しあわせのポップ

 暮らしていたアパートからは、古いラジカセだけ持って出た。赤色のラジカセ。スピーカーの横が少しへこんではいるが、きれいだった。これをわたしにくれた人の名をわたしは知らない。


 「なに、これ」

 「ひろった」

 「うごくの?」

 「さあ」


 わたしたちの部屋にそのとき電気は通っていなかった。暗闇からのがれるようにだけしてセックスをした。わたしには子どもはできないのだと、言ったら、そのひとは少し悲しそうな顔をして、目をぎゅっとつむった。そうだね、こんな時代に生まれてしまったら、かわいそうかもしれないね。え、と問うよりさき開いたのは深淵のような眼だった、そのひとが居なくなってしまって、わたしは部屋を出た。


 あれを、暮らしていたというのか、わたしにはわからない。そのひとはよくわけがわからないようになって怒りながらわたしの首をしめた。わたしが気絶しそうになると我に返って泣いた。ときどきアパートの裏で煙草を吸った。表通りから一本入れば路地には女たちの悲鳴が溢れていた。それは、でも、見えなかっただけで、ずっとそうだったろう。いつの世も、どこの場所でも。



 空は晴れていた。白い、月が浮かんでいる。昼間の月。遠く、影が見える。遠くの山。街の人口が減り空気がきれいになったのだと誰かが言った。わからないことばかりだ。わかれば正気ではいられないからか。

 そのあと暮らしたいくつかの部屋にも、長くは居られなかった。わたしに暴力をふるった人がくれたラジカセは、奇しくもわたしがほかのひとから暴力をふるわれそうになったとき、身を守るための盾になった。

 もらったときよりもっとへこんだ、少し壊れてランダム再生しかできなくなったラジカセの中には、最後に暮らした部屋に一枚だけ残っていたCDのディスクを、入れたままきた。


 電車は先々月からまた動き出した。ホームにはまだあちこちにブルーシートがかけられたままになっている。車内にも、駅にも、防弾チョッキのような制服を着た警官が必ず立っている。でも、それでも。



 角を曲がるとき思わず目を閉じていた。足もとの、割れたコンクリートの段差に躓きそうになって、開ける。路地裏は闇で、あのひとの眼を思い出した。

 彼にも、名前があっただろう。名を呼ばれなかった女たちと同じぐらいに、名を名乗らなかった男たちにも、それぞれ名があっただろう。そのひとは自分の名前は言わなかったくせに、わたしの名は何度も読んだ。サチヨ、サチヨ。なんてふるくさい名前なんだと言って罵る日もあれば、いい名前だと言って涙ぐむ日もあった。ねえ、幸せな世の中、幸せな、世界だもんねえ。しあわせなんだね、幸世は、しあわせな名前だねえ。

 彼を最後に殺したのはきっとわたしだった。



 わたしの通っていた学校は、小さな、二階建ての校舎だった。子どもは、どんどん減っていた。わたしが入学したときにはもう、二階はいちばん端の教室ひとつと、反対側の端の音楽室しか使われていなかった。音楽室で授業がある日以外、入ることを禁じられていた、でも、クラスの男の子たちは先生の目をぬすんで、階段をあがって行った。

 わたしは、目を閉じていた。見ないふりをして。階段をあがって行った男の子たちがどこへ行ってなにをするのか、知らぬふりをして。



 目が慣れてくると地下へ続く階段がそこにまだあるのが見えた。細く、長く、息を吐く。目がちかちかした。右手に、赤いラジカセを持って、左手で、壁に触れて、ゆっくりと、足を下ろす。なけなしの手すりは、もう錆びてぼろぼろになってしまっていた。剥がれた壁の塗料が粉になって指についた。

 階段を降りながら、ごめんなさい、ごめんなさい、と呪文のようにとなえていた。助けに行かなくて、たたかわなくて、ごめんなさい。今日、ここで会えなければ、きっともう二度と会えない。


 取っ手が壊れてほとんど残っていない扉を無理やりのように押し開けると、薄暗い店内は、静かだった。店内、今、ここをまだ店と呼んでいいのか、わからない。けれどカウンターで食べたナポリタンの香りが、ふっと蘇った。天井には小さな、ほんの小さな豆電球があって、辺りを照らしていた。

 その場からわたしは動くことができなかった。たった数歩で向こうに行ける、狭い部屋なのに。しかし豆電球の小さな小さなひかりに照らされた暗闇の奥、キッチンスペースでおおきな影がもそりと動いた。

 

 「だれだ、おまえは」


 わたしが誰かということを、このひとは知っている。ただこれは、いつもの儀式。

 いつもなどというものがこの世界にまだ、あったのだ。


 「合言葉を言え!大きな山!」

 「……、」

 「大きな、山」

 「……っ、ち、い、さな、」


 嗚咽で声が途切れた。ツノはカウンターの横の扉をギッと開けて、ゆっくりとこちらへ来た。そして、わたしが右手にぶら提げたままにしていたラジカセを、そっと取った。壁のコンセントに、ゆっくりと挿す。キュルキュルと音がして、SINGER SONGERの「初夏凛々」が流れた。ハローハローハロー。


 「……、ばらいろ、ポップだ、」

 「ハローハローだね、サッちゃん」


 変わらず、シャッちゃんときこえるもぐもぐした声でわたしの名を、呼んでツノは、わたしの頭のてっぺんの、ちょうどツノなら頭のちょっととがって角のようになっているところ、わたしには何もない、そこに、手をお椀のように丸めて、護るように、そっと触れた。

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ツノのブルース/しあわせのポップ 伴美砂都 @misatovan

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