二 山閉じの祭り

 

 階段を降りる足取りはいかにも重かったが、境内の様子が目に入るとその華やかさに胸が躍った。山のように積まれた御供物に香りをたてる料理の数々、女たちは着物を競い合い、男たちは大笑する。黒い肌に湯気を上げて馬たちがつける大滑の刺繍のなんと見事なことか。その中に我が「日之出屋」の文字を見つけると誇らしさに胸がいっぱいになる。

 “山閉じの祭り”は天に感謝する粟の穂一本さえ持たない村にとって唯一といっていい祭りだ。

 神祖の時代から旅籠で生計を立てていた私たちにとって山が開いていることはまさしく生であった。だからこそ、夏の間は村の一人も例外なく昼も夜もなく汗を流し、客人たちのために礼を尽くす。そして、山が閉じるとともに私たちも穏やかな眠りのときを迎えるのだ。

 これから日暮れともに始まる“山閉じの祭り”は山と私たちにとって夢現のときであり、半分夢なのだから男も女も老幼問わず夜明けまで酒を飲み、歌い、笑い、騒ぐ。

 そして、夜が明ければ山は閉じ、村人それぞれの冬が始まる。下界に降りる者もいれば、「日之出屋」のように僅かな客を相手にのんびり仕事をする者、軍人さん相手に変わらず商売をする者もいる。

 私と時雨はといえば、村に唯一ある学校で勉強をすることが許される。

 物覚えの悪い私にとって決して楽しいばかりの日々ではないはずだが、それでも学校に行くことは夏の間の心の支えになっていたといっていい。

 まったく我ながら現金なものだ。

 

 カランコロン カランコロン


 突然、目の前に馬の集団が現れたのでひどく驚いた。慌てて脇に飛び退く私を尻目に馬たちはゆっくりと鈴の音とともに歩いていく。大滑にはひと際派手な刺繍と「天峰屋」の文字。

 その文字を見た途端、心に再び黒い雲がどんより垂れこむのを感じた。逃げ出したい気持ちを覚えつつ、馬の背に視線を這わせるとはたして彼女はいた。

 肩まで伸びた漆のように黒い長髪。たぶん家の仕事など手伝ったことはないであろう華奢な手足はひらひらしたものがこれでもかと沢山ついた異国のドレスに包まれていた。けれど、その上に纏った黒午紬くろうまつむぎ(獣の毛で作られた織物)のけばけばしさで台無しだ。

 紗那しやな―――私と同い年でこの村一番の旅籠「天峰屋」の長女。

 母親は都の没落貴族だったという噂に違わない優美な顔が私を正面から捉えた。

 私が反射的に手を振ったので紗那もいつものように乙に澄まして手を上げようとした。

 でも、できなかった。

 都のお人形のような笑顔にヒビが入ると唇はわなわなと震えた。そして、目尻がじわっと溜まった涙がどんな言葉より雄弁に訴えかける。


『あなたはずるい』


 永遠のように長い一瞬私たちは見つめ合っていたが、紗那はドレスの裾を掴むと少し頭を下げた。そして、そのまま本殿の奥に消えていった。

「仕方がないじゃない…………」

 ため息と一緒に独りごちた。

 私が望んだわけじゃない。たまたまそうだったのだから仕方がない。

               /  本当にそうなの?

 お腹の底にひどく濁った水が溜まっているような感じがした。黒い水の中で沸騰した泡がぶくぶくと音を立てている。その泡が体の隅々をくすぐるようにかすめていく。でも、それは不快でありながらも、どこか甘美で笑いたくなるような…………。


「…………りせ」


 そんなよくわからない感情が自分の体の中にあることにぞっとする。


「りせ?」

「ひゃあ?」


 突然の声に胸の奥が冷え、なんとも間の抜けた大声を私は上げた。顔を上げると父がいた。その横には飴をリスみたいに頬張る妹までいる。


「こんなところで蹲って、食い過ぎで腹が痛いのか?」

「ぽんぽんいたーい」妹が父の言葉にキャッキャッと笑う。


 儀が始まっていないので顔こそ素面だが、息は既に酒臭い。夏の頃は謹厳実直そのものの人だが、冬の父は煙草と酒と下卑た冗談だけの悪臭妖怪でしかない。

 もっとも滅多にいない冬の客を相手に商売をするということは、彼らには厳しい路をあえて越えなければいけない目的があるということだ。「困っている人を助けてこそ本当の商売」とよく嘯くが、この人は決して親切心と酔狂だけで生きている人ではない。


「時雨はどうした?」

「…………木の上で白鳥を見るんだって」

「白鳥? まったく仕様のないヤツだなあ」


 ガハハハッと山男とその中娘は笑った。母の姿はないのでやはり体調は良くならなかったのだろう。今頃は泣いてむずがる末お嬢様を家であやしているに違いない。


「それでおまえはなんでここにいるんだ?」

「えっ?」

「ぐすぐすしていると『天峰屋』の連中に時雨を取られちまうぞ。奴さんたち昨日はああは言ったが諦めていないな」


 言葉こそ冗談めかして言っているが、目はちっとも笑っていない。紗那の父、「天峰屋」の主人が昨夜「日之出屋」を訪ねたことは狭い村では秘密にすらならなかった。


「それともおまえが時雨を婿にもらうか?」

「もらーう! しぐれだいすき?」


 子供はいいな、と思った。私だってあの頃は時雨が大好きだった。時雨に結婚の約束をさせたことだって…………あるかもしれない。でも、あの頃のままの父だったら時雨と結婚することなど絶対に許さなかったはずだ。大人はみんな本当に勝手だと思う。 

 私が妹の手を引き取ると父のもとに軍服姿の男の人たちが近づいてきた。その中の一人には見覚えがあった。


「ご主人、ご無沙汰しております」

「山寺中尉殿! いや今は少佐でしたか? いやあ、ご健勝で何よりです!」


 山寺少佐は私たちの顔を見るとにっこりと笑った。

 細められた一重の目はいかにも温厚そうな顔だが、それ以外は特徴という特徴がない人だった。色々なお客を見てきたが、ここまで特徴のない人も珍しい。

 でも、決して忘れられるはずがない。去年の冬、大吹雪の晩に宿に転がりこんできた光景も春になっても消えなかった部屋の血の臭いも。

 結局のところこの村は神祖陛下の頃から何一つ変わっていないということだ。


「今もこうやって生きていられるのもご主人とこの村のおかげです。陸軍省を代表してお礼を申し上げたい。皇帝陛下もお喜びでしょう」

「陸軍ということはいよいよアレが?」

「はい、要塞ができれば賊軍が陸路で都を脅かすこともありますまい。玉を抱かない賊軍は象(飛車角)も失ったのです。東方に再び皇帝陛下の御威光が及ぶ日もそう遠くはないでしょう」

「そうなればこの村はまた辺境に逆戻りですな。困った、商売上がったりだ。近い将来、猫の額で粟を作って生きていかなきゃなりませんな」


 山寺少佐は苦笑いをした。この狸オヤジめ、と思っているのだろう。確かに環の国の山も空も海も遍く皇帝陛下のものに違いない。しかし、土地のことを知っているのは土地の者だけだ。

 時雨の腕を無理やりでも引っ張ってくればよかったと後悔した。

 ねえ、時雨。外の世界へ出て行くだけが冒険じゃないんだよ。この山で生まれ、生き、死んでいく。私たちの人生はそれだけだけど、それでさえも簡単じゃないんだよ。


「飢える、といえばご主人、白戌しろいぬの山々のあちら側で夏の終わり頃から山賊騒ぎが続いていることをご存知かな? どうにも禄を失った賊軍の兵が周辺の村を襲っているらしい。まったく太公の名も地に堕ちたものだ」

「まさかまさか。竜騎兵ドラグーンの目が光る山で山賊など熊の穴倉に食い物を取りに行くようなものだ」

「いやいや、彼らに勇気があれば祭りの余興に小官のライフルで熊狩りをお見せしようかと」


 二人は呵々大笑していたが、私は嫌な胸騒ぎがして妹の手をぎゅっと握った。

 どうして大人たちは笑えるのだろうか。 

 ―――あの神祖陛下だって油断して奸臣の策に落ちたではないか。



 “山閉儀”が始まった。

 朱の日紋(帝室の御紋)と未草ひつじぐさ(村を統治してきた山上家の家紋)が描かれた幕が開くと宮司が静々と内々陣に上がった。外陣には同じく都から下賜された楽師が並び、楽が厳かに鳴り響く。

 本殿は白片香の香りで満ち、村の人間たちはその立場によって各々の場所に座っている。内陣には紗那の父や私の父といった村の実力者に加え、山寺少佐などの軍人や宮内省の役人。そして、拝殿前方に男衆が序列ごとに並び、扉側には女子供が控えている。

 独得の韻と調子を含んだ宮司の言葉が粛々と響くが、その言葉は古語なのでさっぱり意味がわからない。儀は実のところひどく退屈なものだ。みな平伏しているが、そのどれだけが意識を保っているかわかったものではない。私も先ほどから床の木目がぐにゃぐにゃ見えている。

 時雨は結局来なかった。儀式は日暮れとともに始まるのであの馬鹿は今も暗い空を眺めているということになる。まったく何をやっているのだか。

 時雨―――あいつは本当に何なのだろう?

 私はまどろみの中でぼんやりと時雨のことを考えた。

 時雨と出会ったのは十三年前、時雨の母親がまだ乳飲み子だった時雨を連れて「日之出屋」を訪ねたときに遡る。私の両親と時雨の父親は幼馴染でその縁を頼んだらしい。

 時雨の母親は時雨と同じ紫の瞳と紅い髪をもった美しい人だった。私も会っているはずだが、残念ながら記憶にない。時雨の母親は村に来てすぐに亡くなってしまったからだ。それ以来私と時雨は兄弟同然に育てられた。

 閉鎖的な村であり、時代も攘夷戦争から間もない時期だったので当然時雨の瞳と髪は疎まれた。神聖な土地が穢れるとはっきり言う人も一人や二人ではなかっただろう。

 そういえば私自身も幼い頃、誰かから石を投げつけられたことがあった。

 けれど、父も母も時雨を投げだすことはなかった。

 父と母は「日之出屋」の一員として分け隔てなく接し、時には厳しく監督した。それがあまりに自然であったので頭の鈍い私は疑問を感じることすらなかった。

 だから、私は嘲りが霧が晴れるように消え、いつの間にか小さな少年に称賛と羨望の眼差しが向けられていることにも気がつけなかった。

「ねえ父さん、『神童』、て何? 時雨のことをみんなそう言っているの」

 そのときの父の苦笑いは今でも忘れられない。

 そして、私はその言葉の意味を知ると同時に時雨が私と全然違うように他の人たちとも全く違うことを理解するのである。

 時雨はいつだって輝いていた。

 父の教えることは一度言われただけで簡単に覚えてしまうし、教えられてもいないことですら魔法のようにわかってしまう。濡れて重くなった布団は何枚だって持てるし、お使いを頼まれれば坂道を羚羊のように早く走っていく。

 それ以上に何より素晴らしいのは誰かを惹き付けて止まない人柄。宿に泊まったどんなお客様でも時雨と一声交わせばたちまち友達になってしまう。汚れ一つない真っ新で正直な心根、自分のことより他人が気になる優しさ、そして、お日様のような笑顔。

 村の誰だって時雨のことが大好き。

 ―――私が時雨が大好きなのも当たり前のことだと思えるぐらい―――。

 今では都に上がれば学者や官吏、軍人など本人が希望すればなれないものはないと噂されているし、実際、何人かは推薦を出すとまで言っているらしい。

 でも、そんなことは些末なことだ。大人がどんなに褒めようと私にとって時雨がきらきら輝く宝物のような存在であることはいつだって何一つ変わらないのだから。

 ただ―――、時雨がいつか山に降りてしまうことがあれば、寂しいなあとは思っていた。でも、それも時雨の人生なのだからそのときが来たら笑って送りだそうと思っていたのだ。

 しかし、紗那の父が時雨を紗那の婿に求めた一件は私の凪いでいた心の泉にこれ以上ないほど大きな波紋を投げかけた。

 私はあのとき―――、


「『白鳥衣しろどりのころも』御開示、御開示」


 宮司の声が本殿に響くとハッと目が覚めた。いつの間にか楽の音は止んでいる。どうやら儀式は佳境に入り、いよいよ「白鳥衣しろどりのころも」と「白鳥羽剣しろどりばねのつるぎ」が取り出されるらしい。

 もっとも私たちは平伏したままなので衣や剣も直接見ることは叶わない。去年までだったら興味の欠片もなかったが、今は見てみたい気持ちがむくむくと湧いてきた。

 左右を横目で確認する。妹は床に涎を垂らしているし、おばさんはピクリとも動かない。よし、大丈夫だと思い、顔を僅かに上げる。

 紗那が言うには灰色の地味な衣だったけ。

 内陣の奥に衣桁が見えた。けれど、肝心の衣がない。

 宮司を見たが、巻物を読むばかりで着ていなかった。畏れ多くも神祖陛下の神器なのだから当たり前なのだが、では衣はどこにあるというのか?

 もう一度内陣の奥に目を凝らす。蝋の火は少なく薄暗い。

「―――!」

 危うく声を漏らしそうになり、慌てて平伏した。

 誰かが―――立っていた。

 見たことのない若い男で肩に衣を羽織っていた。衣は目が覚めるような純白でまさしく白鳥の羽を思わせた。

 あれは神祖陛下だ。それ以外に誰がいる。神祖陛下がいらっしゃったのだ。

 興奮で鼻息が荒くなる。今すぐ時雨のもとに走って行って自慢してやりたい。私は畏れ多くも神祖陛下の姿を拝謁することができたんだって!

 震える身を必死に抑えてもう一度顔を上げる。悪いことかもしれないけど、止められない。だって、神祖陛下なのだから。

 これは一生に一度の機会と覚悟を決め、今度は御顔を見奉る。


「―――うそ」


 今度は声が出てしまった。内陣の大人たちの顔がさっとこちらを向くよりも早く、私の頭は強引に床に伏されてしまった。視界の隅でおばさんが烈火のごとく怒っていたが、私は呆けたままだった。自分の中の時間が止まったかのようだった。

 神聖なお姿を盗み見て目が焼き焦げてしまったのなら仕方のないことと思える。

 しかし、違った。あれは神祖陛下ではなかった。私は神祖陛下の御顔を知らないけど絶対に違うと言い切れる。

 若々しいすらりとした顔に断固とした意志の力を感じさせる引き結んだ唇と強い眼差し。そして、その眼差しの奥に光るのは紫色の瞳、だった。

 間違いない。あれは“時雨”だ。

 でも、なぜ? 

 なぜ、時雨は大人の姿で立っているの―――?

 ジリジリする。何としてもあの人が時雨であることを確かめなければならないと思った。そう思ったのはその瞳があまりに哀しい光を湛えていたから。

 頭の上にある腕は力強く、顔を再び上げることはとてもできそうにない。それでも目を僅かに上げると天井が見えた。暗い天井。その奥は吸い込まれるような闇が広がっていたが、その中を無数の箒星が白い“糸”を引いて横切っていく。

 その光が向かう方向は―――考えるまでもない。


「おばさん…………頭がすごく痛いの」


 か細い声でそう言うと腕の力がふっと消えた。私は一礼すると這うように冷たい風が吹きつけてくる先に向かっていった。無数の頭の上を箒星たちは夜の闇を目指して越えていく。母親の横に置かれた乳飲み子がそれを見て笑っていた。

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