第4話 化け物
都内には、化け物がいた。過去形なのは、今この瞬間はもういないからである。化け物が跋扈していたのは、一ヶ月ほど前のことだ。
中学生になったばかりの頃から、卒業するまでの三年間、少年はずっと呼ばれ続けた、化け物と。
化け物――と称されてはいるが、その少年は紛れもない人間である。当たり前だが、空想の世界に存在する化け物とは意味合いが違う。あくまでも、化け物みたいに強い、というだけのことだ。
強いと言っても、それは現実で測れる程度のものである。殴られれば涙目になるし、頭をぶつければ赤く腫れる。転べば膝を擦り剥くし、赤い血も流れる。少年は、体も頭も普通の人間と何一つ変わらない。
違うのは、根本的な力だ。
小学校にいる間は、特に何も問題など起こさなかった。
友達と普通に遊び、よく食べてよく寝る、どこにでもいる少年だった。
少年の人生に転機が訪れたのは、中学一年の夏である。街でたまたま歩いていたチンピラたちに因縁をつけられ、廃ビルでリンチされそうになったのだ。
それが、彼の持つ才能を発揮するきっかけとなった。いや、それはもっとシンプルなものだろう。生まれながらの資質などと言った小難しいものではなく、ただ単純に『力』と称するのがここでは正しい。
チンピラたちに何度殴られようと、蹴られようと、バットや鉄パイプで殴打されようと、少年が倒れることはなかった。傷口から血を流しながらも、少年は連中に臆することなく向かっていった。
そしてその喧嘩は、万人が想像するリンチではなくなった。結果的に一方的なものではあったが、立ち位置が逆だったのだ。
少年は己の持つ純粋な力で、チンピラたちをねじ伏せたのである。腕は脱臼し、頭から血を流し、足を引きずりながらも、少年の圧倒的な力が止まることはなかった。
もとより、中学にあがるまでに特別な近接格闘技を習ったわけでも、体を鍛えていたわけでもない。ただ、生物として強かった。
その少年には、躊躇というものが欠落していたのだ。人は自然と、相手の結末を考える。容赦しないなどという選択は、最初から選ばない。最低限、相手の今後を考えるものだ。だが、そんな概念は少年に備わっていなかった。
故に、誰よりも力を振るうことに長けていた。それが圧倒的な才能、根幹、源だった。
気づけば、少年は街でも有名な存在となり、多くの人間から喧嘩を売られた。
仲間の仇討ち、または己の武勇伝、または単純な力自慢。少年はそんな連中を、片っ端から相手にしていた。基本的に正当防衛、ではなく過剰防衛になるため、事件にしてしまえば警察を動かざるを得ない事態だ。しかし、喧嘩相手の不良集団がそんなことをするはずがない。それは、喧嘩を売っている己もただではすまないことだからだ。結局、その後も少年が警察の厄介になることはなかった。
だが、化け物と称された少年の噂は、たちまち余所の土地へと流れていった。
そして少年は、そんな周囲からの一方的な経験値を積み重ね、生まれながらに持つその力をさらに研ぎ澄ませた。
だから、理不尽に喧嘩を売られることには慣れていた。
たとえその相手が、怪物であったとしてもだ。
そして現在、タワー内部、展望台にて。
化け物と罵られ続けた少年、佐々木翠は、初めて喧嘩というものに積極的な感情を抱いた。
目の前に立つ、赤い髪の男、東堂敦。
もしかしたら、初めて喧嘩で一方的に殴られることも、殴ることもなくなるんじゃないだろうか。
決して、玄野を助けたいわけじゃなかった。己の身を守りたいわけでもなかった。
彼の脳裏に浮かぶのは、今までの喧嘩を根本から否定できるかもしれないという、怪物への期待と興味だった。
東堂の目は、獲物を視界に捉えた狂犬のごとく鋭く光っていた。そこには、佐々木と少し似た感情が込められていた。
単純な力では佐々木の手を振り解けないとわかった東堂は、掴まれていない方の手を固く握りしめた。
「その目が本物か、俺がこの手で確かめてやるよぉ!」
まるで尻から爆炎を放っているかのような重たい拳が、佐々木の顔面へと襲いかかった。
ボクシングでは、ジャブをマシンガン、ストレートをバズーカに例えるらしい。だが、その拳はどちらでもなかった。
同じように表現するなら、ミサイルと呼ぶべき一撃だろう。それも決して相手を逃さない、まさに誘導ミサイル。
その拳を真正面から受けるが、佐々木は決して東堂の腕を離さなかった。
次の瞬間、勢いよく掴んでいる腕を引き込み、その鼻柱に佐々木の頭突きが叩き込まれる。
だか、その程度、お互いに勝敗を分ける一手にはならなかった。これが普通の人間なら、間違いなく勝負が決まっていた。東堂の拳を、佐々木の頭突きを、人間がまともに受けて立ってはいられない。立っていたとしても、間違いなく気は失われている。
一歩間違えば、それは死に至るほどの衝撃だ。
本土と人工島。決して交わることのなかった怪物と化け物が、今まさにその拳をぶつけ合っていた。
互いに、人生で初めての経験だった。己の放った一撃を食らっていながら、手を休めることなく立ち上がる人間など。
佐々木は喧嘩で、一度も『負けたくない』などと思ったことはなかった。だが、その気持ちは変化していた。この男に、この怪物に、東堂敦に、決して『負けたくない』と、佐々木の胸中で渦巻いていた。
佐々木は漫画か映画やキャラみたく、腹の底から声を絞り出し、気合いを込めるかのように吠えた。
人間離れした足取りで、的確に相手にダメージを与えていく。ボクシングのインファイトなど比べるに値しないレベルの打ち合いだった。互いに相手の拳を受けつつ、返しの一撃をさらに強くする。どちらかが一度でも手を緩めれば、その隙が勝敗を分ける一手になる。
永遠に続くかと思われた長い闘いは割とあっさり決着がついた。
勝敗の鍵となったのは、純粋な力ではなく、体格差という何とも寒いものだった。僅かながらにリーチの優位があった東堂の拳が、まだ成長途中だった佐々木に勝ったのだ。
最後に展望台で立っていたのは無敗の怪物、東堂敦だった。
男にとって初めての黒星は、まだつけられることはなかった。
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