これから訪れる試練

「お前は2010年の俺ってわけか」


 ゴミだらけの床に胡坐をかきながら、

「10年後の俺」が無機質なトーンで呟いた。


「ついさっき頭にデッドボールを喰らったはずなんだ」

「頭にデッドボール……ああ、高2の夏か」


 記憶は同一のものであった。


 俺は「1番」を背負ったユニフォーム姿のまま、唾を飲み込んだ。


 光のない隈のひどい目と、まばらに生えた無精髭。

 ボサボサの髪に、痩せ細った体。


 これが本当に10年後の自分なのか、疑いたくなるような弱々しい姿。

 もし本当にそうなら、一体どんな驚天動地が起きたというのだろう。


「今……目の前にいる俺は26歳ってこと……?」

「そう、26歳……で、今日にて享年予定」


 "26歳の俺"は、溜息をつきながら、床に転がっていた空のビール缶を手に取った。


 そして、無表情で缶の側面に爪楊枝で小さな穴を開け始めた。


「な、なにしてるんだ……?」


 何も答えず、小さな穴が開いている部分に"くすんだ緑色のカス"を乗せた。

 よく見ると、葉っぱのカケラのような……。


 同時に、ツン、と香ばしい……形容しがたい刺激臭が鼻を突き刺した。


 26歳の俺は、"その緑色の何か"を黒いターボライターで炙り始め、

 缶の飲み口から大きく息を吸い込んだ。


 そして、口から薄い煙が流れ出る。

 高校生の俺でも、危険な予感は察知できた。


「お、おい!それって……!」

「あー? 大麻だよ、大麻。これくらいで驚くなよ」

「た、大麻……!?」


 俺は驚愕の表情のままで固まった。

 これが本当に俺の未来なのか?


 手の震えが止まらない。


「おい、16歳の俺」

「は、はい」


「死ぬ前に、ちょっとだけ教えてやるよ。お前のこれからの人生どうなるか」

「…………」


 もう1度、缶の飲み口から煙を吸い込み、勢いよく吐き出す。

 その刺激臭に、俺は思わず腕で鼻を覆った。


「お前は、あのデッドボールのあと、特に怪我もなくすぐ打席に復帰する」

「よ、よかった……」

「よかったらこうなってねーよバカ野郎」


 光のない目で俺をキッと睨んだ。


「あの試合、お前は大活躍して、その夏は神奈川予選で準々決勝まで勝ち進む」

「え、ウチが……?」


 ウチは毎年よくて2~3回戦で敗退するような高校だ。


「準々決勝は負けるが……野球のために入学するような奴はいない進学校のウチがダークホースとして名を上げる」

「勝因はお前だ。翌年、最後の夏は決勝まで行く」

「お前はその活躍と才能を買われて、大阪の京神大学へ野球特待生として入学する」

「京神?超名門大野球部じゃないか!」


 思わず大きな声で叫ぶ。26歳の俺は遠い目で天井を見上げた。


「そこから、俺の人生が狂った」

「え……?」


「1年夏には退部届を出したよ。同期たちは甲子園に出た選手の中でもトップクラスの実力だ」

「たった、3か月で……一生かかってもベンチ入りすらできないだろうなって、悟ったんだよ」


 そんな簡単に俺は挫折するのか?

 今まで特にできなかったことはない、勉強だって、野球だって、人間関係だって。


「野球を辞めても、俺は持ち前の明るい性格で、大学で新しい友達を作り始めたんだ」

「サークルに入ったりしてな……ただ、大学っていう自由な生活で、関わる人を間違えたみたいだ」


「間違えた?」


「サークルの先輩の家に行ったら、みんなでコイツを回してたんだ」


 苦笑いを浮かべながら、缶に乗った大麻を指差す。


「今まで真面目に勉強と野球をやってきて、酒もタバコも知らなかった俺が……コイツの楽しさにやられて飛び級したってわけだ」


「このためにバイトもして、俺は常に持ち歩くようになった……そんなある日」


 苦笑いが消え、無表情で俺の目を見た。

 変わり果てた自分が自分を見ている。俺の全身を鳥肌が襲った。


「職質にあって、俺は19歳の時、逮捕された」

「…………!?」


 19歳、3年後。

 これからの、たった3年間で……?


「さすがに混乱してきた……」


「初犯だからムショ行きじゃないが、前科が付いた」

「大学も一応卒業はできたものの、就活はさすがに成功しなかったよ」


 この人は何日風呂に入ってないんだろう。

 油でギトついた髪を掻き上げた。


「やっとのところで、拾ってくれた小さな不動産会社に就職して、今は3年目だ」

「じゃあ、なんでこんなことに……?」


「こんなクズ野郎、拾ってくれるところは……俺を人間とも思ってない」

「え?」


「毎日殴られて、罵倒されて……日付を超えて退社したと思ったら、朝6時には出社だ」


 隈のひどい目を、ごしごしと強く擦る。


「俺は、営業成績もクソだった……スポーツや勉強ができることと、仕事ができることは違うからな」

「もう俺を羨望の眼差しで見る人も、近づいてくれる人もいない……」


「それで今日死のうと……」


 俺は、目の前にいる俺の目を見ることができなかった。

 いまだに、この現実を受け入れることすらできていなかった。


「なあ、お前は今、弱者の気持ちが分かるか?」

「…………?」


 大麻が燃え切った缶を、床に放り投げた。

 ポケットからセブンスターを1本を取り出し、口に咥える。


「ふーっ……お前は今自分のことしか見ていない。自分のことだからよく分かってる」


「弱者ってのは、見えないところにいるんだ。まあそれくらいしか、教えられることはない」


 再び、大きく煙を吐く。

 俺は額から流れる汗を拭った。


「だ、だけどこれから何か這い上がるキッカケはあるかもしれないし……」


 言いかけたところで、26歳の俺に肩を掴まれ、静止させられる。


「すまないが、今からお前を気絶させて俺は死ぬ。お前を見て、少し懐かしくなった」

「ありがとうな」


「ぐっ……!?」


 26歳の俺は、タバコを咥えたまま俺の首を両手で絞めた。


 苦しい。

 苦しい。


 壁に押し付けられながら、朦朧とする意識の中で、タバコを咥えた"俺"は告げた。


「最後にひとつだけ……」


「ぐ……っぐうぅ……!」


 息ができない。

 対照的に、ぼやけた視界に映る俺は、初めて優しく微笑んでいた。


「実は俺も10年前、2020年、この時代にタイムスリップしてるんだ」

「その時に出会った俺は、別の原因で死のうとしてた」


「変えようと思ったけど、何度やっても挫折しちまうんだ……はは」



「だから……お前の人生の中の"大城総司"が、幸せになれることを願ってるよ」



 俺は、何も言葉を返すことができず、

 徐々に視界が暗転した――。


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