私はいつでも!
増田朋美
私はいつでも!
その日、杉浦千晴は、影浦医院の前にいた。以前は、こんなところに通うなんて、しんじられないくらい、体力と気力と、根性なら自信があったのに、今は、それなんて当の昔に忘れている。もう、やれる気力も体力もどこかに行ってしまった。動けなくなって、何日たつのだろうか。昨日、ついに死にたくなって、風邪薬を大量に飲もうとしたところを、母親に発見されて、この病院に行ったらどうか、と言われたのである。パソコンを使いこなせないとして知られていた母が、インターネットで見つけてくれたのだから、私は相当重症だったのだろう。だから、仕方なくではないけれど、ちゃんと病院に行って、ケアをしてもらう。それでいいのだと、彼女は思って、影浦医院の看板をくぐった。
影浦医院は、病院というか、小さな相談所のようなところだった。精神科というと、どうしても、変な人が行くところというか、怖い人がいっぱいいるのかなと思ったが、そうでもなかった。普通の感じの人、男性もいれば女性もいるし、待合室で仕事をしている人もいるし、本を読んでいる人もいる。つらそうな人がいると言えば、一般的な内科のほうが、もっとつらそうな感じがした。とりあえず、看護師からもらった、問診票に、やる気が出ない、動けないとだけ書き込んで、彼女は、待合室の椅子に座った。
「杉浦さん。どうぞ。」
と、彼女は、診察室から呼ばれた。同時に、彼女の前に診察を受けていた患者さんが、診察室から出てきた。その人は、中年の女性で、いかにも具合の悪そうな感じの女性だった。何かつらいことでもあったのだろうか、それとも、家族に、大変な人でもいて、疲れてしまったのだろうか。若くてガタイの大きな千晴よりも、小さくなって、つらそうな顔をしていた。そんな女性が、自分の横を、苦しそうな顔をして通り過ぎる。自分も、そうなってしまうのだろかと千晴は、不安になった。そんな顔には、自分はなりたくなかった。
「杉浦さん。」
と、診察室のドアから医師の影浦千代吉が顔を出して、彼女を呼んだ。千晴は、急いで診察室に入った。
「どうぞ、椅子に座ってください。」
影浦に言われて、千晴は椅子に座った。大体病院というところは、医師が立派な椅子に座って、患者は、くるくる回る小さな椅子に座るのが、通例になっているが、この影浦医院では、医師の椅子が粗末になっていた。影浦千代吉は、そのことを何も言わなかった。
「えーと、初診の杉浦千晴さんですね。職業は、」
と、影浦が問診票を眺めながら、そういうと、
「ええ、つい最近まで、飲食店で働いていましたが、店がこの時世でつぶれてしまったので、今は何もしていません。」
と、千晴は答えた。
「そうですか。わかりました。じゃあ、今日はどんな症状でこちらに来られましたか?」
「ええ、仕事を辞めてから、何もする気がしなくなっちゃって、今、何もしないで家にいるのがものすごくつらいんです。新しく仕事を探そうにも見つからないし。それに、家族には、何か仕事はないのかと、ずっとぐちぐち言われっぱなしで。私、飲食店のウエイトレスをするくらいしか、取り柄がないんです。なにか特技があるわけでもないし、何か芸術的なところがあるわけでもありません。」
影浦の質問に千晴は答えた。
「そうですか。お仕事は、自分で決めたんですか?」
と、影浦が聞くと、千晴は恥ずかしそうに、
「ええ、仕事は、親が決めました。私、大学に入ったとき、どうしても大学の雰囲気になじめなくて、一か月ほど休学してしまったことがあったんです。そんなわけですから、就職活動もちゃんとできなくて、親のこねで飲食店のウエイトレスをやっていました。」
と、正直に答えた。
「そこでも、なれるのにはずいぶん時間がかかりました。いつも同じところに通うのも苦痛だったし。やっと慣れたと思ったら、店がつぶれてしまって。まったく私の人生って何でしょうね。」
「そうですか。それで、毎日動けない生活になってしまったわけですか。」
「ええ、今回の流行なんてなかったら、普通にウエイトレスとして、働いていられたと思うんですけど。」
千晴は、ふっとため息をつく。
「ただ、順応するのは、ほかのひとより遅いんだと思います。」
「そうですか、わかりました。僕はね、鬱とかそういうものは、人生を変えるターニングポイントだと思うんですよ。それに、本当に精神科を必要とする人は、本当に数人しかいません。みんな、憂鬱な気持ちでいるだけのことです。」
それを聞いて千晴は落胆の表情を見せた。
「じゃあ、薬も何も、もらえないのでしょうか?」
「ええ、だって必要ありませんもの。ちょっと憂鬱になっているだけですよ。」
影浦に言われて、千晴はぎょっとする。このようなつらい思いが、また続いていくのだろうか?
「だから、これからは、自分の感情に正直になって、本当にやりたいことを見つけて、幸せになってほしいという、メッセージだと思ってください。それを果たすことができれば、鬱は、自然に治っていくと思います。」
「メッセージって誰のことでしょうか、親ですか?それとも、もともとの職場のひとですか?それとも、神様とかそういう人でしょうか?」
千晴は、影浦の発言にそういうことを言って、反発した。
「いいえ、あなた自身から、あなたへです。そういうことだと思ってください。」
「そんな、、、。今だって、仕事は見つからないのに、どうしたらいいのでしょうか。あたし、学歴も大学をやっと出られただけだし、何も特技もありませんから、芸は身を助けるとか、そういうこともできませんよ。別の店で同じ仕事をするにしても、ほかの店だってしまっていますし。」
「でも、あなたというものはありますよ。もし、何かありましたら、僕たちも協力しますから。あなたというものを本当に生かした仕事を見つけてください。」
「生かした仕事ですか、あたしは、体が大きいとしか、特徴も何もありませんよ。」
確かに、それはそうだった。千晴は、ほかの人より体が大きくて、力が強いだけが取り柄だった。女子としては珍しく、小学生なのに160センチもあっていじめられたこともある。今現在の彼女の身長は、170センチ近い。体重も、さすがに3桁というわけではないけれど、ほかのひとより体が大きいということは確かだ。かといって肥満をしているわけでもないのだが。
「体が大きいのなら、それを武器にしてもいいんじゃありませんか。僕は、それだっって、立派な武器だと思いますけれどね。あ、悪い意味で体が大きいという意味ではありませんよ。女性の方だとたまにそういうことを勘違いされる方がいますけど、そういう意味ではなくて、体が大きいことは立派な武器になるということです。」
そういわれて、千晴は少しほっとした。自分の体を売れと言っているわけではないということだと理解した。それは置いておいて、体の大きなことに何の意味があるんだと思うのだが、、、。
「大丈夫ですよ。本当に大変な人はね、自分のことをつらいんだとか、仕事がどうのこうのとか、そういうことは言わないんです。あなたは自分でちゃんと言えるんですから、問題はありません。気にしないで、自分らしい人生を、今度こそ送ってくださいね。」
と、影浦はにこやかに言って、彼女にもう帰ってくれて大丈夫ですよ、と、促した。
「は、はい、、、。」
と、千晴は、精神科に行っても空振りだったかと思ってしまったが、影浦ににこやかに微笑まれて、とりあえず無理やり笑顔を作って、診察室を出る。
とりあえず、彼女は病院からあるいて家に帰った。母が心配そうな顔をして、どうだった?と聞くが、まあ、別に変わらないとだけ言って、すぐに部屋に入ってしまった。とりあえず、何かやれそうなことはないかと考えても、千晴は思いつかない。ウエイトレスを募集しているレストランも、何も見当たらないし。ほかにできることと言ったら、母に教えてもらった料理を作ることか、洗濯を手伝うとか、掃除を手伝うとか、そういうことだけじゃないか。そんなことを商売になんかできるかな、、、と思って、求人サイトを片っ端から眺めていると、一番最後の欄に、「手伝い人募集」と書いてあるのが見つかった。介護関係と思われたが、特に介護福祉士などの資格は、必要なさそうだった。それよりも、体力のある方を、求めますとその求人欄には書いてあったので、それでは、私でもできるかなと思って、とりあえずそこにメールで問い合わせてみる。すると、数分後に知らせがあって、明日、面接をお願いしますということであった。翌日になって彼女は、メールで送られてきた地図を頼りに、その事業所へ行ってみた。事業所は、一人の男性が管理しているみたいだったが、ほかの従業員は誰もいなさそうだった。その管理者と、話をして、詳しい事情も聞かれることなく、彼女は採用された。
「じゃあ、一件目のお宅へ行ってみましょうか。いつも、求人募集するんですけど、大体、うちの仕事は魅力がないのか、数か月で辞めちゃう人が多いんですよね。」
代表の吉田素雄さんは、そういうことを言う。なんでかなと、千晴は思うのだが、それは後でわかる。
とりあえず、素雄さんと一緒に、歩いて第一件目のお宅へ行ってみた。その家の人の依頼は、人が怖いので、買い物に一緒に来てほしいというお願いであった。
そのお宅は、普通の一戸建ての家であったが、なぜか異様な雰囲気があった。ほかの家では、洗濯ものが干されているのに、その家だけ洗濯ものがない。素雄さんがインターフォンを押すと、30代くらいの女性が、応答した。何とも疲れているというか、落ち込んでいるような感じのひとだった。
「今日は、よく晴れてますよ。具合、いかがですか。」
素雄さんが聞くと、彼女は、はい。とだけ答えた。
「それじゃあ、まず洗濯物を干しましょうか。」
素雄さんの指示で、千晴は洗濯機のほうへ向かった。洗濯籠には、何にちも洗濯をしていないらしく、洗濯ものが大量にたまっていた。大体の洗濯機の操作の仕方は知っていた。だから、洗濯ものを持ち上げて、洗濯機に入れる。幸い、この洗濯機は、洗ってから、乾燥までやってくれるようになっている。この洗濯機だけ、やたら新しいのは、素雄さんがその機種に買い替えるように、指示を出したのではないか。千晴は、依頼した女性の顔を見てそう思った。
「今日は、ご飯は食べられましたか?」
素雄さんは彼女に聞いた。彼女は、いやと首を振る。
「じゃあ、冷蔵庫を拝見できますか?」
と素雄さんは冷蔵庫の中を開けた。冷蔵庫の中は、飲み物ばかりだった。ついでに、ごみ箱の中も確認すると、みんなコンビニ弁当の容器や、インスタント食品の容器ばかりだった。
「それでは、買い物に行きましょうか。今日は、栄養のあるものをしっかり買いましょう。」
と、素雄さんは言う。
「今日は、確か、イオンで特売でしたね、きっといい野菜が買えるのではないかと思います。」
主婦でもないのに、素雄さんは、そういうことを知っていた。なんだか男性のくせにそういうのはちょっと気持ち悪かった。
「それでは行きましょう。まず初めに、洋服を着替えましょうね。」
そういって、素雄さんは、タンスの中から、ジャージ上下を取り出した。依頼した女性は、まだパジャマ姿のままだった。ジャージを渡されると、バスルームに行って、着替えてきた。素雄さんは、彼女にカバンを持たせ、靴を履かせた。千晴も、彼女と一緒に、ショッピングモールに行った。本当は、大通りを回っていけば、すぐにつくはずなのに、彼女は人が怖いと言ったため、狭い路地を歩くことになり、倍くらい時間がかかってしまった。千晴はちょっと、不満を持ったけれども、素雄さんは、外に出れて素晴らしいと彼女をほめて、にこやかに笑っていた。
ショッピングモールにつくと、一番人通りの少ない入り口から、三人は中に入った。いくつか洋服売り場もあったけれど、彼女はそういうものには見向きもせず、食品売り場に行ってしまった。千晴は、ショッピングカートを押すことを任される。彼女は、インスタント食品ばかりに目が行ってしまうようであるが、素雄さんは、おコメとか、野菜とか、そういう生ものばかりを彼女に選ばせた。この食品売り場は、大規模な食品売り場で、開店時間も早いから、さほど混雑はしていなかった。それがかえっていいと、素雄さんは言っていた。
すぐに、素雄さんは、彼女にレジカウンターの前に立つように言って、お金を支払わせ、食べ物を袋に入れさせた。これだけは、彼女自身が担当することだと素雄さんは言った。そして、千晴は、彼女が購入した野菜や肉などをもって、また遠回りをして、彼女の自宅に帰った。
「それでは、軽くバターライスと、野菜のスープを作ってみましょうか。じゃあ、まず、お米を研ぎましょうか。」
と、素雄さんが指示を出す。千晴は、彼女と一緒にお米を研ぐのを手伝ってあげた。時々彼女は、疲れてしまったような顔をする。千晴は、なんでこんなに疲れてしまうのだろうと思ったが、素雄さんは、にこやかな顔をしたままだった。千晴も、疑問点は口にしないまま、にこやかにお米を研ぐのを手伝った。
「じゃあ、お米を研いだら、お鍋でバターを溶かしてください。」
と、素雄さんは、彼女に言う。彼女はお鍋を取り出して火にかけた。千晴は、チューブのバターを、お鍋に入れてあげた。
「それでは、お米を入れて、バチバチとなるまで、炒めてください。」
そう素雄さんが指示を出して、彼女は、菜箸でお米を炒めた。でも、もう疲れてしまった顔をしたので、千晴は炒めるのを手伝ってやる。
「お米が煮え立ったら、水をカップ二杯分、つまり400ミリリットル用意して、その中に、ブイヨンを一包入れてください。」
彼女は、500ミリリットルの計量カップに、水を400ミリリットルまで入れて、その中に、ブイヨンを一包入れた。千晴は、それを受け取って、中身を解きほぐす作業をした。
「じゃあ、それを鍋の中へ入れて。」
素雄さんの指示で、彼女はそれを、鍋の中に入れた。
「鍋のふたを閉めて、15分間、弱火で煮込んでください。」
そういわれて、彼女はその通りにする。その間はちょっと休憩ということになって、千晴は彼女をいまのテーブルに座らせた。その間に素雄さんのほうは、ホウレンソウを切ったり、大根を切ったりし始めた。多分、スープを作っているのだろう。
千晴は、素雄さんに、彼女の話し相手になってくれと言われて、彼女に、自分のこととか、家族のこととかちょっと話してみた。
「そうなんですね。」
という彼女は、千晴さんのことを否定してはいなさそうだ。多分肯定してくれてはいるのだろうけど、ちょっとよそよそしい感じだった。
「あなたは、実家のひとと暮らせていいですね。」
と、彼女は千晴に言った。
「それはどういうことかしら?」
と千晴が聞くと、
「だってあたしは、もう三年も自宅と連絡を取っていないのよ。この家だって、吉田さんが手続きしてくれたようなものだし。」
と、答える彼女。千晴が、どうして実家と連絡を取れなくなったか聞いてみると、彼女は、働けなくなって、家を出ていけと言われたからだと答えた。
「そうなのね。あたしも、実はそうなのよ。仕事がなくなって、今のところに雇ってもらってるんだけど、その前は、家族から煙たがれてた。」
とりあえず、彼女に同調するようにそういうことを言ってみた。
「うそでしょ。」
という彼女。よくわかってしまうな、と千晴は、びっくりする。
「そうじゃないでしょ。あなたは家族から愛されているって顔をしている。」
と、彼女に言われて、千晴は、そんなことないわと言ったが、彼女は、千晴の言うことを、その通りだと肯定しなかった。
「どうして私が、そうなっていると思う?」
千晴が聞いてみると、
「顔を見ればわかるわよ。あなた仕事なくしたって言ってたけど、家族に、すごく心配されたんじゃないの?あたしは、そういうこともなかったのよ。」
という彼女。
「それはまさしく図星だわ。でも、あなただって、家から出ていけと単純に言われたわけではないと思うけど?だって、自分のこと育ててくれたのは、ご家族でしょうが。」
と千晴が言うと、
「そんなことない。あたしは、誰にも愛されていないのよ。あたしたちは、働けないと、何もしてもらえないのよ。」
と言って、彼女はポロリと涙をこぼした。ちょうどそこへ素雄さんが、
「さあ、スープができましたよ、ご飯にしましょうね。」
と言って、先ほどのバターライスを入れた器と、スープをお椀に入れて持ってきてくれたので、千晴の話はそこで終わった。彼女は、こんな大量に食べられないと言っていたが、素雄さんが、無理しないでいいから食べてほしいというと、やっとバターライスを口にした。彼女はおいしいとも何も言わなかった。ただ、動物みたいに何も言わないで、バターライスを口にした。
彼女がお昼を食べ終わると、乾いた洗濯物をきれいにたたんで、素雄さんと千晴はその家を出ていった。料金は、あとで振り込んでくれればいいと言った。
「彼女、最後に誰にも愛されていないって言っていましたけど。」
事業所へ戻りながら、千晴は素雄さんに言った。
「それ、本当は違うのではないでしょうか。きっと、彼女の親御さんだって、あんなふうになるまで、彼女を追い詰めたりはしたつもりはないと思うんですが。」
「ええ、もちろん違います。」
と、素雄さんは言った。
「それは決定的な彼女の勘違いなんですが。」
そこで一つため息をつく。
「その勘違いこそ、治すのが大変なんです。そして、その勘違いをしている人は、生活能力をだんだんに失ってしまう。だから、それを僕たちは、矯正してあげなきゃいけないんですが、本当に難しいなと思います。」
そういわれて、千晴は、ちょっと赤くなった。あたしは、まだ、親に声をかけてもらえるんだ。そして、あたしは、それを受け取れる力もまだあるということだ。
「そうなんですね。あたし、初めてこの仕事をやりましたけど、なんだか、むなしくなってしまいそうです。」
と、思わず本音を言ってしまうが、
「いいえ、それを与えちゃいけません。彼女たちに、人間はここまで優しいのだと、再確認させてあげなくちゃ。それができないから、みんな辞めちゃうんですけどね。」
と、素雄さんに言われてはっとした。
「そうね。あたしは、いつでも行けるわ!」
千晴は、素雄さんの前でそういった。きっと、そういう言葉が言える人でなければ、素雄さんの事業は続かないと思った。
私はいつでも! 増田朋美 @masubuchi4996
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