第16話 再会
同日、某時刻。西区、倉庫街。
二つの銃声を聞いて駆けつけた佐々木は、体の中から込み上げる嘔気から、思わず口を手で塞いだ。
目の前には、頭に風穴を開けた、一人の死体が転がっていたのだ。
死体の太腿にも同じく銃創があり、先ほどの銃声の正体だと気づいた。
すぐにでも、その場から退散したかった。何より怖かったのは、銃を持った何者かが、まだこの近辺に潜んでいるということだった。
その時、背後から何者かの気配を感じた。それはゆっくり足音を立てながら、徐々に近づいて来る。
やがてそれが人の形を成し、佐々木の瞳へと映り込んだ。
それは、十代半ばの少女だった。
透き通るような銀色の髪に、強い意志の宿った瞳。肌も白く、あまり日本人らしくない見た目だ。だがそれ以上に、少女の姿は異常だった。服は血で真っ赤に染まり、手には拳銃が握られている。
誰の目から見ても、犯人がこの少女であることは明白だった。返り血と拳銃の時点で、疑いようがない。
しかし、佐々木はそんなことに目もくれなかった。少女の顔を真っ直ぐ見つめると、何か言いたげに唇を震わせる。
少女はキョトンとした顔で、挙動不審な佐々木を一瞥した。
そして、何かに気づいて目を白黒させる。次の瞬間。二人同時に、言葉を紡いだ。
「き、君なんだよね、十年前の」
「もしかして、佐々木くん?」
名前を呼ばれ、思わず笑みを浮かべる佐々木。
「そうだよ、佐々木だよ! 覚えてて、くれたんだね。すごく、嬉しいよ。あの日、君は俺に名前すら教えてくれなかったけど、俺はずっと君のことを忘れた日なんてなかった!」
「う、嘘でしょ。なんで、この島に? もしかして、追いかけて来たの? 私なんかの、ことを」
「あ、ああ、親に無理言って、こっちの高校に転向して来たんだ。どうしても、君に会いたかったから。はは、気持ち悪いよな」
卑屈な言葉をこぼしながらも、佐々木は終始笑顔だった。ずっと探して求めていた少女に会えて、本当に心の底から歓喜していた。
「どうして、そこまで私に?」
「ずっと、名前が知りたかったんだ。あの日のこと、すごく印象に残ってたから」
顔を紅潮せながら、佐々木は後頭部に手を回した。
「改めて、教えてくれないかな?き、君の名前を」
すると、少女はくすりと頬を緩めた。
「名前なんて、必要ないでしょ?」
「は、はは、はははは。それ、それだよ。同じだ、あの時、君が俺に言った言葉と」
佐々木は目の前に拳銃を持った血塗れの少女がいるというのに、そんなことまるでどうでもいいかのように、もはや最初から目に映っていないかのように、感動のあまり涙を流していた。
己が、十年間ずっと会いたかった存在に、いま出会えたのだから。
「美久留だよ」
「え?」
少女はいたずらっ子のような、意地の悪い笑みを浮かべた。
「だから名前、私の名前だよ。雨生美久留、よろしくね」
「あ、ああ! よろしく、美久留ちゃん!」
その瞬間、三度目の銃声が轟いた。
十年前。
その日、雨生美久留は初めて人を殺した。
都内の外れにある、人気のない公園の隅。
彼女は密かに、そこで子猫を飼っていた。駅周辺のタワーマンションに住む雨生は、ルール上ペットを買うことができなかった。そのため、家族に隠れて、公園内で子猫の世話をしていたのだ。
この公園を選んだ理由は、浮浪者が暮らしていて人があまり寄り付かなかったからだ。故に、子猫を飼っていてもバレないだろうと考えていた。しかし、それは裏目となってしまう。
「みゃーちゃん?」
雨生が呼びかけても、子猫は返事をしなかった。それどころか、ピクリとも動かない。まるで、死んでしまっているかのように。
その隣には、悪臭を放つ浮浪者の男が立っていた。男は、この公園に住み着いているホームレスの一人だ。雨生も、何度かこの公園で目にした記憶がある。男の手には割れた酒瓶が握られており、そのガラスの破片は、子猫の周りに散らばっていた。
すぐに、この男が子猫を殺したのだと理解できた。恐らく、特に理由はない。酔った勢い、弾み、その程度だ。
雨生は今でも、この時のことを鮮明に覚えている。
人を殺すのは、学校の体育よりも簡単なことだった。
幼い少女の力でも、特に難しくはない。ただ何回か、人の腹部をえぐってやればいい、頭を鈍器で打ちつけてやればいい。
雨生は浮浪者が普段から公園の至る所に捨てていた酒瓶を、男の後頭部に叩きつけた。
一瞬で殺せたわけではなかったが、男は酔っていたこともあり、あまり抵抗はしてこなかった。
ただ殴られた箇所を手で抑え、必死に痛みを訴えていた。
一回、二回、三回、四回。
何度殴ったかは、さすがに雨生も覚えていなかった。
雨生は浮浪者の男が動かなくなっても、それでも殴り続けた。
その殺意の根幹は、子猫を殺されたことによる憎しみでも、殺されるかもしれないという恐怖からでもなかった。
単純な、未知への好奇心からだった。
この男を殺したい、殺してみたい。そんな、淀みのない純粋な気持ち。
雨生が特別狂っていたわけではない。むしろ、彼女は誰よりも普通だった。ただ他と決定的に違うのは、何かに興味を示すことがなかったからだ。
勉強、仕事、スポーツ、音楽、郷土芸能、人はありとあらゆる分野を趣味にする。だ彼女にとって殺人が、万人で言うところの熱中できることだった、というだけのことである。
そして人は、誰しも生まれながらに才能を持っている。
雨生の場合、それが殺人だったのだ。
彼女は本能的に、どうすれば人はが死ぬのか、自然と理解できた。殺すということに対して、躊躇いがなかった。
気づけば自分も、目の前の浮浪者も、飛沫した血痕で赤く染まっていた。
これが彼女の、初めての殺人。
その時だった。彼女はふいに、背後から感じる何者かの視線に気づいた。
振り返ると、そこには少年が立っていた。自分と同じくらいの、まだ幼い男の子。
見られてしまった、人を殺しているところを。すぐに思った、この少年も殺さなくてはと。
無意識のうちに、雨生は殺意の矛先を少年へと向けた。
だが少年の口から放たれた一言で、雨生は思わず固まってしまった。
それは、耳を疑う言葉だった。
「あの、友達になってくれませんか?」
衝撃的だった。今、目の前で人が死んでいるというのに、少年はまるで普段とあまり変わらなそうな、自然な口調と態度で言った。
瞬間、雨生の背筋に悪寒が走る。
何か、得体の知れない人物を相手にしている気分だった。
「と、友達?」
思わず訊き返した。
「うん。僕、まだ友達できたことないんだ。だからお願い、友達になってよ」
「君、見てわからないの? 私は今、人を殺したんだよ?」
震えた声で、雨生は訊ねた。
だが少年は特に表情を曇らせることなく、キョトンとした顔で首をひねった。
「その人、死んでるの?」
血塗れで倒れるホームレスを見ながら、少年は言った。
「そ、そうだよ。私が、殺したの」
「あ、やっぱりそうなんだ」
「驚かないの? 怖くないの? 私、人を殺したんだよ? それも、大人の人を」
「怖くないよ。たしかにちょっとはびっくりしちゃったけど、もう死んじゃってるならしょうがないよ。殺しちゃった後なら、全然怖くない」
達観しているわけではなかった。少年はただ自然と、自分が思うことを言っただけだった。
たしかに人は殺した。だがそれはもう既に過去のことであり、恐怖を生むには値しなかったのだ。
仮にここで、雨生が少年を殺そうとしたとしても、また違った答えが返ってきただろう。
殺意は恐怖を生むが、殺戮は決してそうではないのだ。少年は幼いながらに、その分別ができてしまっていたのだ。
「人を殺すような子と、友達になりたいの?」
「そんなの関係ないよっ! だって君、すごく可愛いもん!」
「え?」
不意打ちだった。頭が狂っているだとか、ネジが飛んでいるだとか、そういうことを考える余裕はなかった。
正直、嬉しかった。可愛いと、言ってもらえたことが。
雨生は意図せず、顔を紅潮させる。服には返り血がつき、手には血塗れの鈍器が握られていたが、反応は年相応のものだった。
相手が人殺しだろうが、そんなことはもはや関係なかった。可愛い女の子と友達になりたい、それは男子にとって当たり前のことだ。別に、何ら不思議ではない。
当然のことだ、人殺しだって結婚できる。人を愛せる、人に愛される。
年齢の壁やタイミングなど、それこそ些細なことである。
「ねぇ、名前教えてよ! 僕、佐々木って言うんだっ!」
一拍置いてから、少女は答えた。
「名前なんて、必要ないでしょ?」
それは、恥ずかしさから思わず伏せてしまったわけではない。彼女の本心がそう言っていたのだ。
名前など、生きるうえで特に必要性はない。あくまで人間社会における記号だ。
佐々木という少年を前にして、雨生は無意識のうちに本音を露わにした。
「何それカッコいい! 僕も使ってみよっ!」
汚れのない、真っ新な、純粋な瞳。相手が人を殺していようが、目の前に死体があろうが、関係なかった。どこから見ても、単なる無邪気な少年だった。それが酷く不気味で、恐ろしかった。
だが、雨生の中では恐怖よりも嬉しさが勝っていた。
雨生は殺戮を知ると同時に、恋を知った。己が何者であろうと、純粋な瞳を向けてくれる少年に、心を撃ち抜かれてしまったのだ。
初めての殺人、初めての恋。
人工島に移住してからも、雨生がこの日を忘れたことはなかった。
彼女にとって、人を殺すことは恋を知るのと同義だった。誰かをこの手で殺める瞬間、何度も佐々木と出会った日のことを思い出した。
忘れられない、初恋の記憶。その一時を味わうために、彼女は人を殺し始めた。
それが、殺人鬼レインコート誕生の瞬間だった。
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