第4幕 リアリティー

*恋敵(こいがたき)

@目撃Ⅱ

夫の会社では、二十人ほどの従業員を抱え、その中に夫の親友も働いていた。男性が多い職場で、桂木恵子はバツイチと言えども、マドンナのような存在だった。愛くるしい瞳と長い黒髪。

(こんな可愛い女性に愛されて主人も幸せだな)と思える、妻ではない第三者としての私も存在していた。

そんな彼女を放っておかなかったのは、夫だけでなく新田君という彼女より十二歳も年下の若い従業員だった。体格の良い真面目な青年であった。九州から上京して、夫の親友に誘われこの会社に入社したようだが、中年女性の多い小さな枠の中で、桂木恵子が気になる存在になるのは当然のことだった。 

そしていつしか、この若い青年が桂木恵子の新しい恋人となったのだ。この事はある日、偶然にも、大門真一の知れるところとなった。

 

大門真一が仕事で、代々木公園の前を車で走行していると、桂木恵子と社員の新田君が歩いているのが目に飛び込んできた。二人のデート現場を目撃してしまったのだ。

この広い東京で何百万人の群衆の中から、二人の姿をその目に飛び込ませたのだ。

〈見るべくして見た光景〉きっと天の計らいだ・・・これは、偶然ではなく必然なのかもしれない。

 夫は、桂木恵子に自分以外にも恋人の存在があることを知ってしまったのだ。

 慌てて車を乗り捨て、ふたりを公園の中まで追い駆けると、そこには自分の知る桂木恵子とは違う可愛い女の姿があった。新田君と手を組み、絡み合いながら、笑いながら、楽しげに歩いている姿を見つけたのだ。誰が見ても二人が恋人同志である事を認識できるほど、仲睦まじい様子だった。大門真一は怒りを押えるのに必死だった。

樹の影より二人を眺めながら、怒りの頂点を噛み締めていた。

「あの野郎、殺してやりたい」と。

帰宅すると興奮した表情で、今日、目撃したことを妻である私に報告してくれた。

「桂木さんが代々木公園で新田と歩いてたんだ。追っかけて行ったんだけど、新田の頭をトンカチでぶん殴ってやりたかった!」と、私に怒りをぶちまけた。

「あなたが何も介入できることじゃないし、それで良かったんじゃない」と言うと

「良くない!とんでもない奴だ」

(とんでもない奴はお前だ!)と言ってやりたかった。

 普通の人だったらこれで諦めるのだが、ナルシストとでも言うべき夫は違っていた。

 彼女が(自分との結婚は無理だから、仕方ないから彼を選んだ)とでも思ったのだろうか、一歩も身を引かなかった。


人間は、欲しいものがあると本能を剥き出しにし、争ってでも奪ったり、体に悪いと分かっていても、タバコを止められなかたり、つい暴飲暴食などをしてしまう。

 浮気もこの本能にコントロールされて、どうにも止める事ができないのかもしれない。


@プライド

 夕暮れ時、まな板に当たる包丁の音が心地よく響かせていると、またも突然桂木恵子からの電話が入った。

「桂木ですけど、ご主人がアパートに来て困っているんです。何とかしてくれませんか?」と。

「何とかですって!追い返せばいいじゃないですか」

「いくら帰るように言っても帰らないんです。部屋から出て行ってくれないんです」

今まで好きなようにラブコールを送ってきて、私を悩ませたのに、今度は

「悪さをしているから、主人を引取りに来てくれ」と言うのだ。

まるで私が保護者のようではないか。

籠城している夫の説得に桂木恵子のアパートへ止も終えず行くこととなった。

私は(もう終わりが近いな)と感じながら、また身重の体でバイクに乗り、夜道を桂木恵子のアパートへと向かった。彼女は寒そうに腕を組みながら、アパートの外階段に立っていた。

私を見つけると、

「社長が部屋の中に居て困っているんです。『帰って』と言っても出て行ってくれないんですよ」

と、懇願するように言った。

 彼女が罪の意識から付き合いを辞めようとしているのか、もう心が大門真一から離れ、新しい恋人にあるのかは解らなかったが、終幕を迎えていることだけは確かに感じられた。

 私は階段を上がり彼女の部屋のドアを叩いた。

 ドアを開け部屋の中を覗くと、夫が部屋の真中に座っていた。

「お父さん! 私だけど帰りましょう!」

 夫は、ドアの隙間から声を掛ける私の姿を見つけると、

「何だお前は!」と怒鳴りながら、私の方へ向かって出て来た。

 夫は、再び

「お前は誰だ!」と今度は拳を振り上げながら、お腹の大きな私に殴りかかってきたのである。

「お父さん止めて下さい!」

 私は咄嗟にしゃがみ込み、体でお腹を防御した。

「止めなさいよ!」

 桂木恵子も夫の腕を掴み叫んだ。

 何で私が怒鳴られなければならないのだ。自分の悪事が露呈した時のどうしようもない男のプライドが、自分の過ちを認めず暴力に転化するのか!妻と愛人に自分の情けない姿を見られ、怒ることしかできなかったのかもしれないが、許しがたい行動だった。人を傷つける暴力は、男として人間として最低の行為である。

ドラマであれば、これがクライマックスなのだが続きがあった・・・


この騒動を知った新恋人の新田君が、そんな夫の態度に怒り、我が家に乗り込んで来たのだ。

「社長、話しがあるんですが!」

 夫はダイニングキッチンで食事をしているところだった。

「話す事なんかないよ!」

と部屋に上がって来る新田君に、夫はまともに相手をしなかった。食事を切り上げ二階へ上がろうとすると、新田君は夫を追いかけ階段を駈け上がっていった。

二階には子供達を寝かせていた。慌てて私は二人を追い掛けた。

「おい聞けよ! 何やってんだよ!」と新田君が声を荒げた。もはや上司ではなくなっていた。

階段を上がりきった狭い踊り場でふたりは掴み合いとなった。新田君は夫の胸倉を掴み、抵抗する夫の顔を肘で抑え込んだ。

ドンドンと壁に背中を打ち付けながら男の戦いを始めた。私に変わって復讐をしてくれている彼に微かながら喜びを感じながらも、

(階段から転げ落ちたらどちらかが死んでしまうかもしれない)そんな恐怖に、腕で壁に抑えつけてられている夫との間に入りこみ、私は新田君の腕を掴んだ。

「止めて!お願いだから止めて!」

廊下の横の和室には二人の子供が布団の上ですやすやと寝ていた。

この取っ組み合う二人が子供の上に圧し掛かるのではないか、とさらに恐怖を感じ、

「子供の上に乗ったら死んじゃうでしょ!」と小さい声ながら必死で叫んだ。

 夫は私の声を聞き冷静になったのだろうか、

「分かった。下に行こう」

と、言うと静かに階段を下りていった。わずか二、三分ぐらいの出来事だったが、その時すでに二人とも鼻血を出していたのだった。

〈男の嫉妬は殺人に繋がる〉と聞いたことがあるが、本当にその通りだと思った。

〈ひとりの女を奪い合う男同志の戦い〉

 まるでドラマの様だが、その主人公は妻の私ではなかったのだ。


*味方

@孤独からの脱出

 何もかも、全てが悲しくなった。

 この重圧から逃れる為に、初めてこの事をある人に打ち明けることを決意した。

 夫の帰らない夜、私と夫の共通の知人である女性に泣きながら電話をし、すべてを話した。

「え!あの大門さん!」

「はい、会社の女の人と浮気していて、子供も産んでいいとか言ってるそうです」

「本当!大門さんが浮気してるの? やあー信じられない!」

 それほど普段の夫を知っている人には、信じがたい事であった。

「今行くから待ってて!」

 夜中だというのに私の落胆ぶりを心配し直ぐに飛んできてくれた。

先日、親友の美咲が私に告白をしたように、今度は私が何故か、母でも美咲でもない知人の年配の婦人に電話をした。


「こんばんは! 大門さん上がりますよ。」

と、真夜中の玄関に立ち、小声で声をかけると、居間に泣き顔で座り込む私を見つけ上がって来た。私の前に座り、話を聞いてくれた。

その婦人に全てを話すと

「いつからなの?」

「二年ぐらい前からです」

「そんな前から、でも絶対に離婚だけは口にしちゃだめよ!」

 と、私を包むように諭してくれた。

我慢してきた私の貯蔵庫は満杯となり、悲鳴をあげながらすべてを吐き出した。

「浮気じゃなくて、本気だって言っているんです。相手にも子供がいて、新しい恋人も出来ているのに別れようとしないんです。だから、私も二人が本気なら別れてもいいかなと思っているんですけど、子供の為にも我慢するしかないかと思って・・・・・・二年間我慢してきました。だけど、もう限界です。」

泣きながら、夫の不祥事を暴露した。

婦人は話しを聞くと、

「二年間続いた事は、二年で解決させると思わなきゃだめよ!」と言った。

(そんなに長いこと掛けていられない!)と心の中で叫んだが、事実、解決するまでに、二年の歳月が掛かる事となった。

婦人は子供の事や、これから生まれてくる赤ん坊の事等、全てを考えてのアドバイスだった。私は初めて自分の見方を作ったことで、心の重荷が軽くなったような気がした。義母や義父、そして実家の母や兄弟にも内緒にしていたことである。誰にも話すことなど出来なかった。他人だからこそ言える妙だが、この婦人の存在がなかったら、私はどうなっていたか分からない。自分でも気が付かないうちに、苦しみは肥大していたのだった。

                                     

 問題は絡み合い、なかなかきっぱりと解決の時はやって来なかった。

「今日は帰らないから!」

 と、夫は携帯からまたしても濁りのある声で電話をしてきた。もちろん彼女と会うためである。受話器の後ろに彼女が立っている姿が想像できた。

 私の目の前には、義母と義父がいた。

「わかりました」とそれだけ言った。

 夫はさらに

「彼女と一緒だから、じゃあね!」

 と、当て付けがましく付け加えた。夫の声はまるで悪魔のような声に聴こえた。

 いつも激怒しない物分りの良い女房に対しての苛立ちだったのかもしれない。私は

普段から、主人が自分にとって不快だと感じることをしても、怒ったりしなかった。

我慢することが染み付いていたのかもしれないし、(これは修行だ)とも思っていたのかもしれない。(重箱の隅を突つくような事を言っては、男が駄目になる)とも思っていた。もしかしたら、いい奥様だと思われたくて、〈山之内一豊の妻〉を演じるつもりだったのかもしれない。しかし、それらのすべてが裏目に出た。


@妊婦の家出

私は長く続く攻防戦に疲れ、夫にリベンジするつもりで突然に家出を決意した。

行く先は熱海。別に理由はなかったが、新幹線に乗って喜ぶ息子の顔が見たかったのかもしれない。普通なら実家へ帰るのだろうが、家から五分というあまりにも近い距離であった事と、母には言いづらかった。

私は旅行の仕度をするため大きなバックに子供達の下着や服を詰め込んだ。義母は私の旅行支度を見て、

「どこ行くんだい!」と聞いた。

「ちょっと、旅行に行って来ます」

「いつ帰ってくるの!」

 長年生きているこの二人に、私たちの身辺に起きているいざこざに気が付かないわけがなかった。老いた義母には酷な話しであったが、異変を観じた義父が、

「めぐみ、何処行くんだ?」

と尋ねてきた。その優しい声にどっと涙が溢れてきて止まらなかった。

「どしたんだ!言ってみろ!」と、声を掛けてくれた。

「真一さんに彼女が居るんです。別れてくれないんです」

「ほんとか!俺だってそんなことはしなかったぞ。あの野郎!酷い奴だ!ぶったたいてやる!」

と、嫁の話を疑おうともせずに私に同情してくれた。

 義父は夫が子供の頃、酒乱で手がつけられない人だったようだが、家族を守る為に必死で農作業をやってきた。義母も早朝から朝食の仕度に起き、日中は義父と共に農作業に出て、夕方には夕飯の仕度に家路に急ぎ、寝るのはいつも真夜中であったという。食事も粗末なものしか口にできず、夏には畑で採れたナスの味噌汁にナスの漬物、それにナスの炒めものだった。水道もない為、川から毎日水を運び入れ生活水に使っていたと言う。天井には穴が開いていて、布団に寝ながら月が見えたそうだ。

そして義母は「子供たちにお菓子ひとつ買ってあげられなかった」と、よくこぼしていた。

(苦労を沢山してきたこのふたりに少しでも楽をさせてあげよう)と思っていたのにとんでもない事を知らせてしまった。

 しかし、義父も以前より夫の帰りが遅いのを観て(女性の存在があるのでは)と密かに疑惑を抱いていたようであった。

 それ以上、義父は何も聞かなかったし、私も何も言えなかった。


 荷物をまとめると、ふたりの子供を両手に連れて、その日の内に家を出た。

子供達には、この異変に気づかれないように気を使った。

「今日は新幹線乗るんだよ!お兄ちゃんも初めてだね!海も見れるよ!」

 重い気持ちを振り払うように楽しげに話した。

「ママ、新幹線って、すっごく早いんでしょ!」

 まだ幼稚園の息子は楽しげに問いかけた。

「そうだよ、シューって走っていくんだよ!何が見えるかな、楽しみだね」

 胸のところがキューンと締め付けられた。

「ねえねえママ!かおちゃんジュース飲むよ!」

二番目の娘が自分の存在を主張してきた。

彼女は、これから産まれる子供とお兄ちゃん狭間で、いつも置き去りにされている悲しみを感じていた。日常の煩雑な家事や、義母の面倒で私の心象から埋没してしまう自分の存在を、良い子になる事で主張した。

「いいよ!かおちゃんの好きなものいっぱい買ってあげるよ!」

 と、言いつつも子供達に贅沢をさせなかった。ジュースも一缶を別けて飲ませた。体にも良くないし、残したりして食べ物を粗末にして欲しくなかった。


東京駅に着くと切符を手にし、新幹線の車両に乗り込み熱海へ向かった。車中、ボックス席の中には小さな二人の子供と、お腹の大きな母親の三人。人目にはどんな風に映ったのだろうか。

愚図ることもないとても大人しい子供たちであったが、行き先の検討がつかず、

「ねえママ!まだ着かないの!」を連発された。

何処へ行くのか充てのない旅だったのだが、近場にして正解だと思った。


宿の予約もせずに、熱海駅に到着すると改札口の直ぐ傍にある観光案内所に飛び込んだ。今日泊まれる宿を何としても探さなければならなかった。小さな観光案内所に入ると、カウンターの中にいる男性に相談をした。

「あの、今日泊まれるところは有りますか?」

「ご家族四名様ですか?」

「いえ、子供二人と大人一人です」

「・・・・・・・・」

二人の幼子を連れた妊婦を見て、受付の人はどう思ったのだろうか。しばらくすると、駅から歩いても行ける有名なホテルを紹介してくれた。身重にとっては距離があるのでタクシーを止めて、紹介してもらったホテルへ向かった。

広いロビーのフロントに着くと、カウンターの中に数人のホテルマンが、他のお客さんの相手をしながらもチラチラと私達に向かう視線を感じた。

「観光案内所で紹介してもらった大門です」

私はこの時どんな顔をしていたのだろうか。

「お待たせしました。こちらがお部屋のカギです」

渡された部屋の鍵は低層階にある、とても狭い納戸のような部屋だった。

きっと〈親子心中〉でもすると思ったのだろうか。いつもは使われていないであろう狭い部屋で、窓からの視界も最悪だった。実際どの位の広さだったのか解らないが、三畳位の部屋に感じた。ふたりの子供を部屋に置き、ロビーの公衆電話から先日の婦人に連絡をとった。

「大門です。先日はありがとうございました。今、家を出て熱海にいます」

婦人は驚いたようではあったが、私が心中をするような人間でないことをよく知っていたので、この突飛な行動にも理解を示してくれたようだ。

「実家のお母さんに知らせてもいい?」

「ええ。何も言ってないのでお願いします」

「分かった。また電話して!約束よ!」

 この時初めて、この浮気騒動の詳細が実家の母や兄弟の耳にも入る事となった。

 母には言い辛く自分から電話もできなかった。

 女手ひとつで四人の子供を育ててくれた母にも、この結婚で良かったと思わせたかったのに、またも心配を掛けてしまった。

 

 熱海へ来て二日目には、子供達を連れて砂浜へ行った。

ここの砂浜は人工で増設され、道との境は壁で仕切られ、その上には車道があった。 その壁には熱海の景観とは不吊り合いな、カラフルで派手なイラストが描かれていた。

もしかしたら、この上の道路から、

「おーい、めぐみ、拓くん、かおちゃん、お父さんが迎えに来たよ!」

と、(夫が手を振って立っているのではないか)と何度も後ろを振り向いた。

それとも(、桂木恵子とふたりで私の家出を嘲笑っているのだろうか)とも妄想をした。


海辺には、降り注ぐ太陽の下、ビキニを着た女の子達が笑い声を立てながらはしゃいでいる。こんなにも楽しげな光景の中で、私の周りだけシーンとした冷たい空気が取り囲んでいた。海の匂いせず、波の音も聞こえず、どんなに素敵な景色を見ても、美味しい物を食べても、悲しくて切なくて、暗い孤独の中にいた。

 子供たちには悟られまいと楽しげにしていたつもりだったが、なんとなく砂遊びをしている子供の姿が寂しげに見えた。

この熱海に五日間滞在したが、覚えているのはこの風景だけで、後は何をしていたのか全く思い出せない。


*時の流れ

@訪問者

五日ぶりに家に帰ると、義母が玄関まで駆け寄ってきた。

「ああ!良かった!じいちゃん、めぐみらが帰ってきたよ!ああ、良かった良かった、帰ってきたくれたよー」

涙声で義母は喜んで私たちの帰宅を迎えてくれた。その狼狽ぶりに改めて心配を掛けてしまっていた事に気づかされた。部屋に上がり、我が家のキッチンに入ると、床の白いフローリングや、シンクがキラキラと眩しく目に飛び込んできた。たった五日間だけ主婦を放棄したのに、この空間が懐かしく愛しく新鮮に感じた。子供たちは、旅行から帰って来て、それぞれ思い思いの日常に戻り部屋の中で戯れていた。

夕方、夫が帰宅すると、

「あちこち探したよ」と、ただそれだけ言うと二階に上がってしまい、それ以上何も言わなかった。桂木恵子のことは全く何も触れず、詫びの言葉もなかった。


非日常から引き戻されると、又毎日の家事は休み無く続き、思索だけに深けさせてはくれなかった。

朝起きて、自分の身支度もままならぬ間に朝食の仕度、洗濯、ゴミだし、子供の着替え、お手洗いの世話、それが終れば、幼稚園の仕度、食事の後片付け、おばあちゃんの世話、洗濯干し、布団干し、食べ溢しの掃除、午後になっても延々と続く家事仕事に私の気持ちは、紛らわされていたのかもしれない。 


 そんな家事の最中に鳴る電話の相手は、またしても桂木恵子だった。

「奥さんお話があるんですけど」

「何ですか?」

 今度は何だというのだろうか。彼女は坦々とした声で話した。

「そちらに伺いたいんですが……」

 家には義父と義母と子供がいたが、

「どうぞ」と言った。不安よりも(この事態を面白がっているのだろうか)私は冷静に彼女の来訪を待った。それから三十分ほどで彼女が玄関のベルを鳴らした。

 ドアを開けると小さな体だが、そこからは、しっかりとした意思が感じられるほど凛とした佇まいだった。彼女を六畳の居間に通した。隣には義父たちがいたが、桂木恵子を私の友人だと思ったようだ。座卓を挟み、向かい合わせに座る私と彼女の間には、以外にも敵愾心はなかった。

「あの・・・すみませんでした。私、ご主人と別れたいんですが・・・」

「そうなの」と人事のように答えた。やっと、このドラマの終焉が見えてきたのだ。

「本当にご迷惑をお掛けしました」

「主人はあなたがここへ来る事を知っているの?」

「いいえ、知らないと思います」

彼女は言い辛そうに続けた。

「今、新田くんと付き合っているし、今後どうなるかは解かりませんが、ご主人とは別れますので・・・」

今、こんな勝手な事を言っているのも、あの夜の訪問も、電話も、目の前にいる女の仕業であったが、憎しみはなかった。元より彼女に対し、憎しみなどなかったのかもしれない。むしろ、夫を関して親しくなった仲間のような気がして来た。

私の中にあったものは、夫の〈裏切り行為への怒り〉と、〈私以上に愛する人が居た悲しみ〉だけだった。

そして、何とか取り返そうとしている自分を観て、(私は、こんなにも主人の事を愛していたのだろうか)と意外に思ったりもした。


夫が帰宅すると、彼女が家に来た事に触れた。

「今日彼女が家に来たわよ!」

「何って言ってきたんだ?」

「別れたいって、言っていましたよ」

夫は憮然とした顔をして黙り込んでいた。

私は、それ以上何も伝えなかった。夫は、被害者ではないはずなのにまるで自分が彼女から被害を被ったような顔だ。私には詫びの言葉一つを口にすることもないのだ。


この一連の出来事は、一緒に会社で働いている夫の親友にも知れるところなり、ある日の午後、突然に親友の誠ちゃんと新田君と桂木恵子の三人が我が家を訪れてきた。

その時玄関に出た私の足はガクガクと震えていた。お腹には三人目の子供がいるのに、この半年間この子に何度も恐い思いをさせてしまった。

しかし、この時の訪問は少し違っていた。

「こんにちは。真ちゃんいる?」と、親友らしい問い掛けにほっとした思いで出迎えた。

「ええ、二階に居ます」

「お父さん、誠ちゃんが皆さんといらしたけど・・・・・・」

二階にいる夫に、声を掛けた。

「社長、失礼します!」

新田君の声から、強い意志を持って我が家にやって来た事が伝わった。

三人は、夫のいる二階へと上がって行った。私は、恐さと同時に、長かった騒動がこれで終ってほしいと願いを込めた。

急いでお茶の用意をし、二階へ上がって行くと、四人が真剣に話をしていた。

「めぐちゃんもそこに座って!」

と、誠ちゃんに促がされ、夫から離れた場所に正座した。

押し黙った夫に、

「親友の僕と桂木さんと、どっちを取るんだ!」

と、誠ちゃんは男らしく、大門真一に結論を迫った。その真剣な言葉に対し、私は感謝した。

「桂木恵子を取る」と、この後に及んで言われるのではないかと、内心冷っとしたが、

「お前を取るよ!」と夫は誠ちゃんに向かって言った。

〈年貢の納め時〉と思ったのか、幕を引く決意を固めていたようだ。

〈夫と妻〉と、その〈夫の愛人〉と、〈愛人の恋人〉と、〈夫の親友〉との話し合いなど、そうざらにない光景である。

帰り際の玄関で桂木恵子が頭を下げ誤った。

「奥さん、本当に申し訳ありませんでした!」

「はい、お元気で、幸せになってください」と素直にそう言えた。

 その時、微塵も恨みなど残っていなかった。私の人生に何かを投げ掛けたこの人に、本当に幸せになって欲しかった。


@過去の記憶 

今、あの時の記憶を辿ってみても、その後、夫と何を話したか、その断片さえ見つからないのだ。

 夫婦間の修復の為に、毎日必死で生きていた筈なのに、三人目の子供の陣痛が始まり出産のために、夜中に車を走らせてもらった所まで記憶が飛んでいた。


面白いもので記憶していないことは、自分の人生に起こらなかった事となってしまう。思い出として記憶に残っている事といえば生きている内の百分の一ぐらいかもしれない。八十歳まで生きたとしても、人生の三分の一は睡眠をしているのだから、動いている時間は約二十七年間となる。

この中から乳幼児期や、老年期の痴呆になっている時間や昼寝をしている時間を引くと二十五年あまりが意識の中の人生となり、しかも、この内で記憶に残っている時間はフラッシュを浴びたような一瞬、一瞬だけだ。

私自身の過去の記憶を辿っても、幼稚園の時、自転車ごとドブに落ちそうになった時、友達の洋服を掴んで道づれにしてしまった事。

小学校の時、友達の持っている絵の具の綺麗な藤紫がとても羨ましく、彼女の絵具箱を覗いていた事。

中学の時、前に座っている男の子から、(好きだ)と書いたメモを渡され、驚きのあまりに急に冷たい態度をとった事。もちろんこれだけではないが、あまりにも記憶が少ない。

そして、三十才から三十三才に起こった浮気騒動の断片的記憶が私の人生となって

記憶に残る。夫の中にはこの一連の出来事はどんな記憶として残っているのだろうか。

深く刻まれた感情の刻印は、その瞬間だけで前後のストーリーは消されているが、

もしかしたら、事実と相違した記憶を自分の中に収めてしまっているのかもしれない。人が死ぬ時には、走馬灯のように忘れていた過去の記憶が映し出されるというが、その時に人生の総決算を、自分自身でするのかもしれない。

そして、峻烈な法則に貫かれているのだ。

この浮気騒動も四年間の時間を費やしたが、今となっては一塊の過去の記憶でしかない。どんな辛いことでも長くは続かないのだ。


第一子目、二十八時間三十分後に、三千五百三十四キロの頭の大きな男子。

第二子目、主人が入院中、五時間後に三千六百九十五キロの大きな女子が生まれた。

そしてこの日、三人目にして初めて夫と一緒に車で病院へと向う事となった。

暗い夜道を走る車の中で私はふと過去の記憶が蘇えった。闇の中に光るネオンを見つめ、過去の出来事を懐かしく思い返した。

浮気をされていた日々の出来事と、過去の二人の出産時の苦しみが脳裏を掠めた。

心の安らぎとは反対に、助手席に座る私の足はガクガクと震えてきたのだ。

〈嫌な記憶は直ぐに忘れる〉というのが私の特技なのだが、この土壇場になって出産時のあの苦しみを思い起こしてしまった。

「わぁー、足が震えてる!あー恐いな!」

と、隣に居る夫に訴えた。

 三人目を産む母親らしからぬ言動だったが、正直な気持ちだ。この闇夜を走る車の中に居る夫は嘗ての夫ではなかった。黙っていても私への心配と愛情が観じとれた。

それから四時間後の午前三時九分、第三子は産声を上げた。

 真っ黒な髪の毛をした金太郎のような女の子だった。

 

初夏とはいえ寒々とした分娩台の上で産後、暫らくの間安静にさせられるのだが、この日、分娩室の窓は開け放たれていて、涼しい風が、産着一枚で寝ている私の体の上を微いで行った。

 この時、この事が私の体を後々まで苦しめる要因になるとは全く気が付かなかった。

其れからと言うもの、私は腰痛と戦う毎日が始まってしまったのだ。立ち仕事は一時間として遣っていられなかった。腰痛ベルトとも親しくなった。青山にある有名なカイロプラッテックでもオーダーメイドのギブスを作ったり、針、接骨医、大きな病院の整形外科、マッサージ、お灸とあらゆるものを試したが一向に良くならなかった。この頃には、歩くのにも儘ならず、晴れた日でも傘を杖に通院をした。こんな苦しみも、愛されない暗闇より遥かに明るい出来事だった。


ある日、嘗て私と夫を結びつける要因となったフォークソングへの集会に誘ってくれた友人が、腰痛体操を教えてくれた。

私は(これしかない!)と閃き、毎日寝ながらその腰痛体操を続けると、これが効果覿面で、(今までの苦労と医療費は何だったのだろう)と思う程、一気に快復をしたのだった。

〈自然治癒力〉という言葉を聞くが、真さに医師に泣きついていた弱い私が、自分で治そうと変化した時、腰痛は治ったのだ。

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