王妃の反旗(6)
「――もう、この話は終わりにしようか」
私を離すと、アンリはそう言って小さく首を振った。
「君の返事が聞けて良かったよ。それだけが心残りだったから。……ずっと困らせて悪かった」
「……いえ」
アンリが謝るようなことではない。
困らせてしまっていたのは私の方だ。
だけど私は、これ以上何も言えずに口をつぐむ。
アンリはそんな私を見て、苦笑しながら立ち上がった。
「そろそろ、アデライトも戻ってくるだろう。ここから出たら――もう、このことは忘れてくれ。アデライトにも俺から言っておくよ。どうせ君、あいつに振り回されていたんだろう?」
はは、と笑い声をあげて、アンリは天井に空いた大穴を見上げる。
穴から見えるのは、夕暮れではなく白い月だ。
いつの間にか、結構な時間が過ぎていたらしい。
「困った妹だけど、あれも君のことが好きで、甘えているだけなんだ。これからも仲良くしてやってほしい。――――ああ、来たみたいだ」
来た――というアンリの言葉通り、頭の上からドタバタと荒々しい足音が聞こえてくる。
「こっちこっち!」と叫んでいるのは、たぶんアデライトだろう。
いつまでも座り込んだままではいられず、私は慌てて立ち上がった。
それからふと、自分が手ぶらであることに気が付く。
――あれ……?
私、手ぶらだったっけ?
アデライトに引っ張られ、部屋を飛び出したときには、たしか――。
「どうした、ミシェル?」
周囲をきょろきょろと見回す私を見て、アンリが首を傾げた。
「なにか失くした物でもあるのか?」
「ええ、すみません、そうみたいで……」
先ほどの話のこともあり、気まずさを感じつつも、私は素直に頷いた。
早く地下から出たいという思いはあるが、だからと言って、放っておくわけにはいかない。
なにせ、私が失くしたのは、フロランス様から借り受けた大切な本なのだ。
「アンリ様、私の持っていた本を知りません? ソレイユの、歴史の本なのですが」
「ソレイユの歴史? どうして君がそんなものを?」
「フロランス様にお借りしたんです。――アンリ様のために、ソレイユの歴史と言語を十日で学ぶようにとおっしゃられて」
それなりに分厚い、建国から現代までの流れをまとめた歴史書だ。
部屋を出るときは置いていく暇もなく、腕に抱え込んでいたのを覚えている。
それからアンリを追いかけ、離宮中を駆け回っている間は……たぶん、手に持っていたと思う。
でも、アデライトの前に飛び出したときは持っていただろうか。
慌てて飛び出したとき、無意識に投げ出していたのだとしたら、魔法に巻き込まれて木っ端みじんの可能性も――?
……などと青くなる私の横で、なぜだかアンリまでもがかすかに青ざめていた。
いぶかしげに私を見やり、思いがけないほど低い声でこう尋ねる。
「俺のために、母上から『ソレイユについて学べ』と? …………君が?」
「そう、ですが……」
目を見開き、あからさまに動揺するアンリの様子に、私の方こそ戸惑ってしまった。
思わず一歩後じさり、悪いことでもしたかのように身を強張らせる。
「な、なにか問題でも……? まずいことをしてしまいましたか?」
「い、いや……。というか、君は承諾したのか? どんなことをするか、理解しているのか?」
「ああ、いえ、具体的にお話は伺っていなくて……」
問い詰めるようにぐいぐい来るアンリに、私は目を泳がせた。
後ろめたいことはないはずなのに、なぜだか妙に言い訳がましい態度になってしまう。
「……ただ、フロランス様からは、どんな無茶でも――私の人生を変えるような、私の絶対やりたくないことでもできるか、と尋ねられただけです」
アンリのためなら、どんなことでもする。
その気持ちに嘘はないが――たしかに、具体的な話を聞いておかなかったのは失敗だったかもしれない。
――フロランス様のことだから、アンリの悪いようにはしないと思うけど……。
だけどなにせ、フロランス様はあのアデライトのお母上。
たまに、とんでもないことをしでかすお方なのだ。
「君の……絶対にやりたくないこと…………」
私の言葉に、アンリはくらりとよろめいた。
頭に手を当て、表情を歪ませ、あからさまにうなだれるアンリの姿なんて、滅多に見られるものではない。が――。
「やってくれたな、母上……!! ――ミシェル!」
その珍しい表情に感心している暇はない。
アンリが私の腕を掴み、ぐいっと強く引っ張った。
「ここを出たら、すぐに母上のところに行こう! 止めないと、本当に君は、『絶対にやりたくないこと』をさせられるぞ!」
必死のアンリの形相に、私は頷くことも忘れて瞬いた。
……私、いったいどんな恐ろしいことをさせられようとしているのだろう?
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