五 少女たちの戦
それからどれだけその場に立ち続けたのだろう。気づけば体がすっかり冷え切っていた。ぶるっと震えると両腕で自分を抱きしめる。
「ちょっと! 戸が開けっ放しじゃない!」
怒鳴り声ととも勝手口が閉められる。ところが、框の上に雪が積もっているので戸はうまく動かない。悪態とともに足で雪が払われるのを私はぼんやり見ていた。
この人は「天峰屋」の女中頭の人だ。どうやら交代に来てくれたらしい。
「あらっ? 洗い物が全部終わっているわ」
「…………みんなのところに戻ってもいいですか?」
「ええ。よござんすよ」
戻る。みんなのところへ戻る。
そして、
――――――本当に時雨の言う通りにして大丈夫なのだろうか?
身体が震え続けるのは絶対に寒さだけじゃない。
――白い糸――儀で見た男――箒星――山賊の襲来――そして、時雨ではない時雨。
早鐘のような心の臓が私に戒告を与え続けている。
おかしい。けれど、立て続けに起き過ぎてもはや感覚が麻痺し始めている。これらは果たして何か一つの出来事に繋がっているのだろうか?
何気なく振り向くと火打ち石が叩かれるのが見えた。火花が無数に灯っては消えていく。それがこの世のものに思えなくて私は思わず身をすくめた。
「わからない、私にはわからないよ、時雨…………」
宴席は終わりのない終わりの段階を迎えていた。卓の上には僅かに乾物があるばかりでそれを肴に大人たちはちびちび酒を呷っている。残った大半は村の男衆で賓客や子供女の姿はほとんどない。旅籠の誰かに連れられたのか、妹の姿もなかった。
村長の姿を探して見渡すとはたして「天峰屋」の主人の隣に座っていた。儀の重荷からようやく解き放たれたのか、ホッとした表情で盃を干していた。
足を踏み出そうとするが、その一歩が凍り付いたように動かない。
なぜならその中に紗那の姿もあったからだ。紗那はやっと夕餉を取れたようで親戚縁者と談笑しながら猪すきを小さな口に運んでいた。
私としては紗那とはさっき仲直りしたつもりだけど、きっと当事者とみなされているであろう私が昨日の今日で「天峰屋」の面々の中に飛び込むのは勇気が要った。
でも、あれだけ心を悩ましていた婿騒ぎが今の今まで頭から消えていたんだな…………。私は心の中でほくそ笑む。これだけは怪我の功名なのかもしれない。
あれこれ考えて立ちすくんでいると村長と目が合った。途端、赤ら顔に柔らかいものが宿る。村長は父とは幼馴染の間柄であり、「日之出屋」の人間は皆よくしてもらっていた。
「叔父様、少し飲みすぎなんじゃないですか?」
しかし、私が話しかけるよりも先に紗那が村長に話しかけていた。村長は目顔で「すまない」と言うと父親と兄によく似た気質の姪に向き直った。
「顔が真っ赤ですわよ。普段は飲まないくせに張り切るから」
「そんなことよりおまえのその気持ち悪い喋り方をどうにかならんか?」
吹き出しそうになるのを必死にこらえた。さすが村長。私たちが言いにくいことでもずばっと言ってくれる。
「こ、これは都の女学校に入学したときに今から備えているんです!」
「ふーん。習字や和歌を習うような女でもあるまいに。境の出島に丁稚に出たほうがよほどお前さんのためになりそうだがねえ。聞けば異人は女でも番頭をするというじゃないか」
「しっ! 叔父様、太公側のような物言いはお止めください」
「太公ねえ、お前さんも村がも少し東にあったら女議員にでもなったのかねえ」
急転直下、床がぐにゃりと傾ぐのを感じた。そうか。紗那もそう遠くないうちにこの村を出ていくのか。本人は腕試しや修行のつもりなのだろうが、女なのだから何時どうなるのかわかったものではない。そうか。私だけがこの村に残ることになるのか…………。
村長は私をちらりと見ると言葉をつぐんだ。その表情から察するに、これ以上話せば件の少年に触れることを厭うたのだろう。
「叔父様はもうまったく。あら、袋が落ちていますわ。これはまあ…………本殿の鍵じゃありませんか? 叔父様! なんて不用心なことを!」
…………えっ?
「ああわかったわかった。じゃあ、おまえさんが朝まで預かっておくれ。頭に酒が回った儂よりしっかり者のおまえが持ったほうが神祖陛下もご安心じゃろうて、あはは」
「もう! 笑ってないでお父様からも言ってください! 世が世なら切腹ものですよ!」
…………なんだこれは?
『まあ紗那だったら絶対確実なんだけど………』
あのとき時雨はああ言っていた。
時雨はこうなることを知っていた?
今までとは明らかに異なる感情が全身を体の芯から凍り付かせた。時雨はこうなる未来の卦を得ていたとでもいうのか? まさか?
その瞬間、全てが繋がった。
私は時雨がこれまで言っていたことが現実になることを確信した。
――――今夜、この村に賊が現れて『
今までのことが神祖陛下の思し召しなのか、それとも凶事の前兆なのかはわからない。そして、この先もっととんでもないことが起こりそうで怖くて仕方がない。
『じゃあ、頼んだよ! りせ!』
けれど、どちらにせよその中心には時雨がいて、その時雨は私だけを頼ったのだ。
一旦「天峰屋」の人たちから距離を取るとそれから私は干柿を齧りながら紗那の様子を伺い続けた。しかし、紗那は最初こそ持て余して箸の脇に置いていたが、やがて不安になったのか腰紐に鍵の袋を括り付けてしまった。くそ、あのしっかり者め!
さすが村長が頼っただけのことはあると思いたいところだが、感心ばかりもしていられない。今もあの阿呆が雪吹きすさぶ中を待っているのだから。
「こんばんは、りせさん。今年もお世話になりました。なりましたっけ?」
しかし、私がどうこうするよりも先に紗那の方から近づいてきた。あれだけ仇を見るような視線を送っていたらそりゃ気がつきもしよう。
「こ、こんばんは、紗那。今年もお世話になりました。もちろんお世話もしたよ!」
「あら、そうでしたかしら? ほんの少し前にも大切な儀式を抜け出した誰かさんたちのせいで私すごく迷惑したのでしたけれど」
そう言って干し柿を頬張る顔はとても可愛くない。私はむしろこの顔の方が好きだけど、未来のお婿さんはすぐにがっかりするんだろうなあ。
「時雨さんはどうしたんですか? 姿がお見えしませんけど」
「…………えっ?」
我ながら情けない声が出た。どうしよう、鍵を取ることしか頭になくて時雨の言い訳を考えることをすっかり失念していた。案の定、紗那の表情がみるみる曇っていく。
「またあなたたちろくでもないことを考えているんでしょう! そういえば見晴らし台から下りてくるときに何やらこそこそ話をしていましたよね?」
どうしよう、時雨。ダメ、かもしれない。
「りせさん、観念して白状なさい。時雨さんは今どこにいるのですか?」
「…………」
「りせさん」
「言えない。時雨と約束したから」
「どんな些細ないたずらも冬では冗談で済まされないことはりせさんでも理解できますわよね?」
「言えない」
紗那の顔から感情の類が一切消えていた。いつもは火の上の土瓶のようにかっかっしているが、本気で怒っているときはこういう顔になる。そして、このときの紗那は本当に怖い。
「わかりました。りせさん、場所を変えましょうか。二人だけで話をしましょう」
そして、私は一刻もおかずに厨房に戻ることになった。火鉢の横で女中頭の人が煙管を吹かしていたが、紗那が世にも恐ろしい笑顔を浮かべて交代を申し出るとそそくさと出ていった。
「さて、二人きりになれたことだし、話の続きをしましょうか?」
私を火鉢の前に勧めると自分は土瓶を取りに行こうとした。
「本殿の鍵を貸して。今、それが必要なの」
ぱたっと足音が止まると冷たい沈黙が二人の間に流れる。
「お願い、紗那」
ここに来るまでの間、必死に考えたもののやはり鍵をどうにかする方法は思いつかなかった。けれど、何もしないわけにはいかない。そして、私にできることはこれだけだ。
紗那は顔を上げると私の前に立った。そして、思いきり頬をはたいた。
「あなたは私を馬鹿にしているのですか?」
ぽろぽろと零れ落ちる涙。罪悪感で胸が張り裂けそうになる。
「あなただけじゃない! 時雨さんだって!」
その名前を口にしたとき、紗那の堪えてきた感情の堰は切られてしまった。嗚咽が漏れ、何度も「ひどい」と呟く。きれいな顔は涙でぐしゃぐしゃになり、見る影もない。
「最初はいつもと変わらないようにしてくれたことが嬉しかった。でも、あの人の心の中には本当に私なんかいないんですわ。眼中にないんですよ」
「もういいよ! 紗那」
「いいえ、これからが面白いんですよ」
見たくなかった。あのいつも自信に満ちた紗那が自嘲するところなんて。
「あなたの様子からして知っていないでしょうね。婿の申し出を断ったのはあなたのお父様でないんですよ。時雨さん自身が断ったんですよ。あの人こう言ったんです。『自分は根無し草だから嫁をもらうなんて考えられない』って。あのときの大人たちの顔は傑作でしたわ! みんなあれだけ世話をしたというのに! 時雨さんの心の中には誰一人入り込めないんですわ!」
わかってはいたけど、その事実は私をひどく傷つけた。心から血が出たのなら今頃私の足元には血の水たまりができていたことだろう。
「そんなこととっくに知ってたよ」
知っていた。
だって―――、時雨は
何時だってあの紫の瞳の中には彼方が映っている。
見知らぬ土地、見知らぬ人間、見知らぬ獣、想像もつかないような見知らぬ何か、
無数の見知らぬものが時雨を突き動かしている。
動きたくてずっとうずうずしている二本の足を誰も縛ることは叶わない。
「時雨はああいうやつだもの」
私の言葉を聞いているのか聞いていないのか紗那は俯いたままぽつりと言った。
「りせさん、あなたはずるい」
「ずるくないよ。たまたま、だったんだよ」
そう、私が時雨とこれまで過ごせたのは神様の気まぐれだ。
遠くない将来、時雨は私の想像もつかないようなすごい人たちと縁を結ぶのだろうな。
「時雨は本当にすごいよ。紗那だってすごい。二人に比べたら私なんかとても」
「違う違う! そうじゃありませんわ!」
「違わないよ! そんなこと私が一番がわかっている!」
私たちはしばらく睨み合ったが、視線を先に外したのは紗那だった。小さな勝利に鼻息を荒くする私に対して紗那は呆れたようにかぶりを振った。
「鍵を貸してもいいですわ」
「…………えっ?」
「ただし、一つだけ条件があります。私がこれからする質問に必ず正直に答えてください」
「…………いいよ」
張り詰めた緊張感が厨房を
私だって神祖陛下の兵の
「りせさんは、時雨さんのことを好いていらっしゃいますか?」
ぱちくりぱちくり……………………。
瞬きの音が聞こえるような気がした。
腰砕け。呆気に取られる。そんな言葉が頭に浮かんだが、紗那の顔を見るとそれも消えた。紗那は何にもましてその問いの答えを望んでいるのだ。ならば。
「好きだよ。すごく好き。ずっと、ずっと昔から時雨のことが好きだった」
ああ、言の葉には霊が宿るという。
いつか山の彼方にいる誰かにこの想いの欠片が届くといいな。
白鳥にはなれなくてもほんの小さな力になれたら。
「ありがとう、りせさん」
紗那は私を抱きしめると静かに泣いていた。その細い背中をさすってあげると不思議と優しい気持ちになれた。しっかり者で優しい紗那。やっぱり私は紗那が大好きだ。
そして、あん畜生を必ず一度は殴ることを心に誓ったのだ。
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