第5幕 チェーン

*チェンジ

@お水の世界

 腰痛との戦いには勝ったものの、更なる人生の課題を、また夫から与えられたのだった。三人目の子供が二才に成る頃、次なる運命の訪問者が我が家へと遣ってきた。近隣の二十代の息子さんだった。

「おじさん何か仕事ないですかね!」

「店でもやってみるか!お店作ってあげるからそこの店長をやったら」

私は二人の会話を横で聞いていて耳を疑った。

簡単に物でも買うように、(一軒、スナックの店を君のために開こう)と言うのである。夫は既に紳士服店の傍ら二軒のクラブを所持しており、もう一軒、店を出すことなど簡単であったのかもしれないが、あまりにも安易な決定に、私は飽きれてしまった。

そしてその後、この決定が私の人生にも大きな影響を与えたのだった。

貸し店舗捜しから始まり、看板のデザインを担当するなどオープンまで関わる事となったが、それはそれで楽しかった。店舗も決まり、バブル時の突貫工事によるリフォームとなったのだが、依頼をした工務店からは、

「この時期、やってもらえるだけ有難いと思わなくちゃ!」などと暴言を吐かれた。

世間のすべてが、驕りの蔓延する時代であった。

年末間近にやっとオープンに漕ぎ着け、開店祝いには主人の仕事関係者が沢山訪れた。

初めて夫の背景の大きさに驚くと共に、私だけ置いきぼりにされていた思いがした。私の知らない時間の中で主人が生きていたことを、改めて思い知らされたのだ。

数分前まで、家事をこなして来た家から、精一杯お洒落をして開店祝いに駆けつけたのだが、そこへ来ている女性達を見回すと洗練された生活臭を感じさせない人ばかりだった。

(あ!みんな綺麗!)蛙が初めて海を見るような心境だった。

華やかな席の中で、自身の小ささと、家事にくたびれた姿に惨めさをも感じた。

毎日の育児に加え、食事の仕度と片付け、掃除洗濯、義母や義父の世話。

一日を二十六時間にしても間に合う量ではなかった。

そして主婦業は汚物処理業でもあった。食べ残しの片付け、洗濯の汚れ落し、生ごみの処理、オムツ換え、部屋のゴミ集め、トイレ掃除。

自分では綺麗でいたいと思ってもそうはさせてくれなかった。

私は精一杯の笑顔で来客に挨拶をして回ったが、夫にとっては隠したい存在だったのかもしれない。

私の潜在意識の中で

(いつか綺麗に着飾り注目されたい)と願ったのであろうか。このオープンから数年後、意外にも自身がこの店に立つ羽目になるのだった。


子供はまだ七才、四才、二才の時、この店を任せていた青年は、親戚の家業を手伝わなければならなくなり、店長職を辞退してきた。いつも何かがあると、私にお鉢が回って来た。まさかカラオケスナックの店長役が、この私に廻ってこようとは夢にも思っていなかった。

夫はお願いするでもなく、

「めぐみ、店をやってみないか」

「子供はどうするの?」

「ばあちゃんも元気になったんだから、見てて貰えばいいだろ」

私は何で引き受けたのだろう。いつの日か心の奥深くで、

(私も綺麗に着飾りたい)と思ったことが実現してしまったのだろうか。


そして、素人の水商売が始まったのだった。

「いらっしゃいませ。何をお飲みになりますか」

このぐらいのことなら一日で慣れもしたのだが、お客さんの応対にはどぎまぎする毎日であった。

「ママ、バーボンキープして」

「はい」とは言ったものの、

「ねえ、バーボンってなあに?」と、

店の女の子に尋ねる有様だった。

お酒には恨みがあったので種類などにも関心がなかったし、洋酒はウイスキーかワインぐらいしか覚えがなかった。

そして、下ネタ好きのお客さんからは、うんざりするほど、えげつない話を聞かされた。来店し、酔い始めたら下ネタが始まる。そこまでは我慢できたが、私の太ももや胸をギュッと鷲掴みにした時は、思わず平手打ちをしてしまった。

「バシッ」と、いい音がした。

「何だ、この店は!まるでNHKみたいな店だな!」と、毒づかれたのだが、

(酔っ払いにしてはなかなか面白い事を言うな)と関心をしたものだった。

時にはニッカボッカのお兄さん達が、まるで土佐犬のように睨み合いを続け、すわ取っ組み合いという時に、私が顔の間に割って座ったこともあった。

常連客はこんな例外を除くとみんな良い人たちばかりだった。

東大卒のバツイチさんや、離婚騒動中のカメラマン、独身の壮年芸術家、「あの店ならいい」と奥さんに公認を貰っている二人ずれの銀行マン、カラフルな色のニッカボッカを履いたジャニーズ系の青年達、職業不詳のオタクぽいバイク青年、いつも「思い出まくら」の歌をリクエストする中小企業の常務さん、おせんべい好きの和菓子屋の檀那、ベートンベンが好きなイケメン君。こんな人たちがこの店を愛してくれた。カラオケがあったせいか、若者から年配の人まで幅広い層のお客さんが来てくれた。

スタッフといえば小太りの女性チーフと、ニキビだらけの芸人の卵、デビ夫人のようなホステス初経験の婦人、それに尾崎豊の熱狂ファンの沖縄女性、幽霊に怯える東大生等であった。

それに加え主婦の私がママだというのだから、

「この店はお化け屋敷かよ!」と

お客さんに毒づかれてしまうのも無理はなかった。歌にしても童謡唱歌と懐メロぐらいしか、まともに唄えなかった私であったが、この店でかなりの曲をこなせるまでになった。しかし、こんな素人がやっている店が儲かる筈もなかった。


援軍として夫がいつの頃からか面倒を見ていた、台湾生まれの美人姉妹をアルバイトとしてこの店で雇う事となったのだが、これがまた一騒動の種となった。

夫は彼女たちの父君と大学卒業迄、面倒をみることを約束していたらしいのだが、そんな事も初耳だった。国籍に関係なく女は誰でも自分が一番注目される存在でありたいと思う故か、

「ママがお客さんからチヤホヤされるのが気に入らない」と姉の方が不満を唱え始めたのだった。私は家事が本業なのだからそんな事はどうでもよかった。早速、前の店長が残していったクリーニングされた白のワイシャツに黒のズボン、そしてエンジの蝶ネクタイを着けて厨房に入った。それでも、少しでもお客さんが私の方に興味を持つと焼き餅を焼かれたのだ。

(なんでオーナーの奥さんが従業員にこんなに遠慮しなければならないのよ!)と思ったが、経営を考えれば、彼女達は重要な存在だった。

焼餅はこれだけではなかった。何度となく自宅から電話がかかって来たのだ。

「ママ電話ですよ。社長からです」

「もしもし、何なの」

「今日は何時に帰るの?」

「私はホステスをしているのよ! お客さんに迷惑だから用もないのに、毎日電話するのは止めて頂戴!」

怒鳴ることはなかったのだが、無償に腹が立った。与えられた仕事を精一杯やる事が私の生きる道。そう思っていたからホステスにも成りきったのだが、決して主人の心を満たすことではなかった。

義母からも、ミニスカートを履いて出勤する私に、

「そだいな格好して、なんだい!」と、子供を預ける際に、時折、水を差される事もあった。家事と育児と両親の世話だけで十分なのに、それに加えホステスまで遣る事になったのだが、これだけでもまだ済まなかった。


@赤の他人

いつ、どう決まったのかは定かではないが、義姉が同居する事となったのだ。

これだけでも大事件なのに、義姉は精神的に病んでいるというのである。

(二才と四才と八才の子供に加え、義母、義父の世話がいるのに夫はいったい何を考えているのだろうか?)と、怒りにも似た感情と邪推が渦巻いた。

(もしかしたら、美貌を持った素敵な義姉なのかもしれない。そんな女を同居させて家庭でニヤニヤ眺めながら楽しもうとでもいうのか?)

しかし、初めて見た義姉は、一目で精神を患っていることが分かる動きをした。太った体を重たそうに歩き、小刻みに手と唇を震わせていた。顔も浮腫んでいた。まるで想像と反していたのだ。

(決まってしまったのなら前向きに考えるしかない)と自分を諌め、義姉と一緒に生活する時のことを頭のなかでシュミレーションしてみた。

(一緒に買い物に行ったり、台所に仲良く立っておしゃべりしながら食事も作れる。それに子供の面倒や義母や義父の面倒だって看て貰えるかもしれない!)こんな楽しい想像を巡らしたのだが、すぐにことごとく打ち破られた。

義姉との、一緒の買い物も、お料理も一度として叶うことはなく、それどころか、義姉の洗濯まで増える始末だった。義姉は仕事探しに一日中外に出て行った。もちろん雇ってくれる会社など何処にもなかった。


以前にもこんなことがあった。

私が二人目の出産後、一か月も経過しないで寝ていたある夜、隣の部屋から、こんな会話が聞こえてきた。

「お孫さんは家で引き取りますから、おばあちゃん安心して下さい」と。

私は話の全容がその言葉だけで理解できたのだが、その孫とやらを面倒みるのも結局、私なのである。

「頭おかしいんじゃないの!いい加減にしてよ」と、

赤ん坊を抱えながら隣の部屋から、金切り声を上げた。両親のいない孫が罪を犯し、その事でお婆さんから相談を受けていたらしい。頼まれたら嫌とは言えぬ夫である。きっと本気であったのだろうが、産後の体も元通りになっていないのに、こんな大変なことを私は受け入れることなどできなかった。

暗い部屋の中、新生児を抱き、布団の上で(この私はいったいどうなるのよ)と、泣きたい気持ちでいっぱいだった。

夫曰く(夫が犯罪者だったら妻も犯罪者なのだ!)つまり〈運命共同体であり、夫という大木に咲く花が妻だ〉とでも言っているのだが、到底納得ができなかった。

結局、我が家にその孫は遣って来なかった。


義姉は期限なしで一緒に生活する事となった。この義姉も、正確に言うと義兄と正式離婚をしていて、私達とは赤の他人となっていた。義兄が、義姉の意思が希薄な時に勝手に離婚手続きをとってしまい、夫婦の縁を切っていた。

夫は(義姉がかわいそうだ)と今回の決意をしたようだ。兄の罪も〈自分の事〉として捉えていたのだったのだが、これで義姉が加わり、子供三人に病弱の義母と大酒飲みの義父の、総勢八人家族となった。

夫の次なる計画は、職がない義姉に、夜だけ営業していたスナックを昼にもオープンし、喫茶店としてそこで働いて貰うというものだった。厨房内なら。義姉でもできるであろうことは私にも分かったが、それだけでは、営業は開始できない。細かなリテールは夫にはなかった。

これで喫茶店のオープンに向けて、ランチタイムのメニュー作成、仕入れ等、フル回転の毎日が、私に続いたのだ。

義姉はコーヒーメーカーの講習会に参加し、厨房の仕事をマスターしていった。大学を出ていたので、学習に対しては何も問題はなかった。

私は、河童橋までランチに出す食器を購入しに、子供を連れて向かった。蓋の付いた重箱が欲しかったのだ。

(このお弁当箱の片隅にドライアイスを入れて、お客さんが開けた時にスモッグが出てきて驚かす!)などという他愛もないアイデアを考えていたのだが、スタッフに却下されてしまった。私は、面白い事が大好きであった。抹茶ドリンクや健康ジュースなど変わったメニューを色々と考案したのだが、時期尚早だったのかあまり売れなかった。毎日のランチメニューも作成し、近くの八百屋へも子供を自転車に乗せて仕入れにも出かけた。

つかの間の空き時間に、我が家で昼寝をすれば、

「お母さん!ご飯まだ!」と、

義母が私の寝る二階にまで起こしに来たられた時には、些か大声で泣きたかった。

(私は今、思い出作りをしているんだ)そんな観を深めながら間断なき家事闘争を続けた。

この先どんな展開が待っているのか想像もつかずにいたが、義姉との奇妙な生活はあっさりと一年で終ってしまった。故郷の北海道で実母と一緒に暮らすこととなったのだ。実家は銘家の為、精神の病んだ娘を故郷へ戻したくなかったと聞いたが、哀れに思ったのだろうか、娘を呼び寄せた。義姉は、荷物をまとめて飛び立って行った。

そして、五年間付き合った酒好きの義父とも、この間に突然の別れをしたのだった。

お酒と心中をしてしまったのだ。


@引越し

妻、母、嫁、ホステスのひとり四役を二年ぐらい演じた頃、引越しの話が我が家に持ち上がった。このころ、夫は自営から会社組織への参画をしていたのだが、その仕事関係での転居話であった。

些か夫も一大事と思ったのか、時々この話を私達に打診してきた。ここで私が

「絶対いやよ!新築して七年しか経ってないのにとんでもない!」と、大反対すれば実行されなかったのかもしれないが、私は少なからず心の何所かで引越しを望んでいた。この場所が気に入らない訳でもないのに、変化を好む性格なのか、安住の地である筈の新居でさえ移る事に恐れはなかった。

しかし義母は、

「引っ越すなら独りで行きな!」と、当然反対の意を唱えた。

やっと田舎暮しから別れを告げこの地に慣れたのに、新たな土地へ行くことなどこの義母には酷なことであった。それでも引越しは決定事項となり、転居先の家を見学しに行った。ビルの立ち並ぶ合間に、古い民家があった。

「ここだよ」

「えー・・凄い家だね」

暖炉のある大きな家だったが、かなり古びていた。

「会社でリフォームしてくれるから大丈夫」と、夫は満足げに言った。


そして一か月後、この家のリフォームの立会いに出かけて行った時の事だった。

いつもなら夕方になるとシャワーを浴び、気合を入れて夜の出勤に行くのだったが、この日は、とうとう体が悲鳴をあげた。ものすごい頭痛に襲われ工事中の絨毯の上に倒れ込んでしまったのだ。今までに経験した事のないほど頭が割れるように痛かった。幸い息子と一緒だったのでタクシーで病院まで搬送して貰ったのだが、医師から髄膜炎との診断を受け二~三週間入院することとなった。疲労している体に菌が入りそれが骨髄に達したらしい。

「ともかく栄養をつけて休養をするしかありません」

と医師から宣告され、毎日、朝から晩まで良くこんなに寝られるというほど眠った。お見舞いには夫の仕事関係者から、お店のお客さんまで多くの人が花束を持って遣って来てくれたのだが、見舞客の中に、大きな百合の花束を持ってきてくれた常連さんがいて、私のベットの周りはさながら祭壇のようになってしまった。まるで白雪姫にでもなったようにこの中で三週間眠り続けた。

(これはひょっとすると天の恵みだったのかもしれない)

きっと暴走する私にブレーキを掛けたのだ。


長男が小四、長女が小一、次女が幼稚園の夏、やっと引越しを敢行した。クラスメイトと別れる事が子供たちにとって一番の試練であったようで、次女が引っ越しの荷物を積んだ車が走り出した時、

「朝顔ー」と、

泣き声で私に訴えた。学校で育てていた朝顔の鉢が、玄関先に置いてきぼりになっていた。彼女のこの地を離れる寂しさが伝わって来た。

「新しい処に行けば、もっといっぱい友達が増えるよ」と、教訓めいた言葉で大人の勝手をカモフラージュした。


引越し先は池袋。築四十年の一軒家をリフォームした綺麗ではあったが、先住民たちが私達家族を悩ましたのだった。

引っ越しが終わり、段ボールの合間で食事をしていると、居間をチョロチョロと横切っていく何かが目に入って。紛れも無く灰色のネズミだ。

「きゃあー!!」

ありったけの悲鳴にネズミも驚いたようで「びくっ!」と飛び上がったように見えた。

その後、ネズミ戦争がヒッチコックの映画のように続いたのだ。

ネズミ捕りを仕掛け、一匹のネズミが捕まると仕返しをしてきた。恐ろしいほどネズミ達の意思を観じた。

まず、最初にやられたのはアンテナ線だった。チェストの裏に引いたアンテナ線が齧られていた。次に、ネズミ捕りに犠牲者が出ると電話線を齧られた。退治のプロに相談し、毒団子を仕掛けてみても、全く見向きもせず、テーブルの上に置いてあった、遠足用のパンまで齧られた。家具を動かしたり、アルミホイルを鴨居の穴に詰めたり、毎日ネズミ退治に頭をひねった。

次なる施策は毒団子の置く場所を変え、庭の巣穴近くに置いたのだが、名案と思ったこの策が、なんと我が家に犠牲者を出てしまったのだった。   

招かざる客として我が家へやって来た子犬が、十三年目にして毒団子を食べて数日後には死んでしまったのだった。賢い愛犬が、こんなピンク色をした変な物を食べるとは思っても見なかった。ふらふらとし出した愛犬はガレージの隅に倒れ、もうお終いである事を私たちに悟らせる姿だった。息を引き取る時、子供たち三人と大泣きをしながら手を合わせたのだが、愛犬の目からも大粒の涙が流れていた。白い布の中に子供たちと一緒に愛犬の体を持ち上げると、硬直した体が死というものを私達に実感させた。

こんな騒動が有りはしたものの、

(ネズミが居間を横切る新居。こんな家も、今時なかなかあるまい)と、

悪戯でお茶目な気持ちがこの家での生活を支えていった。


スナックも転居先からでは通うことが出来ず、人任せにした所為か、大きな赤字を出して人手に渡すこととなってしまった。

私もひとつの幕を下ろしたような感じを受けた。



*闇夜の国から

@ありがとう

ここ池袋へ引越をしてから一年あまり経った夏、義母の体調が悪くなり、近所の入院施設を持つ小さな病院に行ったところ、担当医に呼ばれ病室に入ると、なんと以前私が髄膜炎になった時お世話になった医師だった。ここは、私が入院していた病院から一時間以上も離れている病院だというのに仰天した。これも偶然ではなく必然なのだろうか。


その後、入退院を繰り返していた義母が八十年の人生に幕を降ろした。

我が家に来てから十年の歳月を一緒に暮らした人であったが(もっと愛すべき人であった)と今になると想う。実母の時もそうだったが(何故もっと、いろんな所へ連れて行ったり、美味しいものを食べさせたり出来なかったんだろう)と。限りある命を実感できない愚かさを、今の私も繰り返している。


 実母との別れは思ってもいない程早く来た。寝たきりで我が家にやって来た義母が、一番先に亡くなってしまうだろうと誰しもが思っていたのに、順番は全く違っていた。

ある日、母は足元がふら付き、路上で転んでしまったというのだ。膝と頭を打ち入院検査をすることになった。様子を見に実家へ行くと、ちょうど入院の準備をしているところだった。母は、心細そうに、

「転んでお凸をぶつけちゃって、ちょっと病院へ行って来るわ」

 この言葉を最後に、母が外を歩く姿を、二度と見ることができなかった。

(大した事はないだろう)との推測は裏切られた。

母の体は、長年の苦労の蓄積で悲鳴を上げ、〈過労、膠原病、腎不全、低血圧、栄養失調〉と、驚くべき診察結果が知らされた。看病のために、四人兄弟が代わる代わる病院を訪れたのだが、母の容態は一行に善くならず、一ヶ月もするとお腹に水が溜まりパンパンに膨らんでいった。母は幻想とも現実とも見分けがつかないのか、

「この方はどなた?」などと、誰もいない壁を指して、私に気味の悪い質問をした。

「え!誰の事?」

「今、部屋にいらした女性よ…」母は病室の入り口に目をやり、空(くう)を見てそう言った。

(実の世界と、影の世界が本当にあるのかも?)と、坦々とした母の言葉に困惑しながら(もう死後の世界と交信しているのかもしれない)と思った。

それでも、この時はまだ、医療の力を信じていだ。

 そして私が看護当番の日、病室のベットにショッキングな母の姿を見た。母の両腕が白い綿紐でベットの手すりに縛られていたのだ。

「何で縛ってあるんですか?」と、看護婦さんに胸の詰まる思いで尋ねると、

「鼻に入れてあるチューブを取ってしまうんですよ」と、さらりと返答された。

酸素吸入のためのチューブを、何度言っても手で取り払ってしまうと、言うのだ。

「かわいそうです。こんなのかわいそうです。もっとちゃんと看護してください!」と、こんな言葉さえ言うことはできず、

「そうですか・・・」と、

喉まで出てきた抗議の言葉を飲み込んだ。

看ていても、可愛そうで仕方がなかった。

「ねえ、解いて!」と、母は縛ってある手を私に見せた。

 堪り兼ねて紐を解くと、直ぐに手でチューブを引き抜いてしまった。もう、ここに居る母は昔の母ではなくなっていた。

大正生れでありながらも高女まで学び、タイプ、書道、編物、洋裁、和裁、着付け、セールスと、何でもこなす才女であった。働き詰めで、女手一つで四人の子供を育て、我家も二度に及び建て替えてくれた。ついこの前まで、しっかりとした言動で家事もきちっと自分でやっていたのに、突然の変り様だった。ベットに横たわる母は、

「ぞうさん!ぞうさんよ!」と、言って、空(くう)を眺め、手をバタバタとさせた。

 目にも白く幕が架かり、私の顔に焦点を合わすこともできなかった。

私はこの時初めて(もうだめなのかもしれない)と。

胸の奥に過去から蓄積された大きな津波が、音もなく押し寄せた。満杯に溢れたしょっぱい塩水は、顔のいたるところから吹き出た。

「お母さん!ごめんね」

 再び縛られた腕を正視することも出来ず、いそいそと母の傍を離れ、逃げ帰って来たのだった。

 その日の夜、病院から「母危篤」の連絡が入った。兄弟四人全員が駈け付け、母の周りを囲み最後まで改善を祈った。

「耳はまだ聞こえるから話かけよう」と兄が言った。

「お母さん、お母さん、まだ早いよ。めぐみだよ」

「めぐみが一番お母さんっ子だったから」と二番目の姉が言った言葉に、姉としての寂しさを感じた。

(なんでこんなに早く死ななきゃ成らないの)そんな思いで一杯だったが、母は「さよなら」も言わずに私たちの前から去って逝った。もっと、もっと、母にすべきことがあったはず。

もう、何もできない。母の成仏を祈ることだけ。

「お母さんごめんね。女手一つで私たちを育ててくれてありがとう、本当にありがとう。また私たちの周りに生まれて来てね」

 寒い日に母の告別式があった。


 この日に、なんと母の死を何も知らずに、遠くから二組の訪門客があった。

「久しぶりなので、おばさんはどうしているかと想い寄ってみたんです。まさかお葬式の日だったなんて!」と、その夫婦は驚きの言葉と共に涙ぐんでいた。本当にこんなことってあるのだ。

(虫の知らせ)だったのか、何年も会っていなかった人が母に会いに急に訪問してきたのだ。そして、もう一人の壮年も、

「昔お世話になったので、寄ってみたのですが残念です!でも、僕を呼んでくれたんですね・・・。」「おばさん、ありがとね」

 こんな遠くの人々をも引き寄せ、別れの挨拶をしに来てもらう母は、何と偉大なのだろうか。私達は、母の生き様を魅せられた思いがした。名誉も地位もない一婦人の葬儀なのに三百人以上の弔問客があったのだ。

(あなたの優しい姿がこの世から消えてしまうなんて!この悲しみを何に例えたらいいのだろう)大地を失う悲しさは、しばらくの間余韻を残した。


 そして、私たち夫婦の間で親と呼べたのは、同居している義母一人となったのだが、その義母も去っていった。私は午後の面会時間になると、義母の病室を殆ど毎日訪れた。病室の人たちは、足繁く通う私を、実の娘だと思ったようだが、嫁としての義務感、そして人としてのプライドがそうさせたのかもしれない。

 付き添い婦さんからは、

「おばあちゃん、夕べ大変だったんですよ!」

こんな愚痴をよく溢されたのだが、その日の声は神妙だった。

「中のものが全部出ちゃって、寝巻きからシーツまで大変でした」と、報告を受けた。

 この意味する所が、始めは分からなかったのだが、多くの人を看取っている人たちの知悉で、〈終焉〉を意味する〈知らせ〉である事が、私にはその夜に理解できた。

 饐えた臭いの病室を背に、

「じゃ、ばあちゃんまた来るからね」と、

出口で振りかえる先に潤んだ目でじっと見つめる義母がいた。義母は私のことをお母さんと呼んでいたが、最後に、

「お母さん、ありがとう」と、

語り掛けられているような気がした。やはり、その日の夜中、義母は他界した。親族が来るまで病院の個室で二人きりの時を過ごした。

(一生懸命に看病をしてあげられなかったこと)、(もっと楽しい思いをさせてあげられなかったこと)等、義母の枕元で詫びた。

「でも、私は生まれ変わりを信じているから!またきっと何所かで会おうね!ありがとう、また会う日まで!」と、語りかけた。


@生まれ変わり

人生の中で「絶対死ぬまで君を離さない」とか「絶対失敗しない」等と、確信をもって生きていても、自分自身がいつかこの世から百%の確率で、消えて居なくなるという事実を実感している人は皆無なのかもしれない。「諸行無常」といように、自然界のすべてが生まれては、日々変化をし消滅していても、自分がこの世から居なくなる事を頭では納得しても、信じたくはない。  


以前、友人と「人は生まれ変わるか」という事について口論をした事がある。

友人曰く「脳も体も有機質はすべて燃やせば灰となりガスとなって、私という存在はゼロ、無となる」という。

化学的には、これが正解なのかもしれないが、私は脳や体をコントロールする自身が永遠に存在すると思っている。何かの法則で再び形を持った命として、前回に生きた自分の〈生きざまの清算〉をこの世に引きずりながら、又生まれて来るのだ。

私は〈生まれ変わり〉を信じている。

産まれてきた赤ちゃんがすぐに〈おっぱいを吸う〉という、この一つの行動をとってみても、何処かで学習した記憶が蘇ってくるからに違いないと。

海亀が孵化した途端、方向を誤らず海へ行進して行くのも、地球の磁力だけでは説明がつかない。遺伝子の中に過去の記憶と共に、そこに過去の自分がいるのだと思う。この法則は、全く平等で〈自分自身でした事は自分自身で責任をとる〉という厳格な理に貫かれている。このことをどう捉えるかによって、今の生き方が大きく変わってくるのだ。

今だけの一回限りの人生であれば、人々は身勝手に生き、人の事より自分の事を優先に行動し、その結果として争いや犯罪が蔓延し地球は滅びへと向ってしまう。

 自分本意な生き方は、怒りを増幅し、人の能力を半減させ、自身や他人を不幸に陥れ、生きる喜びをもぎ取る。

夫婦喧嘩も同じで、いがみ合えば苦労を倍増し、労わり合えば苦労を半減させる事ができるはずだった。


@悲しい自由

子供達もみんな学校給食を受けるようになり、介護もなくなり、長い一日が私の自由となった。

(私は自由)

その感を深くしてから三年位の間、私はカルチャーセンター通いをして遊んだ。

今まで蓄積されていたものが、噴出するかのようにお稽古事に明け暮れる毎日となった。夫は稼ぐ人、私は使う人の典型的なパターンとして文化教養と称し、沢山のお稽古事を慣行していった。その他、区のボランティア活動まで社員のように努めていた。この金銭的にも、時間にも余裕のある人生に満足をしていた。

(今まで一生懸命遣って来たご褒美で、この悦な時間を貰っているんだ)と思っていたがタイムリミットがまた来たようだ。天はそんな私を放って置かなかった。


発端は、銀行との貸借争いに負け、我が家を捕られ、私が働かざる負えない窮地に立たされたのだった。よくある話だが、バブル時には必要もないのに銀行より融資を頼まれ、ある日返済を求められ窮地に立たされるという事例だ。

返済を廻り、今までの判例でも1%の勝ち目しかない銀行との戦いに挑んでしまったのだ。私達は勝訴を確信したが判決は正反対となった。

私達は法廷で誓って嘘は言わなかった。

しかし、銀行員は裁判官から諌められるほど小さな声で心を振るわせながら嘘の発言をしていた。この銀行員は、きっと上司の命令によって発言したのだろうが、一生自分自身に裁かれる立場で人生を送らなければ成らないのだ。心の自由こそ本当の勝利なのに・・・。

結果として私たちは、前に住んでいた家を捕られ、経済的にも大変な改革を迫られた。学費、ローン、食費、税金等々、毎月大変な額の支出をその後も余儀無くされ、切り詰められるものはぎりぎりまで節約したが、毎日の生活が恐ろしい程不安になっていった。 

これに伴い、夫は今までのキャリアを捨てて配送業の仕事を探してきたのだった。これには理解し難かったが、きっと(今すぐお金を稼がなくては)との責任感がそうさせたのだと思う。朝から真夜中まで働き詰めであった。日に日に老人のようになってゆく夫を見るのは耐えがたかった。私も見かねて配送の手伝いをしに行ったのだが、全身に蕁麻疹が出るほど抵抗を感じた。


浮気騒動にも耐え、両親の面倒も看て、ホステスまでやり一生懸命生きて来たのに。何でまたこんな苦労をするのだろうか。「人間万事塞翁が馬」というが、どんな運命が待っているのか、予測が付かない。やっと浮気騒動に決着がつき人生を楽しもうという時に、またしても問題を夫が運んできた。

「天は乗り越えられない難を与えない」というが、こんな難題を乗り越えられるのであろうか。私には余りある大きさだ。

それからというもの、家計を支える為に、真夜中まで一緒に仕事もした。帰りは熱い銭湯に寄り、疲れを解さなければ、明日は体が動かないという限界まで働いた。

辛いとか苦しいとか言う前に働かなければならなかった。過去を振り向いて嘆いてみても前には進まないのだから(働いて働いて働き抜くしかない)と心に決め重い体を引きずった。ヘトヘトの体で見上げた夜空には、光々と輝く満月があった。その澄んだ金色に輝く月に向かって

(絶対このままでは終わらないから!)と、晩年の成功を誓った。


そしてもう一つの困難は、ある金銭貸借の仲立ちをして、返済の矛先が夫に向き、追われる身となったのだ。私は何度も、家に訪れる先方の社長とお会いし、ただただ謝罪した。法律的に保証義務はないのだが、頭を下げるべきだと思った。

夫が帰らない夜が何日も続き、先が見えずたまらなく恐ろしくなり、寒くもないのに寝ていると自身の体の震えで目が覚めた。明日が見えない不安は日に日に募って行った。その時、

(家族のホームレスは確か見たことないよね)と、そんな思いが過った。


心凍えるようなある日、見知らぬ男性から電話が入った。

「ご主人が交通事故に遭われまして、いま病院に居ます」

(またか)

私は慌てて病院に駆けつけると、夫は待合室の椅子に座り、加害者と一緒に談笑をしていたのだった。私の心配とは裏腹で良かったという思いと、あまりにあっ気らかんとしている光景に腹も立った。

幸い入院する事もなく擦り傷で済んだのだが、衝突の瞬間、頭を打ち、普通なら即死状態のところを免れたという大事故だったのだ。この数か月、〈事故〉という言葉を何度聴いただろうか。夫は疲労も重なり、自動車事故を何回となく起こしていたのだ。

ある時は足を捻りギブスをするほどの重症だったのだが、生活の為に次の日から松葉杖を付きながら仕事に出て行った事もあった。

(もう今度事故になったら死ぬ)と想った時、夫に転職を勧める事を決意した。

私はこの男の営業力を信じていた。(何を売っても売れる男だ)と思っている。

「もっとあなたにあった仕事があると思うのよ。このままでは死んでしまうよ。社会に役立つ仕事が臨みだったでしょ。きっとあなたを雇う会社があるはずよ・・・」

と、言ってみた。途轍もなく頑固かと思うと、時に素直に私の言う事を聞くことがあるのだ。

夫は次の日から、就職活動を始め、今まで遣ってきた仕事とは全く別の仕事に就職先を決めた。沢山の応募者の中から夫が選ばれたのは良かったのだが、入ってみたら、経理内容が赤字の会社で、夫は火中の栗を拾いに行ったという結末となった。

倒産直前には、無給でも働いていた。家計は緊迫し一日の食費を切り詰めることでしかセーブの仕様がなかった。それでも精一杯を旨とする性格は、ここで培ったノウハウを見事に後の仕事に生かしていった。

数ヵ月の間、夫の無給が続いたのだが、国民金融公庫から借金をして、学費とローンを捻出し、その後どこをどう切り抜けたのか記憶にない程、必死に生きる毎日だった。なのに、これでもか、これでもかと難問が私達家族を襲った。

(一山越えるとまた一山。いつになったら大草原に辿り着くの。幾つ山を越えたら安穏は遣ってくるの。死ぬ前の五年間の人生が幸せなら、それで人は幸せなのかもしれない。でも、今その結果が見えなくて暗闇の恐怖を感じています。もうそろそろいいんじゃないですか!)

この世に人間の運命をコントロールできる存在があるのなら切にそう願いたかった。私はこのままではローンとのイタチゴッコで、終焉を見ることは出来ないと思い、夫に独立を勧めたのだった。危険な賭けではあったが、この男の力を信じていた。


その後、沢山の難問をクリアし、やっと名ばかりの小さな会社を設立することができたのだった。昔から望んでいた社会に役立つ環境保全の仕事を手がけている。これが最後の仕事として大成功してくれるよう祈らずにはいられない。

(自由に成る事は、決して時間を持つことでも、一人に成る事でもなく、強き自分を作る事にあるのだ)と一連の出来事から練磨された私の結論であった。



*リベンジ

 @籠の鳥

私は、家計を助けるため仕事を探す事と成った。

すでに会社を辞めてから二十年の歳月が経っていたのだが、この就職活動で私に何ができるだろうかと考えるより先に、就職には年齢が障害となる事を思い知らされた。  

求人広告の年齢制限は私の年齢より遥かに下だった。

私は家より五百メートル以内の勤め先を何故か探した。これ以上の距離は、その時の私にとって〈家〉から遠すぎたのだ。

家の斜め前にあるクリーニング店の募集広告を見て、電話を入れてみた。

「もしもし、求人募集を見たのですが」と結婚後、初めての就職活動を始めた。

「週何日働けますか?四・五日ぐらいは働いてもらいたいのですが!」

との店主の質問に、

「三日ぐらいではだめですか?」

と答えた。返事はNOであった。

私の中心はあくまでこの家にあった。家を守る事が二十年間、私の仕事だったのだから、頭も体も自然と家から離れなかった。

次に電話をしたのは、三軒隣りの企画制作の事務所だった。

「失礼ですがお幾つですか?」

「四十六です」

「ああ…うちは若い人を求めているので申し訳有りませんが…」

(若い人より良く働くし、発想だって負けないくらいユニークだし、人生経験も豊富で、あらゆることに対処できるのに)そんな自負が、受話器の中に虚しく響いた。


通勤時間三十分ぐらい当たり前の事なのに、〈この家の中〉だけが私の世界になっているほど、私は小さく生きていた。

次に電話をしたのは、駅前の喫茶店だ。独身の頃に喫茶店のアルバイトをやっていた事があるので接客には自身があった。

「九時から八時までのシフト制ですが、夜は大丈夫ですか?」

との店主の質問に対し、

「済みません。夜は家の事があるので五時頃迄ではダメですか?・・・」

少しでも時間が有ったら、家の用事をしたかった。あんなに嫌で嫌で仕方ない家事が私の心を捉えた。

「あの、お幾つですか?」

「四十六です」

 店主は間髪を入れず、

「すいません!三十五才ぐらい迄の方を募集していますので・・・」と、断られた。この十歳の差の意味するところは、おそらく容姿や記憶力が問題なのだろうが、今だってお客様の十人十色のオーダーを記憶する自信があった。

 家庭、子持ちであれば雇用人としても、使いづらいのは確かであるが、どんなに仕事ができるかよりも先に、この頃はまだ年令を優先されたのだ。

このどうにも変え様のない年齢だけで、千ある求人が十ぐらいに狭まってしまうのだった。

応募範囲を今度は隣の駅まで広げた。一番の目的は家計を支えることだが、(自分は何をしたいのか?)理想を頭の中で今一度、整理してみた。

(座って仕事が出来て、綺麗な仕事内容で、電話受けや制作に取り組める、家から遠くない職場。できれば隣駅の駅ビル内!)低次元の理想だったが、引き寄せる為に焦点を定めると、驚いたことに、まったく的中の勤務先を射止めることができたのだ。

隣の駅ビルにある特許事務所で、秘書兼、事務員兼、制作兼、雑用といった、何でもやらなければならない職場であった。

(私ならできる!)との思いと、(私にできるだろうか?)との思いが交差した。

それと言うのも、夫と知り合ってから働くといえばいつもの夫の手伝いばかりだったからだ。服の販売、経理と、すべて大門真一の仕事に関わるもので、私は社長夫人として誰からも文句を言われることのないポジションで、社員からすれば〈裸の大様〉だったのかもしれない。

結婚してから、始めて夫と関わりのない、この望み通りの職場で、精一杯働いて生活費を稼ぐことが私の課題だったのだが、それ以上の事をこの会社で学ばせて貰った。働くということに対して未熟な私は、ここの女社長に鍛えられた。

毎日、社長の気分で右往左往しなければならなかったが、社長の親戚の同僚が、

「あなたが一番長続きしているわよ」と一言。

初出勤から半月位で、褒めて貰っているようで嬉しかったが、正直驚いた。

「やっぱりそうですか・・・」

社長の気性の強さに、短い人では2日目、長くても1週間で辞めていったそうだ。

それからは、その言葉が身に染みて分かる出来事が次から次へと起きた。

すべて、人の所為、物の所為にして、自身の反省など微塵もなかった女社長を相手に、溜息交じりではあったがステップアップした私の人生が始まった。

ある日、応接室のソファーからお尻が滑り落ちた時など、よっぽど恥ずかしかったのか、

「このソファーがいけないのよ、買い替えなくちゃだめね」とソファーを買い替えさせるよう指示をしてきた。私はカタログを取り寄せ、何の支障もないソファーの買い替えの手配などもした。そして、この社長の浮気相手の連絡役にもなっていた。

ご主人は金の太いネックレスをして、一見裏社会の人に見えた。浮気相手の男性はそれに反し、優しい面立ちをしていた。国庫の役員をしていたためバレたら大変なことになるのは私にも分かった。電話でのやり取りでは済まない事を私に仕事として頼んできたのだ。どこの夫婦も、男と女が結婚し一生その人だけを愛する純愛などあり得ないのかもしれない。


ローン返済や借金返済請求の恐怖の中、私は二年間この職場へ自転車で通い続けた。ヒステリックな女社長の子守にも疲れたが、もっと理想の仕事ができるのではないかと思うほど、私は成長していた。

しかし、自分でも不可解に思うほど、家から遠い職場には行きたくなった。行動半径三キロという狭い範囲の職場を探した。私は狭い篭の中からでも鳴き続けることにした。

きっと外界から色んな鳥たちが遣って来て、私を外へと導き出すその時が来るまで、鳴きながら待つ事にした。

A「何でそんな狭い篭の中に入ってるの?」

B「だって雨に濡れないし、毎日、餌をくれるし・・・」

A「外へ出てごらんよ。楽しいことが一杯あるよ」

B「恐くないの?カラスや見知らぬ人間がいじめてくるでしょ!」

きっと、籠の中の鳥と、外界の鳥が話したらこんな会話をするのだろうか。 

私の篭は、「家庭」だった。


@麻畝の性

その後、さらに理想の仕事を引き寄せられるよう、また新たな妄想をしてみた。

(家から三〇分以内の職場、一流企業、奇麗なオフィース、高収入、VIPを相手にする仕事)こんな贅沢な理想を掲げ、新聞折り込みの求人広告を隅から隅まで眺めた。

これに近い求人広告を見つけのだが、一つだけ私が意としない項目があった。

「営業職」

営業は私にとって初めての挑戦であったが、その他は理想のキーワードに全て当て填まるものだった。

(自分が変われば人生は変わる)意を決死て面接に行くことにした。

そして、この富裕層を対象にする営業職に採用され、また私の人生のハンドルを切ることになった。入社してから、(私には営業の才能があるのかもしれない)と思うほど、楽しく成績も上げ、六か月目にしてトップセールスウーマンとなった。

年を重ねていくと、仕事を得ることさえ難しくなってくるが、人に認められ、健康で働けることのありがたさが段々と分かってきた。会社でも、家族でも、社会でも、誰かの役に立って、お金を稼いで行けることが、ただ安穏と空しい毎日を何もすることなく暮らすより、ずっと価値のある生き方なのだと実感した。

この半生は、誰かの所為でなく、「因果応報」私の所為なのだ。簡単な言葉では、「類は友を呼ぶ」と云う諺があるが、同じ魂のレベルとでも云うべき人と縁を持つ。私は迷い続けて、結果、自分の判断で夫「大門真一」を選んだのだ。

時代が時代なら、政略結婚という個人の意思を無視した結婚を押し付けられもしたが、私は、「ジェットコースターのような人生」を自分で選択し、自分の足でそれに乗ったのだ。乗り換えもいいかもしれない。ただ、自分が変わっていなければ、選ぶのはまた同じような乗り物なのだ。


私は、あんな事があっても、本気で離婚手続きをしようと思った事は無かった。

〈篭の中の空間を愛する故か〉、〈主人に対する情の故か〉、はたまた〈子供たちの  為か〉、〈未だ且て、素敵な男性に巡り逢えていないのか〉は分らないが、何十億人の人間の中から出会い、夫婦となった〈一期一会〉にきっと意味があるのだとも思っている。

夫は浮気について、

「自分自身でも、どうにも止めようがなかった」と自戒していたが、男と女の間には理性や信念、ましてや道徳では解決のつかない〈生き物〉としての奥深い性があるのかもしれない。左利きを右利きに直すことさえ、簡単にはいかない。

自分の言動や癖や行動も、コントロールできない繰り替えされた性(さが)が命に染み付いて、時を得て出現してしまうのだろうか。

次か次へと押し寄せる事件に、生きること自体への恐怖を感じることもあったが、苦労や悩みなどない人生なんて在り得ないのだ。

冬があればこそ、春の暖かさや、花の美しさに感動し、野球でも、抜きつ抜かれつの激戦の末、九回裏の逆転ホームランで勝利する。こんな手に汗握るゲームが面白い。

辛いことの来襲は、幸せになるためのプロセスなのだ。


私の半生にも、沢山の苦しみの中にも、沢山の幸せが散りばめてあった。更なる人生の高見に向かって生きるには、幾つからでも遅くない。

(夢を具体的に揚げ、それを紙に書き留める。そして成功を何度もイメージし、確信する)このイメージトレーニングを続けた。

人は意志の趣くままの人生を歩むことができるというが、強い意志がこれを可能にするのだろうか。私は、今まで何ひとつ自分自身で切り開く事の出来ない、夫に寄り掛かりの生き方をしてきたように思う。  

私の半生の大概の出来事は、夫の生き方に関わっている事を改めて感じさせられた。知らず知らずのうちに、麻の茎に絡みついた蔦のように、気が付いたら同じ方向へと、伸ばされていたのだ。決して麻のように、天に向かって真っすぐとは伸びてはいなかったが、紆余曲折を味わいながら成長してきたと思う。

破天荒な夫に仕え〈妻〉として生きていくことが、この人生に与えられた課題なのだろうか。女は夫という伴侶によって自身の生き方にも影響を受けるが、そうゆう伴侶を選択したのも偶然でなく自分の生き様なのだ。

夫婦という対の人間関係こそ、お互いの汚濁を、時には罵り合いながらも練磨していくという、人間構築に必要な相棒なのかもしれない。抗っていた魂が住む私の脳は、やっと未来への希望に溢れている。

混迷する世の中で、私とは比べ物にもならないほど大変な人生を懸命に生きている人は沢山いるけど、この人生は私だけが味わったこと。

私は、今まであった我家での騒動を決して無駄にしないとの思いで、今後の人生のリベンジを計画した。

自分史を本として出版する。歌を作り、世に出す。絶対に心から幸せだったといえる人生の結末にする。


@未来予想図

 私が七十歳の時、沖縄に別荘を購入した。ここには、コバルトブルーの海と、宝石を散りばめた夜空、豊富なフルーツに食材、そして、優しい人々。あらゆる事が生活習慣にマッチしていた。家も中古住宅ではあったがリフォームをし、壁は黄色に近いクリーム色に塗り替え、庭には石畳の緩やかなカーブを描いた小道を造った。室内の家具は現地で揃え、まるでタイの王室のような部屋になり、爽やかな風が通り抜けた。

何でこんな余裕が出来たのかといえば、私の作詞による印税がそれを成したのだった。それが現実のものとなったのは、私があるコンテストへ自作の詩を応募したのが切掛けだった。不意に思い付いた作詞が賞を取り、それが街に躍り出たのだ。

CDは二曲のカップリングで発売したのだが、メインの曲「自由な空」でなく、カップリングで裏面とでもいうべき「シルバーレディー」という曲が予想に反してヒットをしてしまった。詩の内容はこうだった。


【シルバーレディー】

道に咲いてる タンポポが

アスファルトを 突き抜けて

誰も見てない 夜中でも

天を目指して 伸びていた

信じられない パワーです

シルバーレディー シルバーレディー


もしもし私 騙してる

素敵な声の お兄さん 

あんたの後ろ 老婆(ばあ)さんが

立って見ている 笑ってる

信じられない 事件です

シルバーレイディー シルバーレイディー


幾つも山を 越えたけど

今が一番 綺麗だね

この世に無駄な ものはない

行き先なんか 分からない

信じられない 人生よ 

シルバーレイディー シルバーレイディー


【自由な空】

優しさって とても罪なの

裏切りの あの日の涙 

鏡に映らない 貴方の姿  

鳥のように 自由に泳いでいくのね

大きな空は 私の中に

自由な空は 私の中に


幸せって 不意に訪れる 

夢のような あの日の涙  

廻り来る季節に 抱きしめられて

鳥のように 自由に泳いでゆくのよ    

輝く世界 私の中に

煌めく世界 私の中に


大きな空は 私の中に

自由な空は 私の中に


何万と作り出される歌は、時の力を得てひとりでに躍り出ることもあれば、プロジェクトを組み戦略的に創られることもある。

私の歌は前者であったが、自分でも信じられないほどの結果を生んだ。

この歌を唄ったのは三人組の女性で、名も知られていない歌手であったが心に響く歌声であった。某レコード会社からこの歌は出され、三十万枚を超えるヒットを出したのは、発売されてから一年が経った時の事だった。

結果的にこの歌のヒットにより私は自由の身となった。

生活スタイルの選択の自由、余暇の自由、そして、伴侶を選ぶ自由さえ得た。


私は晩年、こんなふうに自身の未来予想図を描いている。


屋根の下の小さな空間に押し潰されることなく、

妻よ大志を抱け!



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レディー・ババの奮闘記/妻よ大志を抱け  レディー・ババ @tuiterune12

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