フタ・オブ・ヘル

愛庵九郎

フタ・オブ・ヘル

フタ・オブ・ヘル


トン。


トン。

タ。

トン。


雨の音が聞こえる。


トン。


トン。

タ。

タ。

トン。


古い鍋でも捨てられているのか、雨粒が金属を叩く甲高い音が聞こえる。


サァーーーッ。


カーテンのように空から霧雨が垂れ下がる。

バスの停留所の屋根に溜まった雨が雫となって古い鍋を鳴らす。


トン。

タ。

タ。

トン。

トン。


妾(わらわ)は停留所から見える昼日中の海の波をただ見つめていた。


タッ。

タッ。

タッ。

タッ。


「すいません! 隣いいですか?」


黒革の学生鞄を雨よけにした少年が停留所に駆け込んで来た。


「かまわんよ。このベンチは妾のものじゃないし、幸いにもふたり掛けで十分な長さがある」


少年は妾を見てぎょっとした顔をしたが、雨の中に戻る気もしなかったのか、ゆっくりと木製のベンチに腰を下ろした。


「それ、どうなってるんですか?」


「ん? それとはなんじゃ? はっきり言わんと分からん」


「そのしっぽですよ。どうやって動かしてるんですか?」


「あぁ……これか」


妾は黄金色のしっぽを蝋燭の火のように揺らした。


「生えとるんじゃよ」


「すっげぇー!」


少年は目をきらきらと輝かせて妾のしっぽの動きを目で追う。


「よかろう? 褒めても罰(ばち)は当たらんぞ」


「そ、それ……触ってみてもいいですか……?」


顔をこわばらせる少年の瞳が妖しく輝く。


「はっ、はーん? これはこれはいかがわしい」


「い、いや……そんなつもりじゃ……」


「まぁ、これほどの毛並みの尾はまたとないゆえ、誰もが触れたがるはものの道理といえよう。じゃが……坊主、高くつくぞ?」


妾は唇の端を吊り上げて少年の瞳を覗き込む。


「い……いくらくらい……?」


「かはははははっ……! 妾はお主のような小童(こわっぱ)から金をむしり取るほどの大悪党ではないわ!」


少年は顔を赤らめてそっぽを向く。


「くふふふふ。めんこいのぅ。そう拗ねるでない。ほれほれ。触ってみるか?」


少年の袖口をしっぽの毛先でくすぐる。


「……い、いいんですか?」


「くふふ。気持ちよいぞ」


少年はごくりと喉を鳴らし、震える指先を妾のしっぽに近づける。

少年の瞳は妖に魅入られたかのように輝く。


「じゃが……タダとは言わん」


妾はしっぽを引っ込める。


「むぅ。僕に何を求めてるんですか……?」


「くふっ。妾は探しものをしていてな。その途中で大雨に降られて雨宿りをしていたというわけさ」


「何か……失くしたんですか?」


「いやいやいや。失くしたわけではなく尋ね人じゃよ。妾はとある男を探していてな」


「どんな人ですか?」


「そうさな。少年には血なまぐさい話になるかもしれんが、そやつは妾の同胞を何人も殺したんじゃ」


「こ、殺した……?」


「驚くのも無理はなかろう。少年が生きる世界とは異なる世界の話ゆえ」


初夏の驟雨は振りつづける。


「現代では、妾ら妖の一族は鳴りを潜めるておる。じゃが、我々に仇なす者たちとの闘争はいまもつづいておる」


「妾らは住処を追われ、ある者は人気の少ない田舎の森に逃れ、またある者は人間の世界に溶け込むことで生きる道を見つけた。じゃが妾らは妖じゃ。ある者はいまだに都市の闇に隠れ人間を狩り、またある者は古からつづく妖を滅ぼす人間たちに狩られている」


「その妖を狩る者の中でも、ひときわ強力な者が現れた。其奴は陰陽の系譜らしく式神を使役し妾らの同族を狩っているという」


「まぁ狩られた者たちは、現代においてなお人間を何人も喰らっていた無頼漢であったゆえ、詮(せん)なきこととも言える。じゃが、とりわけ強力な妖たちがたったひとりの式神使いの手にかかったとあって、妾のような古株の妖にも相談の声がかかる」


「いわく、『なんだか最近こわい人間が仲間たちを手にかけているらしく、朝も眠れない。ちょっと見てきてくれませんかね』といった調子でな。こうして妾のような大妖怪がわざわざ重い腰を上げたというわけさ」


「妾が暴れ回っていたのなぞ、いまは昔。もはや隠居の身じゃったが、古い妖というのは望む望まぬに関わらず、尊敬と畏怖の念を向けられるというもの。妾も妖界(ようかい)の相談役として何もせぬわけにはいかなかったのじゃ」


妾は一息ついて、話に聞き入る少年に目を向けた。


「な、なんだか大変そうですね……」


何と言っていいか分からなかったのか、少年はあいまいな相槌を返した。


「そうじゃ。妾もこんな放浪を終わりにして、はやく田舎の山に帰りたいんじゃよ。だから少年、教えてほしいんじゃが……件の式神使いを知らんかえ?」


少年は細い目を丸くして両手を上げた。


「知らないですよ! 急に式神使いなんて言われても、どんな人かも分からないですし……」


「そうじゃな。それもそうじゃ。式神使いは若い男でな……そうさな、ちょうどお主くらいの齢(よわい)じゃ」


妾は少年の瞳を覗き込む。


「このあたりにいると風の噂に聞いてな。じゃからお主くらいの若人(わこうど)なら何か知っておるかと思ったんじゃが……」


「残念ですけど、僕は何も知りませんよ。そんな話もここらへんじゃ聞いたことないですし……ほんとに」


少年は困ったような笑顔を浮かべて目を細める。


「それもそうじゃ。雨宿りでたまたま行き当たった人間が、探し人のことを知っているなどという都合のいい話……あるわけないわな」


「そうですよ! 僕はただの中学生ですし、式神使いなんていまはじめて知ったんですから!」


「かははははっ。わるいわるい。はやくこの旅路を終えたくなって、つまらぬことを聞いてしまったな」


ほっと肩を撫で下ろした少年を、妾は射るように見つめた。


「じゃがひょっとすると、お主自身がその式神使いなのではないか……?」


少年が息をのみ、雨の音がさらに勢いを増す。

ここで雷鳴でも響けばさぞ演劇的になったことじゃろうが、それはありえない。

今日は、狐の嫁入りじゃ。


「や、やだなぁ! そんなわけないじゃないですか!」


少年は困り笑顔を崩さずに妾の問いを否定する。


「……………くっ、くふっ。からかってみただけじゃよ。お主がかの式神使いであれば、拍子抜けもいいところじゃ」


「そうですよ! 僕みたいなふつうの人間が妖怪と戦えたりしませんって……」


やだなぁ、と少年は頭をかいた。


「そうじゃろう。そうじゃろう。お主のような小童が何百年と生きる妖を調伏できるなど、御伽噺の類じゃな……くくっ」


「ところで……」


少年が細い目を薄く開く。


「その式神使いを見つけたら……どうするつもりなんですか?」


雨のにおいが鼻をつく。

妾は鼻がきくのだ。

若草の青臭さが混ざったつめたい香り。

それ自体は、けして嫌ではない。


「そりゃあ……妾も最古級の妖ゆえ、悪戯小僧にはちぃっとばかし痛い目を見てもらわにゃならん」


妾は唇の端を吊り上げて、尖った犬歯を見せる。


「へぇ……お姉さん、強いんですね」


少年はあっけらかんとしてほほ笑む。


「くくっ……よさんか。お姉さんなんて齢でもない」


「でもその式神使いって人……古い妖怪を何匹も葬ってきてるんですよね。そんな人と戦ったら……お姉さんも危ないんじゃないかな?」


少年はあいかわらずの笑みを浮かべているが、その笑みがどこか仮面のように見える。


「かかっ。妾は千年級の大妖怪じゃぞ? 式神使いなぞその開祖からの顔見知りじゃわ」


「へぇ……それはすごい。でもお姉さんほどじゃないにしろ、百年級の妖がその式神使いにやられてるんでしょ? その子は式神使いの系譜の中でも、特に力を持った神童かもしれませんよ?」


「んー……」


なにやらきな臭い。

くり返すが、妾は鼻がきくのじゃ。


「お主……やけに式神使いの肩を持つな」


「ううん、お姉さんが心配なだけだよ」


少年はあいかわらず線のように細い目をたわめ、張りついているような笑顔を崩さない。


「ふんっ。妾は折り紙遊びが得意な小童などにやられたりせんよ」


白昼の光が雨粒を輝かせる。

神さまがビー玉の入った箱を空の上からひっくり返してしまったようじゃった。

そのまぶしい景色を見ていると、頭にもやがかかったような妙な気持ちになる。


「ところで少年……その学生鞄、何が入ってるんじゃ?」


「へ……?」


少年ははじめて笑顔の鉄面皮を歪め、呆けたような表情になる。


「やだなぁ。学生鞄なんだから、教科書とノートに決まってるじゃないですかぁ」


「ふむ」


白いガードレールの向こうに見える青い海の波頭を見つめる。


「少年……ちょっとお姉さんにその鞄の中を見せてみなさい」


「えぇっ!? い、いや何で僕の鞄なんか……」


「いいからお姉さんに見せるんじゃ! わるいようにはせんから!」


妾は少年の鞄のハンドルを引っつかんでチャックを開けようとする。


「いぃぃぃぃやですっ……! 鞄だけは見せられませんっ……!」


少年も鞄を両手で鷲づかみにし、鞄を渡すまいとする。


「なんでダメなんじゃ! 教科書とノートしか入ってないなら、見せるくらいよかろう! ケチ!」


「ダメなものはダメなんですぅ! これだけはお姉さんでもダメなんですぅ!」


妾らは学生鞄で綱引きをする。


「はっはぁ~ん! 読めたぞ! 怪しいと思ってたんだ。その鞄の中はノートなどではなく式神に用いる和紙札じゃろ!」


「そんなことないですっ! ただのノートだから鞄を離してくださいぃぃぃ!」


少年は顔をまっ赤にして鞄を離すまいと体重を後ろにかける。


「道理で! 式神使いと同じ年齢の小童がたまたま雨宿りで妾と行き合う偶然などなかろうて! はじめから妾のことを見張っておったんじゃな!」


「わけわかんないこと言わないでください! いいから手を離して!」


「思えば最初からおかしいと思っていたんじゃ! お主は妾のしっぽを見て、この世界に妖怪がおると話しても驚く様子を見せぬではないか! それはお主が妖の存在を知っていたからではないのか!?」


「僕たちの世代ではそういう漫画や小説がごまんとあるんですっ! いまさら妖狐くらいじゃ驚きませんよ!? もっとへんてこな化物があの世界にはいっぱいいるのでっ!」


「くっ……この小童、強情じゃな……」


一進一退の綱引きは決着を見ず、妾は老獪なからめ手を駆使する。


「ふふっ。鞄の中を見せてくれれば……特別に妾のしっぽを触らせてやろう!!」


「マジっすか?」


少年が急に真顔になる。

力が緩み、鞄が大きく妾の方に近づく。


「い、いやいやいやいや……! やっぱりダメです! 鞄の中だけはダメっ!」


少年が我に帰ってふたたび鞄を引く。


「くくっ……妾のしっぽはもふもふじゃぞ! 千年来手入れをかかしたことのない最高級品じゃ! 触れられる機会なぞまたとないぞ!」


「うぅっ……! さ、触りたいっ……! だけど鞄だけは……鞄だけはダメだ……!」


「それはそれは天上の触り心地じゃぞ! 若人のときに妾のしっぽを撫でた男が、今際の際に思い出すほどの触り心地じゃ!」


「すごすぎる! 触りたい! で、でもお姉さんにだけは鞄の中は見せられない!」


「化けの皮がはがれたな! 妾のしっぽと鞄の中身を天秤にかけてなお抵抗できる者など、この世に妾の仇敵のみ! やはりお主が式神使いじゃったか!」


「ちっがっいますぅー! 完全に人違いですっ! あぁぁぁ! 鞄は見せられないけどしっぽはさわりたいぃぃぃ!」


「くっ……このままじゃ埒(らち)が空かんか……!」


妾はついに実力行使に出る。


「そっちがその気なら……ほれ! これでどうじゃ!」


妾はしっぽで少年の脇腹をくすぐった。


「あっ! ああぁぁはっ! き、気持ちよすぎるっ……!」


少年の手から力が抜けて派手に後ろに転がる。


「かははははっ。はぁ……はぁ……手間をかけさせおって……はぁ。さて、お主の正体……暴かせてもらうぞ……!」


「あぁぁぁぁっ……! 待って――」


少年が海老のように跳ね起きてその手を鞄に伸ばすものの、妾がチャックを開ける方が速かった。


「どれどれ……なんだほんとに教科書にノートに……ん? これは……まさか――」


「あああぁぁぁぁぁぁ……」


妾の手中に収まっているたのは……女子(おなご)の肌があられもなくさらけ出されている表紙の本だった。


「……………おい少年、そこに座れ」


「はいっ!」


待合所にベンチがあるのに少年はコンクリートの床に正座する。


「これはなんだ……?」


「あ、いえ、その……ぼ、僕のではなくて、と、友だちがですね……その処分に困って僕に押しつけたというそういう話でして――」


「そんなことは聞いていない」


「すいません!」


「お主は必死になってこれを隠しておったのか……? 親鳥が身を挺して雛鳥を守るように……?」


「あ、いや、その、お姉さんには見られたくなかったというか、ええ、その恥ずかしくて……」


少年は赤らめた顔を両手で覆ってくずおれてしまう。

妾は鞄に肌色の多い本を戻す。

そして少年の肩に手を置いた。


「いゃぁ~、少年! すまんかった! 妾の勘違いじゃったわ。かははははっ!」


「だから言ったじゃないですかぁ!」


妾は少年の黒髪をわしゃわしゃと撫でつける。


「少年が後生大事に鞄を庇いたてるから勘違いするのじゃぞ! 色本などで妾は動じんわ!」


「僕が気にするんですっ!!」


しかたあるまい。


「少年、顔を上げよ」


「うぅぅっ……こんなの立ちなおれな――あぁっ!?」


妾はしっぽの先で少年のあごの下をくすぐる。


「ふっふあああぁぁぁ……!? なにこれっ!? ふわふわ! 気持ちいぃぃぃぃ……」


少年の細い目が完全に一本の線になり、恍惚の表情で身を震わせる。


「くくっ……そうじゃろうそうじゃろう。このしっぽで籠絡された男(おのこ)は星の数ほどじゃからなぁ……」


妾はしっぽの毛先で少年の鼻先をくすぐってから大海を指さす。


「見よ、少年! 雨も上がり、空も晴れ渡った! なんか色々あったが、妾らも外の世界に踏み出そうではないか!」


「……いい話にはなりませんからね」


少年は立ち上がり、海の方に目をやる。

アスファルトにはところどころ水たまりができていて、陽光を弾ききらめかせていた。


「にしても、これで式神使い探しはふり出しに戻ったわけか……」


「これから行く先々も、騒がしくなりそうですね」


少年は手の甲で鼻の下をこすりながらつぶやく。


「そうじゃな。少年も――」


「せいぜい騒がしく、おもしろおかしく生きよ」


「僕は静かに暮らしたいだけですよ」


少年はまた目を線のようにしてやわらかくほほ笑んだ。


「狙いが見当外れだとわかったいま、こうしてはおられん。妾は式神使いを探して旅をつづけるとしよう」


「どうぞ。はやく目当ての人が見つかるように祈ってます」


「かかっ。少年よ、お主も今際の際に、今日という日を思い出すことじゃろう。さらばじゃ!」


コン。


………


………………


……………………………


「はぁ。ひどい目にあったのか、至福の時間だったのか、いまいち判然としないな」


お狐さまは甲高い鳴き声を残し、一瞬でその姿を消した。

さすがは大妖怪と言うべきか、その力量は底知れないものがあった。


「でも、よかったんですか? アレは最古級の大妖怪。人もたくさん殺してるはずですよ」


僕の学生服の胸ポケットからクモ型の《式》が這い出てくる。

つづけて右脚の学生ズボンのポケットからはヒトの手を模した《式》が、左脚のポケットからは鎧武者の《式》が顔を出す。


「まぁ、いいんじゃないかな? いまは大人しくしてるみたいだし。千年級の大妖怪と僕が戦うところを想像してみてよ? 僕だって負ける気はしないけど、わざわざ地獄のフタを開ける必要もないよ」


僕は燦々と照りつける太陽を手の平で隠しながら、停留所の外へ一歩踏み出す。


「……ふぅ。それにしてもあのしっぽ、めちゃくちゃふわふわだったな……」


「なに女狐に籠絡されてるんですか! そうやって身を滅ぼした男が数え切れないほどいたはずですよ!」


「そうだねぇ。そのくらいあのしっぽ、気持ちよかったんだよなぁ……。僕も気をつけないと」


黒い革靴が水たまりの水を散らす。

僕が誰もいなくなった停留所を振り返ると、


タン。


屋根から落ちた雨水が、棄てられた鍋の底を鳴らした。

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