三 流星の夜
***
空を見上げると星が雨のように降り注いでいた。山の上にある村では箒星が見えることは珍しくない。いつだったか時雨と一緒に屋根の上から眺めたのを思い出す。でも、これは違う。夜空の星という星が注がれ、見晴らし台は仄かに明るくさえなっていた。
そして、星々の遥か上には翡翠に輝く天の羽衣。
「…………何が起こっているの?」
一瞬大人たちに相談したほうがいいかと逡巡したが、かぶりを振った。だめだ。社の大人たちは誰一人として異変に気がついていなかった。
見晴らし台への階段を駆け足で登っていく。足がひどく重い。息が苦しい。自分が愚図なのはわかっていたが、ここまでひどいとは。すると後方から霜を踏み砕く音が聞こえてきたので心の臓が凍り付いた。慌てて足を前に出すが、足音は一足飛びに近づいてくる。まさか、大人たちが気づいて連れ戻しに来たのだろうか?
「いや!」
「ちょっと、あなた何をしているの?」
「え……………………紗那?」
星の光に照らされた顔は村の誰よりも整った顔。細い眉をへの字に曲げて私を睨み付けている。よほど急いできたのか毛織に混じって紗那の甘い体臭がした。
「何を考えているんですの? “山閉儀”を途中で抜け出すなんて! あなたも時雨も信じられない。『日之出屋』は揃いも揃って愚か者の集まりなんですか?」
「紗那…………どうして?」
「どうしたのもこうもありませんわ! あなたが社を抜け出すのが見えたから追いかけたまでです。まったくいつもあなたはこの村の将来を担っていく人間としての自覚はないんですか?」
よかった。いつもの紗那のお節介とわかって私はひとまず胸を撫でおろす。
「ごめん、紗那。あなたが怒る理由はわかるわ。でも、今は急いでいるの! お説教だったら時雨と一緒に明日聞くから!」
再び階段を登ろうとしたが、今度は首を掴まれた。
「ちょっと待ちなさい!」
「こんの! 離してよ! 今はあんたと話して…………」
「あなたが急ぐ理由はこの夜空と関係があるのですか?」
紗那の細い指が空を仰ぐのを私は息を詰めて見つめる。
「関係、あるのですね」
「紗那はこれが見えるの?」
「何を当たり前のこと、とは言えませんね。そうね、りせさんを追いかけるのに夢中で気にしなかったけど、そういえば大人たちは見えていなかったようですね。あなたはこれが何か知っているんですか?」
かぶりを振った。この白い光が見えているのが私だけではないと知って少しだけ安心したけど、今はそれどころじゃない。
「時雨さんが“あそこ”にいるんですね?」
私が階段を登りだすと少し軽い足音がそれに続いた。しかし、階段を登るにつれて星の光は急速に消えていき、見晴らし台が近づく頃にはまるで夢であったかのように天の月が煌々と輝くばかりだった。
「時雨ー!」
闇の中に呼びかけるが返事がない。灯りを持ってきていないことに今更気づいて歯噛みしたときだった。箒星の筋が一本遅れてくると緩やかな弧を描いて岳樺の根本にふわりと落ちた。
「時雨!」
雪の中に半ば埋もれるように時雨が仰向けで倒れていた。
ふと灯りが灯ると時雨の顔が照らされる。横を見るどうやら紗那が持ってきてくれたらしい。
あっと思う間もなく紗那は時雨を抱きかかえるとその顔に耳を寄せた。
「よかった! 息をしている!」
紗那はホッと胸を撫でおろすが、私はちょっと面白くない。
「時雨さん、時雨さん」
異国製の手拭で何度か顔をなぞられると時雨の顔がぴくぴくと動き出した。
「時雨!」「時雨さん!」
「う…………ここは?」
時雨は眩しそうに視線を彷徨わせるが、なかなか私たちの存在を現実に結べないようだった。「…………うまくいったのか?」
その声音を聞いて違和感とともになぜかうすら寒いものを覚えた。しかし、そう感じたのは私だけのようで紗那はひどく優しい声で時雨にもう一度呼びかけた。
「時雨さん、大丈夫? 私が誰だかわかる?」
時雨は上体を起こすと紗那の顔をジッと見つめた。眉根を深く寄せて何かを必死で考えている。どうやら本当にわからないらしい。
「…………君は紗那、なのか?」
「そうよ! よかった…………時雨さんがどうにかなってしまったと思ってしまいましたわ」
涙ぐむ紗那とは対照的に時雨は視線を再び彷徨わせた。その目の動きはまるで目に映るものを一つ一つを確認しているようであり、やがて、紗那の横に立つ私の顔を見つけた。
「君は…………りせ、か」
「…………」
「そうよ、りせさんよ。私たちすごく心配したんですからね!」
その瞬間、時雨の表情の奥で密かに喜びが満ちるのを見た。一度深く目を閉じると感謝するようにその喜びを噛みしめている。そして、目を開けると今度は周囲を見渡した。感慨深げに、雪を、木を、月に照らされた山を、そして、最後には自分の両手を。
時雨の目から涙の雫がはらりはらりと落ちていった。
すごく嬉しいはずのにひどく悲しい―――私にはなぜだかそう感じられた。
「時雨さん、どうしたの? どこか痛むの?」
「いや、違う。大丈夫だ、よ」
「…………あなたは誰?」
ひどく冷たい声だな、と我ながら思う。肺腑の中から氷を吐き出したかのよう。私の言葉に紗那は面食らっていたが、時雨の表情は奇妙なほど変わらなかった。
「りせさん!」
「私たちの名前はわかったけど、自分の名前は言っていないよね? 答えて。あなたは誰なの?」
灯りに照らされた瞳は落ち着いていた。紫色かどうかは暗くてわからない。
「…………時雨、だ」
「気を失う前、あなたは何をしていたか覚えている?」
眉毛がぴくりと動くと「時雨」は目を閉じ懸命に考える。
「ダメだ。思い出せない」
「りせ、もういいでしょう? 時雨さんは頭を打って混乱しているんだわ!」
「ごめん、りせ。僕が何をしていたか教えてくれないか? 教えてくれたら思い出せると思う」
その声がわざとらしいと思うのは私の気にすぎなのだろうか?
「そうよ! きっとあの白い箒星が時雨さんの頭にぶつかったんですわ!」
「でも、時雨は怪我一つしていないじゃない」
「そうですけど…………でも、じゃああの星の雨はどうなってしまったんでしょう?」
紗那はそう言うと周囲に灯りを投げかけた。青白い雪が鏡のように照り返すだけで小さな穴の一つさえ見当たらない。やはり私たちは狐か何かに化かされていたのだろうか?
「あまり認めたくはありませんが、夢でも見ていたのでしょうね。今日は山閉じの日です。現と夢現の境が交わることもあるでしょう。そのう何というか、あの儀式はひどく眠気を誘うものですから…………」
やっぱり紗那でも眠いんだなあ、と思いながらやはり今までの出来事は夢まぼろしのものだったのだろうと目が覚めかけたときだった。時雨が神妙な顔で呟く声が耳に入った。
「白い箒星? 僕は“あれ”を見たことがあったのか?」
―――? 今、頭の中で知恵の板の欠片が嵌まりかけたような気がした。でも、駄目だ。違和感を感じただけで一体全体何が気になったのかは霧に包まれたままだ。
「結局よくわかりませんでしたが、考えるのは帰ってからにしましょう。このままここにいては本当に病気になってしまいますわ!」
紗那が手を叩くと我に返る。やれやれ不慣れなことをしても仕方がない。きっと心も体も疲れていたのだ。只でさえ大変な冬の準備に加えてここ数日は鼠騒動まで起こったのだから。
肝心の時雨の方も足取りはしっかりしている。どうやら本当に怪我の類はないようだ。階段のところまで来ると時雨は社に灯る篝火をひどく眩しそうに見つめた。沈黙が落ちると風の音ともに楽の音が流れてきた。どうやら儀式が佳境に入ったらしい。
「ありがとう。りせ、紗那。大丈夫。もう大丈夫だから」
横に立つと時雨はそっと微笑み、そのまま私にだけ聞こえる声音で囁いた。
「えっと、りせ。大事な話がある」
「…………な、なによ?」
「今、思い出したんだ。これからこの村に大変なことが起こる」
紗那の方をちらりと見る。紗那は箒星がまだ気になるのか空と雪を何度も見ては首を捻っていた。
「山賊が来る。奴らの狙いは『
「!」
「僕は意識を失う前に山賊を見かけた。そして、話も聞いた。たぶん下見役だろう。でも、みんなに知らせに行く前に眠らされたんだ」
「気絶させられたの? でも、時雨の頭には何も…………」
「違う。魔法で眠らされたんだ」
「魔法、ですって?」
私が素っ頓狂な声をあげたので紗那がこちらに気がついたようだ。でも、言うに事を欠いて魔法なんて。時雨はまだ夢現の状態から戻ってないのだろうか。
「魔法は本当にあるし、魔法使いもいる。帝国軍にも共和国軍にもね。人間、ありえないことでも現実に体験すれば大抵信じられるものさ」
なぜだろう。いつもなら空想話など聞いていられないと聞き流していたのに今回は違うように思える。なんというか、その言葉には実感とか真実味があるように思えるのだ。
それに山寺少佐が父と話していた話と符合するというのも気になる。
「でも、本当ならそれこそ大人に早く知らせなきゃ…………」
しかし、時雨は首を横に振った。
「難しいだろうね。この村の人は軍が駐留しているからそういうことはありっこないと決めてかかっている。おまけに彼らの頭には酒がもう入っているし、それに儀式を忘れて外で眠り呆けていた子供の言葉なんて誰が信じる?」
そう言って笑うが、そこに悲壮感はない。むしろいたずら心を隠しきれないような。今まで何度となく見てきたその顔を見て私はピンときた。
「じゃあ、どうするのよ?」
「僕に考えがある。りせ、協力してくれないかな? うまくいけば村を救える。それに今晩見られなかった『
「あ、あんたねえ…………!」
「お二人ともどうしたんですか?」
時雨は片目を瞑って私に合図をすると紗那にあっさりと山賊のことを話した。その行為に私は驚いたが、紗那は時雨の頭を心配するばかりでまともに取り合わなかった。そして、時雨は見えないところで「ほらね」と肩をすくめてみせるのだった。
その姿を見て私は少し吹き出す。ああ、だいぶおかしいけどやっぱり時雨だ。きっとどうしても「剣」が見たいから山賊なんて言っているのだろう。山賊の話も誰かから聞いて知っていたに違いない。完全に嘘ではないところが時雨らしいじゃないか。
大丈夫。今までと何も変わらない。
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