけのことです」
「必要ない……か」
瀬名は笑い出した。おかしくて堪らない様子だった。ハンスはぼーっとした様子で相手を見ている。
「私は、いざという時はおまえを夫にしようと考えていた。幾許かの時間で良い人だと感じられたからだ。しかし、そうではないようだな。ノイラート、おまえは興味がないだけだ」
「誤解ですよ」
「何が誤解なんだ。聞かなかったことは事実だ! おまえは私に踏み込まなかった。私に触れようともしない! 思い返せば都合が良いだけだった。私の頼みを聞いて、私の手伝いをした。どれも受動的だ。全てが『応答』でしかなかった! それがおまえの本質だ、ノイラート!」
「困っている人が居たら助ける。助けを求められたら応える。僕にとっては当然のことですよ」
「……筋金入りだな」
瀬名の表情は暗がりで判別が難しい。だが、ハンスは特別見ようともしなかった。
「すまなかった。私が勝手に期待を寄せて、勝手に裏切られたと感じただけだ。単なる自爆。おまえを責めるようなことではなかった」
「構いません。むしろ僕も自分の至らなさを理解できました。ごめんなさい」
それから駅に到着するまで二人の間に会話は無かった。
次の日。ハンスは久しぶりに自室で勉強に耽った。外出することもなく、起床から就寝まで彼は言葉を一言も発さなかった。
その翌日の夜。携帯電話が震えた。相手を確認すると、小早川からだった。呼び出しに応じるべく、ハンスは家を出た。
押し寄せる寒気。月なき夜。瀬名は公園の木々の下に立っていた。やってきたハンスに気付くと、彼女は口を開く。
「こんな時間にすまない」
「いえ、それよりも、」
「失敗した。私は彼女の要求する基準を満たせなかった」
瀬名は端的に事実を伝えた。ハンスは相槌を打った。瀬名は彼に近付き、胸元に顔を埋めた。
「慰めてくれ」
「拒否します」
「頼むよ。おまえは、頼みなら何だって聞いてくれるだろう」
「それはあなたの幻想に過ぎません。ここで僕が抱きしめても、きっと後悔に終わります。そんな残酷な仕打ちは出来ません。今の僕には瀬名さんを助けられない」
「可能さ。私は両性具有。おまえを受け入れることは容易だ」
「肉体的結合で人格を救う。そんな芸当、僕には不可能です。傷心の中、あなたは僕に救いを求めている、救いを目撃しようとしている。だからといって行為に及んだところできっと後悔します。あなたが欲したのは小早川さんだ、僕じゃない」
瀬名はハンスからそっと離れた。後退する形で生じた距離は二歩分。すなわち約一メートル。
「そうだ。私が欲しいのは一華だ。おまえじゃない。ハンス・ノイラートは小早川一華の代替には成らない」
「それが分かっているなら、」
「だとしても、零でいるよりは良い。要求する基準を満たせずとも、所有は私を満足させる、不安から脱却できる。本物の銃でなくとも、玩具の銃でも、それが滑稽で愚かしい行為であろうとも」
ハンスは何も言わない。
「……どうやら彼女は私達の衝突を望んでいるらしい。理由は明白だ。彼女はおまえに期待している。衝突で生じる何かを欲している」
「乗らない手もあります。相手の思惑を読めているなら、むざむざと従う理由はない筈」
「それがあるんだ。ハンス・ノイラート、彼女の一番であるおまえを倒せば、私の位置は自動的に繰り上がる。おまえを見逃すということは私が二番目であることを自認するも同然なんだ」
「そんなこと、」
「ないとは言わせない。おまえのアドバイスは、有効性はどうあれ真摯だった。その分、私は彼女に近付くことが出来た。だから、どうしようもなく理解できてしまう。あれは戯れであると。一華は私を介在させることで、ハンス・ノイラートと遊んでいた。おまえは私を通じて小早川一華という人間を知り、その心に近付いていた。違うか?」
「……あくまで否の立場を取ります。一連の行動は彼女の理解に繋がったとも言える。それは認めます。しかし、その理解はあくまで推定でしかない。そして、順位にも同意しません。その認識はあなたの、或いは僕らのものだ。彼女個人の意思に発するところのものではない。想像を根拠に相手を排除しようという考えは短絡的です」
「ふふっ。彼女個人の意思か。そうだな。今の言い方では私の思い込みと受け取られてもおかしくはない」
「……確かめたのですか」
「無論、直接。これで分かっただろう。私の戦う意味が。おまえを射殺す理由が。それとも、衝突を避けるため、私に降るか? おまえが私のものとなれば、自然と彼女の中の順位も変動するかもしれない。その可能性に賭けてみるのも悪くないな」
「それでも、僕はあなたの夫にはならない」
「……ふっ。闘争を否定し、勘案も拒否するか。なら、」
瀬名は俯いた。前髪に隠れ、その表情は窺い知れない。ハンスは沈黙していた。
「私のために死んでくれ、ノイラート」
ハンスは瞼を閉じた。数秒後、瀬名を見る。
「あなたの幸福に繋がりますか?」
「ああ」
ハンスは言葉を紡いだ。瀬名は顔を上げた。
「あなたの疑問を解消するために伝えますが、人に死を請われてという最期に思うところがないわけではない。でも、僕はあなたに笑顔でいてほしい。ならば、僕の使い道としては真っ当な気がする。他に手も無いようですし」と言うと、ハンスは笑った。
「すまない」
「せめて悔やまないでください。僕としては瀬名さんには胸を張って生きてほしいので。うん、これは僕の遺言だな」
ハンスは瀬名に別れの言葉を告げ、背を向けた。瀬名はその場に腰を着いていた。
公園を出たところで、ハンスは見知った顔と遭遇した。
「そうやって、あなたは他人のために生きていくの?」
「そうだよ。他人のために生きることは巡り巡って自分のためになる。利己的であることは重々承知しているよ」
小早川は何も言わない。
「納得いかないようだね。瀬名さんを追い詰めたのは君だろうに」
「私は戦いを期待していた。あなたの葛藤、その中で生まれる生存戦略を。けれど、見込み違いだった。生への緊迫であれば変異しうると想定していたけれど、あなたは頑として譲らなかった。自己の変革を拒絶した。ノイラートくんに褒めるところがあるとすれば、エセリアルの侵犯にも耐えうるほどの『一貫性』ね」
「あまり褒められた気がしないな」とハンスは苦笑した。
小早川は移動しない。ハンスの前に立ち塞がったまま、告げる。
「……あなたの死は無意味。私はあの子を選ばない」
「瀬名さんは納得したいんだ。僕がいれば、『ハンス・ノイラートのせい』だと責任を押し付けてしまう。ただ僕がいなくとも、あの人は原因を外に求めるだろう」
「だったら、」
「それでも、いつかは理解する時が来る。あの人は自己の変革を欲するようになる。それに心配はしていない。瀬名さんは切り替えが早いし、僕との約束もある。ああ、それと小早川さんも見守ってくれることだろうから」
ハンスは一頻り考えを述べると、小早川の横を通り過ぎる。
「私のために生きろという願いは通じない?」
「私のために死ねという願いの方が有意義だ」
ハンスは部屋に戻った。台所に置いてある包丁を手に取り、首に深々と突き刺した。
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