少年は彼方の果てを翔ける
希依
一 りせと時雨
ゆめをみた。
それは少年が十六になった誕生日の朝。
旅鞄に憧れと希望を詰めて旅立った。
彼方の果てに想いを寄せて。
ゆめをみた。
それは少女の涙が枯れはてた日。
風の噂に都を救った勇者の名を聞く。
彼方の果てに想いを寄せて。
***
見晴し台の階段を登ると視界に白い稜線が飛び込んできた。
冷たい風が首を通り過ぎ、少し震えた。振り返ると社の後ろに灰色の雲に包まれた白い天峰山が聳えている。こちらは圧倒されるという言葉が相応しい。
「襟巻を持ってくればよかった」
独りごちるとたちまち吐く息が霧雪に変わる。
季節はまもなく冬。
うー、山はきれいだけど寒い! なんで私だけ、と恨み節を呟きながら岳樺を見上げるとひと際高い枝の上にはたして“時雨”はいた。
「コラー! 時雨!」
しかし、時雨は私の声が聞こえていないようで山の彼方をじっと見つめていた。その見開かれた紫色の瞳にはまるで山々の向こうが透けて映っているかのよう。
「時雨ー、宮司様がいらっしゃっている…………てこりゃダメだ」
まったく…………コイツはどうしてこう…………。
大声を上げる前に小さくため息をつく。そして、目下の悩みの種となっている張本人の横顔を改めてまじまじと眺めた。
頬を林檎のように紅潮させ、この寒空に何が楽しいのか小さな笑みさえ浮かべている。元々の顔が幼顔なのでこうしているといつまでたっても子供っぽいままだ。
しかし、夏の間に驚くほどすらりと伸びた手足は枝をしっかりと掴み、この風にも関わらず微動だにしない。冬の柔らかい光を受けて紅く輝く少し伸びた髪。吐く息は熱気を帯びていてその姿は若い牡氈鹿を連想させた。
…………癪に障るが、時雨の姿形は誰もが見惚れてしまうほどきれいだと思う。
夏の頃、父の使いで汗だらけになって村を走り回る時雨を女は勿論のこと男たちでさえも眩しそうに見つめていた光景を思い出す。
私はしゃがみ込むと足元にあった雪に一寸ぐらいの石を入れてから掌で丸く固めた。そして、阿呆の頭めがけて投げつけてやった。
「…………痛い! あれ? りせじゃないか。どうしたの?」
「時雨の馬鹿! どうしたのこうもあんたがいつまでたっても私を無視するからでしょう!」
「えっ、いたの? 全然気がつかなかった」
私が石を投げつけようとするのを見て時雨は慌てて枝の下に手を差し伸べてきた。仕方なく手を伸ばすとその細腕には似つかない力強さで引っ張られた。
枝の上は五寸もないというのに視界はぐっとよくなる。目を下に向ければ村の端から端まで見渡せた。一瞬時雨の気持ちもわからなくはないと思ってしまったが、悔しいので口にしない。
「宮司様はもう本殿にいらっしゃっているわよ」
「ああ、うん」
「ああ、うんじゃなくて! あんたこんなところで何しているのよ! もしかしなくても“山閉じの祭り”をサボるんじゃないでしょうね。止めてよね、父さんに怒られるのは私なんだから!」
「ええと…………」
私が捲し立てると時雨は目を反らした。小さい頃からずっと羨ましかったその睫毛は女の子のように長くてまた腹が立った。
「鳥が見たかったんだ」
「はあ?」
「『
そんなことはいくら頭の悪い私でも知っている。
神祖陛下が東方遠征から都へお戻りの際、一日でも早く帰還を願う帝に臣が
白鳥は東方の姫が帝を追って姿を変えたものであった。神祖陛下はその羽で紡がれた衣をまとうと山はたちまち若草の萌ゆる姿に変わったという。
「…………そして、羽を喪った鳥は宝剣に変わり、衣と一緒にこの村の社に奉納されたんでしょ?」
「そうそう! 『
「こら、なんて畏れ多いことを! はあ…………時雨はいつまでたっても子供だねえ」
時雨は幼いころからずっとこうだった。好奇心が異常に強く、神祖の伝説に憧れ、宿を訪れる旅人が一度下界の話などすれば宿の仕事を忘れて聞くのに夢中になってしまう。
「ねえ、りせ。りせなら衣と剣、どっちが欲しい?」
「あんた、その質問何回しているのよ。そんなことより鳥はもういいんですか? 早くしないと大好きな衣と剣を拝謁できなくなりますよー」
途端、時雨の動きが凍り付いた。意地悪な質問だが、悪いのは時雨なのだから仕方がない。まもなく行われる“山閉儀”において『
「ああ、りせどうしよう。選べないよ。去年僕が白鳥をちらっと見たことは言ったよね? 羽を広げると一尺もあって、きれいだったなあ。だから、今年はしっかりこの目で見たいんだ。でも、白鳥は冬の始まりに北方の遥か遠くから飛んでくるから今まさに飛んでくるかもしれない。でも、衣と剣が見られるのも今日だけだし…………ああ!」
まったく…………本当にコイツはもう…………。
「わかったわよ。笛の音が聞こえるまでよ。笛が聞こえたらすぐに拝殿に来なさい。時雨は目がいいんだから末座でも見えるでしょ」
呼びに来たものの時雨が必ずしも儀に参加しなければならないということはなかった。時雨は言われた仕事を完璧に済ましているし、時雨が儀に参加するのはあくまで我が「日之出屋」の一員だからというだけ。それにそもそもあの剣と衣は―――だし。
しかし、時雨はそんな事情を全く考えもせず、私の言葉を聞くとたちまち表情を明るくさせた。それはまるで冬の厚い雲の間から覗かせたお天道様のようだった。
「りせ、ありがとう!」
「べ、別に礼を言われることじゃないわよ。アンタがあまりに頼りないから『未来の主人』として下知しただけよ」
「未来の主人」―――それは時雨にだけ使う言葉。他の誰にも言えない言葉。家族、特に父が聞いたら激怒するだろうし、紗那になど聞かれようものならどれだけ馬鹿にされることか。
「とにかく時雨ももう子供じゃないんだからいつまでも山ばかり見ない。みんな噂しているよ、時雨は『
この村は北から西にかけては
「あはは、海か。確かに見てみたい!」
「もう! 笑いごとじゃないって!」
ポカリと頭を殴りつけたが、時雨はキョトンとするばかりだった。
本当に笑いごとじゃないのに。
木の下に降りると時雨の視線は既に山の彼方に向かっていた。こんなことはいつものことなのに昨夜あんなことがあったせいか今日は殊更寂しく感じられた。だから、私は気がつけば口を開いていた。何を言おうとしているのか自分でもわからなかった。
「―――しぐ…………えっ?」
時雨が振り返るのが見えた。
けれど、私は時雨の顔が見えない。
時雨の頭の上にあるものに目が釘付けになっていた。
「りせ?」
時雨は何も気がついていない。何も感じていないのか? あんなものがあるのに?
―――“それ”は糸だった。
天から白い一本の糸が降りていた。風に揺れ、キラキラと輝いている。だから、糸という他ない。途方もなく長く伸びたその糸は時雨の頭に繋がっていた。確かに繋がっている。その証拠に時雨の頭に合わせて糸も動いている。
糸の反対側を追って空を見上げるとが薄い浅葱色が広がっていた。不思議なぐらい雲一つなく晴れ渡っている。でも、糸の先にあるあれは何?
頭に浮かんだ言葉は風になびく巨大な反物だった。それは赤から緑、緑から蒼と刻々と色を変え、形さえも雲や煙のように一時とて同じでない。
「…………なんて、きれいなの」
女のくせに衣や石にまるで興味がない私でもわかる。あれは、本当に…………
「りせ!」
肩に軽い衝撃を感じてハッと我に返ると目の前に時雨の顔があった。時雨の頭の上にはもう糸は見当たらない。もう一度空を見上げてみるとあのきれいな何かは忽然と消え去っていた。
「りせ、どうしたの⁉」
「ええ、ああうん。大丈夫」
「なんていうか…………狐に憑りつかれているみたいだったよ」
“憑りつかれていた”という言葉に得心が行った。なるほど確かにあれはこの世のものではなかった。狐に化かされるというのはこういうことなのかと思ってしまった。
「時雨の馬鹿! 時雨が変なことばかり言うから、私まで変なものに憑かれちゃったじゃない!」
「ええ、そんな⁉ 僕のせい⁉ でも、本当に狐に憑りつかれたんだ。どうだった? 何が見えたの?」
もう一度頭を殴りつけようとしたが、私の腕は我知らず時雨の頭の上に伸びていた。
糸などやはりない。
けれど、なぜだかとても泣きたくなるような気持ちに突如襲われた。
「りせ、大丈夫? 顔が真っ青だよ」
「…………ねえ、時雨、大人になっても私たちは一緒だよね?」
自分の言った言葉に驚く。一方で今までもやもやしていた不安の正体がその言葉でやっとわかった気がした。
「うん、一緒だよ」
…………時雨の言う“一緒”はたぶん私たちの思う“一緒”じゃない。
その証拠に時雨の見つめる先はもう山の彼方にあった。今、空に白鳥の姿があればいいのに。そうしたらすぐにその腕を笑顔と一緒に引っ張っていくことができたのに。
咆哮が山を震わせると山奥から政府軍の
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