第130話

 その途中で老執事とすれ違った。

「これはこれは、セリアス団のみなさま。ジョージ様がお世話になっております」

「……ん? 今日はあんただけかい」

 彼がジョージ=エドモンド子爵の傍を離れるのも珍しい。しかもハイタウンではなくロータウンで、小さな紙袋を手に抱えていた。

「ジョージ様はお勉強をなさってまして……こちらのドーナツがお好きですので、息抜きにと思った次第でございます」

 ロッティがしたり顔でやにさがる。

「はは~ん? さては」

「余計なこと言うなっての。そっか、学院の開校やらで忙しいんだっけ」

 それを制しつつ、グウェノは陽気に彼を見送った。

「オレたちも応援してるぜ。でも、あんま根を詰めねえようにな」

「お心遣いありがとうございます。では、私はこれで」

 執事はイーニアやロッティにも丁寧に頭を下げ、ハイタウンへ帰っていく。

ジョージ=エドモンドは最近の精力的な仕事ぶりが評価され、グランツ学院の初代教頭となることが決まった。教育者としての示しがつくように、休日も猛勉強とのこと。

当然、彼には原動力となる理由があった。

ロッティが愉快そうに笑みを含める。

「マチルダさんにいいとこ見せたいんだろーねぇ」

「ジョージにとっちゃ、またとないチャンスだもんなあ」

 ようやくイーニアもその事実に気付いた。

「……あ。マチルダさんの気が引きたくて、ということですか?」

「そうに決まってるじゃないの」

 好きなひとのために――そんな発想があることに、はっとする。

 ジョージは教師のマチルダに焦がれていた。その気持ちが彼を突き動かし、日曜も勉強机に向かわせている。

 それはまだイーニアにはできないことだった。

 ソアラが淡々と召使いに指示をくだす。

「ジョージなんてひとは知りませんけど、マスターも甘いものはお好きですから。グウェノ、さっきのと同じドーナツを買ってきてください」

「この荷物が見えねえのかよ? お前が自分で行ってこいっての」

 グウェノを労いながら、間もなくイーニアたちはセリアス邸へ辿り着いた。家の中には夏の日差しが入らないおかげで、いくらか涼しい。

「ただいま。……あれ、オッサンだけ?」

「セリアス殿とジュノー殿なら、じきに帰ると言っておったぞ」

 屋敷にはハインしかいなかった。背の高さを活かし、ひさしに手を加えている。

「こんにちは、ハイン」

「イーニア殿にロッティ殿か。暑くなってきたのう」

「と……イーニア、こっち手伝ってくんね?」

 イーニアはグウェノとともに台所へ。

 男だけの屋敷とはいえ、セリアスやグウェノが几帳面なこともあって、キッチンは小奇麗に片付いていた。ただ、隅のほうでは小麦粉が散らかっている。

「そこらへんは昨日、ソアラのやつがひっくり返したんだよ。あいつ、見た目の割に落ち着きがねえんだよなあ……」

「ホットケーキでも練習してたんでしょうか?」

「マスターにご馳走したかったんだと」

 皿の上には待っ黒焦げのヒトデが乗っかっていた。丸く焼くのも失敗したらしい。

「まっ、気持ちはわからなくもねえけどよ。イーニアだって、そのうち、男のために料理するようになんだろーし」

 そんなソアラを自分と置き換え、イーニアは瞳を瞬かせた。

「……私もいつか、恋をするのかしら……」

「おっ? 興味あんのか、やっぱ。女子にとっちゃあ基礎教養だもんな」

 知識はある。セリアスの部屋にある恋愛小説も、ほとんど読破してしまった。

しかし主人公に共感するほどには夢中になれず、その葛藤や行動に疑問を感じることもしばしば。そもそも『異性を好きになる』気持ちからして、わからない。

 ランチの支度をしつつ、イーニアはグウェノに問いかけた。

「聞いてもいいですか? グウェノ」

「なんだい?」

「その……恋人さんのことで。交際を始めたきっかけ、とか……」

 初々しい質問にグウェノは照れる。

「なんてことねえよ。オレはさ、故郷が退屈なもんで、ふらっと出てっては戻ってくんのを繰り返してて……新天地を探してたんだよな」

 彼の故郷はグランシード王国の端にある宿場街だそうで、城塞都市グランツからさほど遠くなかった。グウェノの実家は旅人向けの酒場を経営している。

「……で、帰ってくるたび、幼馴染みが綺麗になって……こりゃあ、さっさとツバつけとかねえと後悔すっぞ、てさ」

 彼の言葉は恋人への想いに溢れながらも、少しだけ自嘲が混じっていた。

「オレはあいつのこと、何でもわかってるつもりだったけど……そうじゃなかった。今回の件でもよ、むしろあいつのほうが、オレのことわかってんだなって……へへっ」

「グウェノ……」

 セリアス団から一度はタリスマンを盗み出したことで、責任を感じてもいるのだろう。だが、歩けなくなった恋人には叡智のタリスマンが必要だった。

 その恋人に諭され、彼は戻っている。

 普段はお調子者のグウェノが、真剣な表情で囁いた。

「だからまあ、なんだ……イーニアもそういう相手に出会えるといいな。どっちかが一方的にのめり込んだりするんじゃなくってよ。お互いを支えあうってか」

 仲間の言葉ゆえにイーニアの胸にも響く。

「……なあんて、ちょっと説教くさくなっちまったかな?」

「いいえ。わかる気がします」

 会ったこともない彼の恋人が、羨ましく思えた。

「急にどうしたんだ? ひょっとして、気になるひとでも……」

「違うんです。さっき、ロッティが『一夏の恋』とか言い出したものですから」

「一夏の恋ねえ……どんだけ期待してんだよ、あいつ」

 やがてグウェノ手製の冷麺が仕上がり、セリアス邸の食卓に並ぶ。

 ちょうどセリアスたちも帰ってきた。

「今日は賑やかじゃないか。椅子が足らないな」

「僕らはあとでいただきましょう、セリアス。レディーファーストでどうぞ」

「ごめんなさい、ジュノーも」

 セリアスとジュノーは部屋に引きあげ、グウェノとハインは席につく。

「うわあ~! これってなんてお料理なの? グウェノ」

「冷麺っつってな。ランシャオって店があって、ちょいとレシピを」

 魔法で作ったばかりの氷が、からんと音を立てた。

東方の習慣に倣い、各々が箸を手に取る。

「イーニアに聞いたぜ? ロッティ。えらく真剣に選んでたらしいじゃねーか」

「と、当然でしょ。根暗な学者って思われたくないもん」

「西方では水練が娯楽、とは聞いておったが……本当におなごがあのような恰好で?」

「とんだスケベがいらっしゃるようですね。イーニア、もう少しこちらへ」

 何かと痴漢扱いされがちなハインは、わざとらしく目を泳がせた。

「拙僧は妻子持ちだぞ、そのあたりは弁えておるとも」

「よく言うぜ……ったく」

 そんな彼にも尋ねてみる。

「ハインは女性のかたと結婚してるんですよね?」

「あのねぇ、イーニア……結婚は普通、男と女でするものじゃないの」

 ロッティの突っ込みを聞き流し、ハインは指折り数えた。

「結婚してから七……いや、もうじき八年になるかのう。それがどうしたのだ?」

「馴れ初めとか聞きたいんだよ。な?」

 イーニアの周りで既婚者といったら、三十路の彼のほかにいない。ロッティやソアラも余計な口を挟んだりせず、人生の先輩の話に耳を傾けた。

 ハインの顔に穏やかな笑みが浮かぶ。

「二十過ぎの頃、拙僧は長い旅をしておってなあ……その時に一緒だったのが、女房になった。……いやあ、あの時はあやつと結婚なんぞ、夢にも思わんかったが」

「え? 結婚するつもりじゃなかったんですか?」

「まったく意識しておらんかったのだ。拙僧も、あやつも」

 ふたりの出会いは淡泊なものだったらしい。そのうえ、ハインの言葉にはまるで愛が感じられなかった。

「別段、好みでもなかったしのう。結婚したのが不思議なくらいで」

「ちょっと、ちょっと~? 夢を壊さないでよ」

 夢見がちな少女からクレームが入る。

「でも少し安心したわ。イーニアもそういうの、関心あったんだなーってね」

「興味……いえ、まあ」

 グウェノやハインの話を反芻しつつ、イーニアは冷麺を啜った。

 恋人のために尽くす一途なグウェノと、成り行きで結婚したらしい野暮なハイン。そのハインにしても、本当は一端のドラマがあったのかもしれない。

 それを素敵なことだと思う一方で、自分のことには考えられなかった。

(私もいつか結婚するのかしら……)

 どうにも自分とは縁のない、遠いものに思えてしまう。

 恋をするには、きっとまだ早かった。

「なんならセリアスか、メルメダにも聞いてみろよ? イーニア」

 面白そうにグウェノが一組のペアを挙げると、ロッティは瞳をきらきらさせる。

「えっ、それってどゆこと? もしかして……!」

 一方でハインは詮索せず、ソアラも落ち着き払っていた。

「あまり外野が茶々を入れるものではないぞ」

「あんな業突く張り、マスターに相応しくありません」

 意見が割れる中、イーニアは自然と納得する。

(セリアスがメルメダさんと? ……あ、だからデートしてたのね)

 ささやかな進展を知るのは、今のところイーニアだけ。

 セリアスのためにも黙っておくべき。それだけは直感できた。

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