第8話 最下層

 人工島、地下街。


 一言で表すなら、その場所は汚い。

 辺りには饐えた匂いが充満し、煤や埃でコーティングされている。壁や建物に触れれば、手が一瞬で真っ黒になり、得体の知れないベトベトしたものが付着する。

 元々は人工島の管理を行うための施設だが、今は無法地帯となっている。

 太陽の光が届かない地下街には、灯りと呼べる物が蛍光灯の光しかなく、非常に薄暗い。

 空気は汚く、歩いているだけで目が染みる。すぐ近くに海水を引き上げている機関もあり、湿り気を帯びた箇所があちこちにある。

 まるでこの世の終わりのような場所だが、そこには様々な人間たちの声で溢れていた。チンピラ、浮浪者、犯罪者、ほとんどが社会にろくな居場所を持たない連中だ。

 そんな無法者たちを束ねているのは、人工島の地下でも最も低俗で救いようのないこの世のクズで形成された集団、通称ボトムだ。

 地下よりさらに底辺の存在、最下層を表している。

 その最下層をまとめ上げ、今のこの地下街を取り仕切るのは、まだ成人にも満たない十五歳の少女である。

 彼女の名は、新渡戸にとべ。クライマーとも称されるほどに身体能力が高く、自分より体の大きい男たちですら圧倒する地下街最強の存在だ。

 動きやすい短パンを履き、キャップ帽を被っている。加えてボーイッシュな黒髪セミロング。初対面では、彼女のことを男性だと勘違いする者が多い。それは、ボトムのリーダーが未成年の女性などありえないだろうという、先入観もあってのことだった。


 佐々木と東堂のタワーでの闘いから翌日。密かに撮られていたある映像を、新渡戸は歩きながらスマホで確認していた。

 地下街にはタワーが直接繋がっているため、都内の地下施設ほど電波は悪くない。

映像に映っているのは、島で怪物と称される職業不定の男、東堂敦。そしてもう一人は、学生服を着た謎の少年だ。喧嘩無敗の東堂とステゴロのタイマンで渡り合っている。

 新渡戸の後ろからは、左右に剃り込みを入れたドレッドモヒカンの大男が、猫背の姿勢でついてきている。眉毛は太く、唇は分厚い。その特徴的な髪型も相まって、顔と体が異常なほど目立っている。

 二人が歩いているのは、ノイズの入った耳障りな音楽が終始スピーカーから流れている地下の大通り。ここは地下の住居区画の一つで、在留機嫌の過ぎた外国人たちが不法滞在している。時折耳に入る会話は、英語であったり中国語であったりと色々だ。たまに、本当にどこの国の言葉かわからない単語まで飛び交っている。

「ラディッシュ、この男のこと、どう思う?」

「正直、得体が知れないですね。戦力としては申し分ないですが、扱うには荷が重そうです」

「ははは、お前がそんなこと言うなんて珍しいじゃないか。まあ、私も同じ気持ちだけど」

 新渡戸の後ろを歩くのは、ラディッシュ・ロックハート、ボトムのサブリーダーを務めるアメリカ出身の男。元々は、足の付かない都合のいい使い駒としてこの島に呼ばれた身寄りのない少年だった。地下街で追い剥ぎ紛いの行為を繰り返しており、新渡戸に落とし前をつけられる形でボトムに入団した。

 その恵まれた体格故に、喧嘩では新渡戸に次いで強い。

「だが、この男を阿久津に渡すことはもっとまずい。どうにか、私たちの手で回収しなければな」

 彼女がスマホを閉じた瞬間、建物の陰から何かが飛び出して来た。それはよく見ると、人の形をしていた。

「死ねぇっ! クソアマァ!」

 ナイフを両手で握りしめた男が、突然切り掛かって来たのだ。

 地下街に住む人間の顔を全て把握している新渡戸の目から見ても、男の顔は知らなかった。つまり、部外者ということである。

 名前も知らない誰かからナイフで襲われることは、この地下では特に珍しくはない。もはや日常茶飯事と言っていいレベルだ。

 新渡戸は素人と思われる男の動きを簡単に見切り、避けてからすぐに攻撃へと転じた。男の鼻柱に、新渡戸の掌底が叩き込まれる。

 三日月を描くように男は仰け反り、赤い飛沫を零しながら後方へと吹き飛んだ。

「ちっ、汚ねぇな。服にかかったじゃねぇか」

 ピクピクと体を震わせる男を放置し、新渡戸は服についた鼻血を拭い始める。

「残念でしたね、せっかく地上まで行って買ってきた新品なのに」

「ああ、まったくだ。って、なんでお前が知っているんだ? この服を、私が買ったばかりだったこと」

「いや、だって値札とサイズシールついたままですし」

「あっ」

 新渡戸は恥ずかしそうに値札とシールを引き剥がし、道の真ん中に投げ捨てた。

「あとで若い奴に拾わせとけ」

「わかりました。って、ここじゃあんたが一番若いでしょうに」

「あー、うるさいうるさい」

 まともな返事もしないまま、新渡戸は倒れている男の元に駆け寄った。

「お前、どうせ阿久津に言われて私を殺しに来た鉄砲玉だろ?」

 しかし、男は何も答えない。新渡戸の掌底が効いたらしく、完全に気を失ってしまっていた。

「にしても、まだこんなの飛んでくるんだな。もう鉄砲玉とか古いっての」

 かつては暴力団の若衆が出世コースに乗る術の一つであったが、今はもうそれも望めなくなってしまっている。理由は、有期懲役の上限が引き上げられ、無期懲役による模範囚の仮出所も中々に難しくなったのが原因である。そのため鉄砲玉の高齢化が進み、全く旨味が生まれなくなってしまった。

 島民の価値観や常識が止まってしまっているこの人工島では、未だに愚連隊ですら鉄砲玉を向わせている。

「今はそういう時代じゃないよなぁ?」

 新渡戸は最新型のスマートフォンを指で摘み、頭の上でぶら下げた。

「閉ざされた島にいようと地下にいようと、本土の流行りってのは理解してないと。片道切符なんて買わないで、カードでピッてな」

 自慢げに言うが、この女は自動改札機を通ったことも、ましてや切符を購入したこともない。生まれてこのかた、島を出たことは一度もないのだ。この島に住む人間は、基本的に全てインターネットで取り寄せる。より本土の技術をマスターしてアピールすることが、田舎以上に別離したこの島でのマウントの取り方である。

「新渡戸さん、聞こえてませんって」

「はぁ、せめてもう少しくらい骨のある奴を寄越せよな」

 素人を差し向けられたことに、新渡戸は安心するわけでもなく、軽く幻滅していた。

 しかし、それでも一瞬で男を倒した早技は見事なもので、周りにいた野次馬が歓声を上げている。

 その中の一人が、新渡戸の前に躍り出た。

「いやぁ、マジですごいっすね、新渡戸さん。雑魚だったとはいえ、超かっこよかったすよ」

 まだ未成年と思われる少年が、軽薄な口調で声をかけて来た。

「誰だ? 見ない顔だな」

 新渡戸は軽く警戒した。この地下街において、彼女が知らないと答える相手はまず間違いなく地上の人間である。そんな相手には、当然だが隙など見せられない。

「こいつ、昨日の夜うちに来た新入りですよ。えーっと、たしか名前は」

「玄野っす! 玄野優っす!」

「あー、そうそう、玄野だ!」

 ラディッシュは覚えていたようだが、新渡戸はすっかり忘れていた。昨夜の記憶を振り返ってみるが、新入りが来たということしか覚えていなかった。しかし玄野はあまり見た目に特徴がないため、記憶に残る方がむしろ珍しかったかもしれない。

「そうか、忘れていてすまなかったな。よろしく」

「いえ、自分は全然大丈夫なんで!気にしないでください!」

「わかった、じゃあ気にしない」

 新渡戸は淡白に返した。

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