ツノのブルース/しあわせのポップ
伴美砂都
ツノのブルース
取っ手が壊れてほとんど残っていない扉を無理やりのように押し開けると、薄暗い店内にはEGO-WRAPPIN’の「色彩のブルース」がかかっていた。鉛の指から流れるメロディー。古いラジカセの割れた音。靴底がぺたぺたと貼り付くようなタイルの床を踏んで歩く、数歩。クッションももう無いに等しいカウンターの椅子に背伸びして腰掛けると、キッチンスペースでおおきな影がもそりと動いた。
「だれだおまえは!」
わたしが誰かということを、このひとは知っている。ただ、これはいつもの儀式。
「合言葉を言え!大きな山!」
「小さな山」
合言葉を決めたのはツノだ。川も海もきらいなのだそうだ。顔を上げたツノはこちらをやっと見て、むふんと満足そうに笑い、ナポリタンでいいかい、と言う。いいかいも悪いかいもなにも、ここのメニューはナポリタンしかない。わたしが頷くとツノはガスコンロに火を点けた。
ツノは子どものころいじめられていた。ツノというのはあだ名で、頭のてっぺんがつくんととがっていることをからかわれた。坊主頭だったのだ。ツノのお母さんが、刈っていた。今は、重力に逆らうようにもうもうと伸びた天然パーマの髪に隠れて、角は見えない。ツノのことをツノと揶揄したひとたちは今もうどこに居るのか、知らない。
ツノのことをだからわたしはツノと呼びたくなかった。でも、ツノは自分の名前をツノだと思っているから、ツノと呼ばねば返事をしてくれない。
路地裏のまた裏のような道を地下に入ったここは、静かだ。今はもう、外も静かといえば、静かだけれど。ラジカセは床に置かれている。キュルキュルと音が鳴った。こころをとか、かかかっかかかかか、
「ツノ、音楽が止まったよ」
ツノはこたえない。黙ってフライパンを振る。ゆっくり振る。「速く振るとこぼれてしまうからね」と、得意そうに言っていた、ツノの顔。
「ねえ、ツノ、ラジカセ、止まっちゃった」
ツノはこたえない。ゆっくりとフライパンを振っていた手を止め、ナポリタンをお皿に移す。慎重に運ばれたそれは、しかしカウンターの上に載せられるときには、お皿の縁から少しはみ出している。血のような赤、ケチャップの。タマネギと、少しのグリーンピース。
「ツノ、ねえってばあ」
止まってしまったこの曲を、いつかツノといっしょに聴いた。ぶるうーうす、とツノが調子はずれの声で歌うからわたしは笑った。あれは、屋上だった。
突然、不安になった。ツノはこちらを見てはいない。死んでしまったラジカセのほうも見てはいない。そっと伺う。額を覆う癖毛のその隙間から、眼は覗いている。ひどい外斜視のツノとはむかしから視線は合わない。でも、それでも。
「ねえ、ツノ、ねえ、音楽が、死んじゃうよ」
「サッちゃん」
ツノの声はもぐもぐしていて聞き取りづらい。サ行がうまく言えないから、シャッちゃん、ときこえる。
「もう、みんな死んだでしょう」
「え、……、」
「いいんだよ」
なにがいいの、と問うことはできなかった。冷めかけたナポリタン。甘いケチャップの味。今もう、調味料はぜんぶ貴重品だ。ツノはどこからこれを手に入れているだろう。
「ねえ、サッちゃん」
「ツノ」
「殺してほしい人がいたら、ぼくにいえばいいんだよ」
「ツノ、」
ツノはちょっと手を挙げて、自分の頭のてっぺん、ツノの角、のあるところに、そっと触れた。手をお椀のように丸めて、まるで、護るように。ほんの少し先の未来が、こんなふうになるだなんてだれが予想しただろうか。でも、ツノにとって、世界は、ずっと。
「ねえ、ツノ、ねえ、わたしにも、それ、やって」
「なに?」
「今、ツノの頭にしたみたいに、して」
「だめ、だめ」
ツノの声はのんびりしていた。どうして、と問うわたしの声は泣いていた。ナポリタンのお皿に涙がぽつん、ぽつんと落ちた。とける赤。
「サッちゃんにはツノ、ないからね」
扉の内側にはまだドアノブが残っている。壊れかけてテープで補強されてはいるが、かろうじて。開けるまえ、振り返った。ツノは向こうを向いて、背中を丸めて、フライパンを洗っていた。規則正しい、まるい背中の揺れ。もさもさの髪に、かくれた角。
「大きな山、」
返事はなかった。外側のノブは世の中がこんなふうになってしまったから壊されたものではない。もう、何年もまえに、ツノがツノであるというだけで壊された。ねえ、せめて、ツノをいじめたやつらだけでも、わたしがこの手で殺せばよかった。
もう一度振り返るとツノがキッチンスペースから出てくるのが見えた。ツノ、ねえ、ツノ、こちらを見て。ツノ、歌って。音のはずれた声で、ぶるうーうす、ねえ、ツノ、おねがいだから、こちらへ来て。でもツノはもうこちらを見なかった、そっと床にかがみ込み、キュルキュルとまだ軋んだ音を立てるラジカセの、コードをそっと、抜いた。
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