四 “春待ち”の味
宴席にいそいそと入る私たちを見つけるなり、場にどっと笑いが起こった。宴は宴もたけなわ。儀式をすっぽかして大目玉をくらった私たちはさぞいい肴になっていたのだろう。都から来た宮司さんたちへの手前きっちり怒られはするが、退屈な儀式を抜け出すのは村の若者の通過儀礼だといっていい。
「時雨! 随分絞られたらしいな!」
仙人のようなひげ面が赤ら顔で笑った。この人はうちの常連様だ。天峰山の山頂にある測量台に勤めている人で冬の間も十日に一篇ぐらいは村に降りてくる。時雨を気に入っている人の一人で星の見方や測量やらを教えているのを見たことがある。
時雨はその後も宴席のあちこちから声がかかっては足を止めて笑っていた。その顔はいつにもまして楽しそうで席を立つときは名残惜しそうにさえ見えた。
そんな時雨に先立って私は末席に座った。味噌と醤油の香ばしい匂いに加えて杉と煉瓦の新しい匂いが宴席を包んでいる。祭りの宴席は村で一番広い「天峰屋」の宴会場で行われるのが常だ。この宴会場は夏に改修されたばかりで中心には異国を模した大きな暖炉が煌々と赤い光を投げかけている。昔ながらの囲炉裏を囲む「日之出屋」とは月とすっぽんだ。
もっともその栄誉と引き換えに紗那たち「天峰屋」の女たちは料理を両手いっぱいに抱えて厨房と宴席を走り回っているのだが。
「ねえねえ、あんたたち何をしていたのよ~?」
ひと際派手な着物を着た女たちがゲラゲラと笑った。この人たちは軍人さん相手に遊郭の真似事が生業としているが、わざわざ山の奥でやるのだから熊と変わらない大きな肝を持っている。女の私には優しい人たちでとても頼りになる人たちでもある。
「時雨を巡って『天峰屋』のお嬢様と大立ち回りを演じていたらしいじゃないの! きゃっはははは!」
…………もっとも泥酔していなければの話だが。
「私もあと十年若ければ、時雨と駆け落ちしたのに~」
「二十年の間違いだろ!」
仲買人のおばちゃんと商家のおかみさんが口を挟むと場が再びどっと沸く。
山の旅籠で潤う村は人が少ないので女でも斧を振るう。下界と違って風聞や偏見だけで生きていられる世界ではないのだ。山のそういうところが私は好きだ。
「おっ! 時雨だ、時雨ー! こっちに来てお姉さまに酒をつげー」
女衆に腕を掴まれた時雨はあれよあれよという間に白粉と香油の渦巻く中に放り込まれる。
ようやく私の隣に座ったときには少し疲労を滲ませていた。そりゃ酔っ払いの相手をあれだけしていれば誰だってそうなるだろうよ。
「お疲れ様。あんた、てほんと律儀ねえ」
大鍋の中から猪すき(猪肉を醤油と砂糖などで煮たもの)をよそってやる。箸をとった時雨はお椀の中を見て目を細めた。
「猪すきか…………うん、おいしい」
卵を絡めた肉を口に入れると夢心地の表情を浮かべる。猪すきは祭りや祝いの席でしか出されない馳走だ。ちなみに伝統ある料理ではなく、境の出島で流行った料理を「天峰屋」の先代が見よう見まねで作ったものだ。
「本物の牛すきはどんな味なんだろうねえ。天にも昇るほど美味しいらしいけど」
「まあ、あれは確かに美味しいね」
「えっ? 食べたことあるの?」
驚いた私に時雨は目をぱちくりとさせた。
「えっ? えっと…………聞いたんだ。誰に聞いたかは忘れたけど。それで猪すきは牛すきとは別物らしいんだ。そもそも臭みの強い猪肉を代用するのは無理があるんだけど、その臭み消しに生姜や少量の味噌、山椒を加えた結果、奇跡的に美味しい料理になったんだって」
へえー。確かに猪すきは美味しいし、私も大好きだ。卵を絡めた甘じょっぱい汁はどんな野菜も美味しくするし、細く切って煮込んだ肉は口の中で蕩けるようだ。そして、食べると体が芯から温かくなって元気が湧いてくる。でも、村の関係者で牛すきも食べられるような人はどれだけいたっけ…………? しかし、そんな疑問も刻一刻と少なくなる鍋の中身を見ているうちに消えてしまった。ただでさえ私たちは出遅れているのだから。
「ああ、これが食べたかった」
えらく感動した言葉を吐くので何かと思えば春待ち(山菜の一種)のお浸しだった。猪すきや鴨、魚の塩づけ、白米、都から買い付けた青野菜といった馳走に混じって卓の隅にとりあえず置かれた大鉢を時雨は宝物のように抱えた。
「時雨、て春待ちをそんなに好きだったけ?」
私に限らず村の子供は春待ちを苦手にしている子が多い。雪の下に埋まっていて冬でも食べられる山菜として村では古くから重宝されているが、とにかく苦い。ものすごく苦い。
「…………うん、好きになった」
そして、箸で一口入れると「おいしい」と漏らした。それからまるで大人たちのようにゆっくりゆっくり山菜を噛みながらその苦みを味わっているようだった。
宴はまだまだ終わらない。自然と手拍子が叩かれると誰かが立ち上がり、唄が始まった。人も場もいつまでも温かく、千鳥足が自然と配膳の役を変わる。
「時雨、私たちもそろそろ手伝うよ」
「あ、うん…………」
やはり苦かったのか目を拭うと時雨は立ち上がった。そして、宴の風景を目に焼き付けるように見てから目を閉じ、何かに納得したような表情を浮かべるとその場を立ち去った。
私たちの担当は洗い物だ。山のように積まれた木皿や椀を心の臓が凍りつく程冷たい水でただ無心に洗っていく。厨房は水と競うように寒く、手がたちまち真っ赤になった。
「うう、こんなの明日の朝やればいいのに! どうせ大人たちは朝まで飲むんでしょ?」
「まあまあ、これがあるから御馳走が食べられるんだから」
そう言う時雨は涼しい顔。冷たさに手の動きが鈍ることもなく、洗い終わった器の山が積み上げられていく。時雨のすごいところは寒さをものともしないところだ。雪が降っても袷で平気だし、その強さは猟師の爺ですら舌を巻くほどだ。
「それにここでなら例の件も話せるしね」
ドキッとして周囲を見渡すが、誰もいなかった。時雨の仕事を見て私たちだけでも平気だと判断したのだろう。
「あんた、本気で言っていたの?」
「もちろん」
私が黙ると器を洗う音と風の音が殊更強く響いた。
「計画はもう考えているんだ。もっとも計画といえるほど複雑なものじゃないけどね。本殿は施錠がされていて、その鍵は
さらりと言うが、私には要領を得ない。
「なんか……大雑把な計画ね」
「物事があっさり成功するときはこんなもんだよ。逆に一から十まで計画するときは一つ一つに誤算があったときに備えて百まで計画しないといけない」
そういうものなの? なんだか時雨が都の詐術師みたいだ。
「うーん。一つ質問。鍵を村長から借りるというけど簡単に借りられるものなの?」
「借りられる」
「どうやって? まさか盗むの?」
「いや、頼むんだよ。口で」
「誰が?」
「りせが頼むんだよ。僕じゃ無理だ」
「…………はあ? 時雨は阿呆なの?」
私がそう言うと時雨は腕組みをしてうーんと唸る。そして、「そりゃそうだよなあ」とか「ありえないよなあ」と漏らすのだった。時雨の頭は本当に大丈夫なのだろうか?
「はあ…………あんたが信じられないようなものを私が信じられるわけがないでしょう?」
「いや、本当にりせだったら大丈夫だと思うんだ。まあ紗那だったら絶対確実なんだけど…………」
すごく嫌な気持ちになった。なぜそこで紗那の名前を出すのだろう? そりゃ確かに村長は紗那の叔父だから理屈としては合うのかもしれない。でも、だったら私になど頼まずに最初から紗那に頼めばいいじゃないか。
「ほら、りせと村長は気が合うだろ?」
「そうですね」
「とりあえず嘘だと思ってやってみてくれないかな? もし借りられなかったらこのことは僕の思い込みだったと思っていいよ。でも、借りられたら社務所に持ってきてほしい。あとはなんとかするから」
気づけばあれだけあった洗い物が全て片付いていた。時雨は手をぱんぱんと叩いて水を払うと隅に立掛けられていた鉈を手に取った。
「本当は槍がいいけど、今から取りにいく時間もないか…………」
刃を指先ですっと確かめる。そして、右手を突き出すような構えを取るや否や刃はふっと消え、鈍い光の筋が目の前を舞った。
頭に浮かんだのは水の流れだ。雪解け水が細い谷を縦横無尽に駆け巡っていく感じ。事実、その動きは踊るように華麗。身体は回転し、小刻みに動かす足は宙を滑るよう。
いつまでも見ていたかったが、時雨はぱたりと動きを止めてしまった。
「やっぱりダメだ。身体がついていけない」
渋面を作ると鉈を握る手を見つめていた。引き付けを起こしたように震え、今にも鉈を落としそう。呼吸も荒く、白い息が現れては消えていく。
時雨はいつの間にこんな変わった剣術を習ったのだろう? 以前、逗留した中尉が興味本位で剣を教えたところあまりの筋の良さに都に連れていかせてくれと父に頼み込んだこともあった。けれど、そのときは両手に持って振るっていたはずだ。
「三人が限度だな…………」
ハッとしたときには時雨は防寒具を見に纏っていた。蓑ではなく、軍から流れてきた防寒外套だ。もっともぶかぶかなので蓑を被るのと大して変わらなかったが。
「ちょ、ちょっと待って? あんたが山賊と戦うの?」
「戦わないよ。あくまで用心しただけさ」
腕を掴む私に時雨は笑いかける。笑いごとじゃないと私は続けて言おうとするが、なぜだか言葉は出てこない。その間も時雨は準備を粛々と進めていく。
わけがわからない。絶対に止めないといけないと思うけど、そもそも山賊の話からして本当のことかどうかも怪しい。いつもの空想なら好きにやらせてしまえとも思う。
「じゃあ、頼んだよ。りせ」
全身をすっぽり着込み、襟巻の下からもごもごした声で言った。駄目だ。時雨は一度これと決めてしまうと本人が納得するまで誰にも止められない。それでも何か言わなければと考え続けていると床に何かが走るのが見えて思わず声を上げた。
「ひっっ! 鼠がいる!」
鼠は私たちにとって不倶戴天の敵だ。貴重な食べ物を荒らすし、何より噛まれればどんな病気になるかもわからない。冬の村ではそれは死に等しい。
鼠が時雨の前をちょうど通り過ぎようとしたとき、時雨はさっと床に手を伸ばすとわけなく鼠を掴んでしまった。鼠は喚いて逃げようとするが、手袋の中から動くことは叶わない。
「すごいすごい! 早く握り潰しちゃって!」
しかし、時雨は苦笑いをすると外套の内袋に放り込んでしまった。
「ちょっと! どうして殺さないのよ!」
そういえば時雨が獣に奇妙に甘かったことを思い出す。幼子のように自分にとって有益な獣かそうでないかを区別できず、獣相手だと百発百中の腕も見る影も無くなる。
「いい加減その性格直しなさいよね! 村のみんなが迷惑するのよ!」
「鼠も命であることは変わらないよ」
時雨は外套の膨らんだ部分を上から撫でると奇妙な調子で呟いた。
「温かい。この温かさは奇跡の対価なんだよ。命はこの世界の魔法なんだ」
「はっ? 何を訳を分からないこと言っているの? 父さんが昨日言っていたことをもう忘れたの? 今年はいつもより鼠が多いって、鼠が大量発生するかもしれないって! いるかどうかもわからない山賊よりもその鼠の方がよっぽと村にとって危険だわ!」
「なんだって?」
突然、時雨の声が怒鳴るような声になったのでたじろいでしまう。
「鼠が増えだしたのはいつぐらいから?」
「えっ? ええっと一昨日ぐらいから? ちょっと時雨、あなた何を言っているの?」
紫の瞳が灯の光を受けて複雑に照り返していた。
「まずいな。想定はしていたけど、想定以上のようだ」
そして、もう一度外套を撫でると「ごめん、どうやら君の力を借りないといけないようだ」今度は哀しそうに言うのだった。
「この鼠は後で僕が殺すよ。それでいいだろう?」
十三年ずっと一緒にいたというのに初めて聞く、深く沈んだ時雨の声。
「え、ええ。そうしてくれるなら別にいいけど…………」
勝手口が開くと深々と舞う綿雪が灯の光でぼんやりと輝いた。そして、右手を上げて笑うと時雨はその中に灯も持たずに迷わず飛び込んでしまった。
掴めなかった右手を宙を彷徨せていると遠くから声が聞こえてきた。
「じゃあ、頼んだよ! りせ!」
「なんなの……なんなのよ……時雨の馬鹿! どうなっても私知らないからね!」
しかし、闇の向こうから返事が返ってくることはもうなかった。
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