コーヒーチェーンの窓際で
午後5時半。
あの人は必ず、この窓から見える景色の中を歩いていく。
大きなギターケースを抱えて。
私は学校からの帰り道、いつもこのコーヒーチェーンの窓際の席に座り、手のひらの小さな画面を離れ、大きな窓から見える世界を楽しんでいる。
おしゃべりをしながら行き交う人々。何かを乗せて走っていく車。
知らないアーティストが映っている大きなビジョン。カラフルな服や花や雑貨が並ぶお店。
……いつまでも飽きることのない人々の息遣い。そんな景色を眺めながらドリンクを飲むのが、私のルーティーンだ。
頼むのはアイスティーのM。コーヒーは飲めない。
席に座るのは5時頃。ちょうどあの人が通り過ぎる頃に飲み終わる。
あの人……彼は、90年代のイギリスのインディーズバンドのようなファッションで、音楽を聞きながら、ゆっくりと歩いていく。
……何を聞いているのかな? どこへ行くのかな? それとも帰るのかな?
バンドの人なのかな? ソロの人なのかな?
仕事かな? バイトかな?
学生なのかな? 大人なのかな?
――要するに私は、彼のことを何も知らない。
窓から見える何も知らない人、だけど目で追いかけてしまう人。
私にはこのくらいの距離がちょうどいい。
――それから何日も、同じ時間に、私はこの窓際の席で過ごした。
楽しいことがあっても、辛いことがあっても、自分のペースで歩く彼を見るだけで、全部心の中にしまい込めた。
いつものように、彼が窓の外を通り過ぎるだけで、日常が休むことなくまわっていると感じられた。
彼がいつも通りでいられる世界。その世界には私の居場所もある気がした。
私の日常が彼の日常とすれ違うほんの一瞬が、私の一日で最も輝く瞬間だった。
ある雨の日、彼は傘をささないで、大事そうにギターケースを抱えて歩いていた。
丸めた背中が雨に濡れるのを見て、私はカバンの中の折りたたみ傘を握った。
――駆け出して、傘をさしてあげたい。
でも私は、ギュッと傘を握りしめたまま、椅子から動くことができなかった。
立ち上がることも、追いかけることもできなかった。
ただ彼を見送ることしかできなかった。
窓を濡らした雨粒がスッと流れた。
それからいくつかの日々が過ぎ去った頃、――私の世界から彼が消えた。
窓の外にはもう、彼の姿が見えることはなかった。
それでも私は、窓際の席に座り続けた。
いつ通るかもわからない、彼を待ち続けた。
季節がひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ……
……ふたまわりほど過ぎた頃にはもう、彼がいなくなった日がいつなのか忘れてしまっていた。
――そして、私はそのコーヒーチェーンの窓際の席に座らなくなった。
季節はさらにめぐり、もうすぐ卒業となったある日。
私は残りわずかな放課後を、あの窓際の席で過ごすことにした。
あの頃と変わらない店内。
私はアイスコーヒーをオーダーして、あの席に座った。
窓の外を見ると、彼を目で追いかけていた日々が、とても懐かしく感じられた。
街の風景も、歩いていく人々も変わっていない。
変わったのは、窓越しの世界から消えた彼と私だけ。
そして今、この席に座る私が見ようとしているのは、目の前の景色ではなく、思い出の景色……
――その時だった。窓の向こうに彼の姿が見えた。あの彼の姿がはっきりと見えた。
幻でも思い出でもない。今の彼の姿が。
窓の外を通り過ぎるのではなく、この窓の向こうに見える、大きなビジョンの画面の中に――
そこにはスポットライトに照らされ、ギターをかき鳴らし、大観衆から歓声を浴びる彼がいた。
ビジョンの下を通り過ぎる人たちも画面を見上げていた。
私は窓越しにグラスを掲げ、氷をカランと鳴らした。
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