陛下の奸計(1)
フロランス様より、偽婚約者役を命じられてから、はや十日。
アンリからはソレイユ語を、コンラート様とレーア様からはソレイユの礼儀作法や文化を叩きこまれ、どうにか『婚約者マルティナ』の振る舞いも様になってきたころ。
明日にはマルティナとして陛下に謁見する――というまさにその日。
最後の作戦会議として集まった離宮の一室で、私は震えていた。
「――ふふ」
朝一番、計画の主要人物が集まった部屋に、静かな笑い声が響き渡る。
他に声を発する者は誰もいない。
誰もが口をつぐみ、嵐に備えるように身を強張らせている。
「ふ、ふふふふふ」
一聴すれば、上品でしとやかな笑い声。
だけど笑っていないことは、その顔を見れば明らかだった。
冷たい美貌が、今はますます凍り付く。
笑い声とは裏腹に、夜空色の瞳に喜びの色は一切ない。
絶対零度の怒りを湛え、この会議の主催者――フロランス様は、王宮から届いた手紙を握りつぶした。
「――――ふざけているわ!!」
刺すように鋭い怒りの声とともに、魔力の風が吹き抜ける。
あの冷静なフロランス様が、感情を抑えることができずにいるのだ。
だけど、無理もない。
今朝がたフロランス様宛に届けられた、陛下からの手紙は、それだけの内容だった。
「オレリアとアンリの婚約披露宴をするですって!? しかも、今日、王宮で!? 明日はマルティナを紹介すると、事前に伝えていたというのに!?」
荒々しい風が、部屋の中を吹き抜ける。
会議参加者の大臣は青くなり、フロランス様の侍女たちは必死に宥め、アンリやアデライトも重たい面持ちだ。
さすがというべきか、平然としているのはコンラート様くらいだ。姉であるフロランス様の怒りを目の当たりにしても、愉快そうに笑っている。
「婚約披露宴って、アンリがここにいるのにどうするつもりなんだろうね? アンリが参加しなかったら赤っ恥だろうに」
ねえ、とコンラート様から話を振られても、アンリは静かに首を振るばかりだ。
言葉を発するのも億劫な様子の彼に、コンラート様は肩を竦める。
「他国から使者を呼んで、国民の前にも出る――という話だけど、ソレイユに披露宴の案内状が来たとは聞いていないなあ。グロワールとは隣国のつもりだったのだけどね」
「わたくしの祖国だから、招きたくなかったのでしょうね。それでソレイユ王家がどう思うかは、陛下には重要ではないのでしょう。ああもう、まじめに考えていたのが馬鹿みたい」
手紙を丸めて投げると、フロランス様はまた「ふふふ」と笑った。
今の笑い声には、怒りよりも諦念の色が濃い。なんともおいたわしいお姿である。
「陛下は自分の勘違いを否定されるのが、よほど怖かったのね。マルティナの件は前々から伝えていたはずなのに、直前にこんな話をねじ込んでくるなんて。……先にやったもの勝ちと思っていらっしゃるのかしら」
先にやったもの勝ち――と聞いて思い出すのは、婚約宣言の発布の件だ。
あれも今回同様に周囲への相談もなく、陛下の独断で実行されてしまった。
一度周知させてしまえば、もう後戻りはできないだろう、アンリも認めざるを得ないだろう――と、そう思う傾向が、陛下にはたしかにある。
そして事実、グロワール国王たる陛下の言葉は、簡単に撤回できるものでもないから厄介だった。
国を背負う陛下の言葉は重い。王として宣言を出せば、国内の貴族たちや他国との利害関係が絡み始める。
宣言の撤回は、宣言を出すより何倍も労力がかかるもの。
各地に頭を下げ、損益を補って、それでも信頼は失墜してしまう。
だから、一度声明を出してしまえば、無理を通すことも少なくない。
今回も陛下は、後戻りができない状況に持ち込むことを狙っているのだろう。
――ご自分のプライドのためだけに。
勘違いの宣言を誤魔化すためだけに、陛下は国さえも巻き込もうとしている。
その事実に、私は知らず唇を噛む。
アンリの意志なんて、もはや陛下にはどうでもいいのだ。
「ここまで愚かな人だとは思わなかったわ。止める者も、今の陛下の周りには誰もいないのね」
ため息交じりのフロランス様の言葉に、視線を下げるのは大臣たちだ。
現在、グロワールの重鎮たる大臣たちは、陛下の横暴に耐えかねて、ほとんどが離宮に逃げてきている。
王宮に残る数人の大臣は、完全に陛下の太鼓持ちだ。
陛下のやることなすことに賛成し、褒めたたえ、一切の否定をしないのだと、逃げてきた大臣たちから聞いている。
おかげで、この短期間で国政は大混乱だ。
今はまだ国の民まで影響は出ていないけれど、このままではとんでもないことになる。
どうにか陛下を止められないか――とフロランス様を頼ってきたのが、この場にいる大臣たちだった。
「今の陛下は、なにをするかわからないわ。ありえないと思いたいけれど――この披露宴を成功させるために、もしかして偽物でも用意しているかもしれません。そうであれば、かなり面倒なことになるわ」
まさか――とは言えなかった。
これまで、ありえないことばかりしてきた陛下なのだ。
良識や常識を期待しても、痛い目を見るだけだろう。
――それに。
オレリアとの婚約という一点についてのみ考えれば、陛下にとって偽物を立てるのは得しかない。
披露宴に堂々と参加するアンリの姿を見せることで、民はオレリア様との婚約を真実と思ってしまう。
その後に、正当な婚約者としてマルティナが名乗り出たとして、どれほどの人間が信じてくれるだろう?
マルティナは一介の貴族に過ぎないが、オレリア様は聖女であり、人々からの人気もある。
勇者と聖女の結婚は物語としても魅力的だ。
アンリがどちらと結婚してほしいかと言えば――民としては、オレリアを選ぶだろう。
そうなれば、後から出たマルティナこそ、アンリの婚約者の座を狙う偽物と思われてしまう可能性がある。
フロランス様やコンラート様のお力で無理やりマルティナを押し通しても、一度浸透した民の感情は簡単には覆らない。
民はマルティナを快く思わないだろう。
最悪、オレリア様の名のもとに、国が荒れるかもしれない。
国を犠牲にしてまで、アンリはマルティナを選べるだろうか――。
「……本当に厄介なことをしてくれたわ」
フロランス様が、皴の刻まれた眉間を揉む。
声には深刻さが増していて、魔力の風は止む気配も見えない。
いくら揉んでも深くなるばかりの眉間から、諦めたように手を離すと、彼女は難しい顔のままつぶやいた。
「ただの嫌がらせじゃないわね。あの人にそんな頭があるかしら? ……いったい、誰の入れ知恵かしらねえ」
……入れ知恵?
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