第32話 祈り
深い微睡から目を覚ます。
体が動かない。
どうやら私は椅子の上で縛られているらしい。
「お目覚めですか、聖女様」
近くから声がかけられる。
ぼんやりとした意識のままそちらの方に目をやれば、呑気に読書をしている魔術師が目に入った。
「あなたは・・・ジラさん」
「覚えていただいて何よりです。窮屈でしょうが今しばらくそのままお待ちを」
彼は私の方に顔を向けることもなく、興味なさげに言葉を発した。
そしてここにきてようやく、私の意識がはっきりとしてくる。
なぜ自分がここにいるのか。
なぜ体の自由を奪われているのか。
すべてを思い出した私は、拘束から抜け出そうとして声を荒げた。
「今すぐこの縄を解きなさい!」
「お断りします」
「このようなことをして許されると思っているのですか?」
「はて、許しを請う必要がありますか?」
「今我々は魔王と戦っているのですよ?どうして人間同士で争う必要があるのです!あなたたちが勇者様と協力すれば魔王討伐だって確実になるというのに!」
「あの勇者を名乗る詐欺師と協力ですか?冗談じゃないですね。そんなことするぐらいなら世界が滅んだ方がまだマシというものです」
私がどれだけ吠えてもどこ吹く風か、ジラさんは取り合おうとしない。
なぜそこまで勇者様を拒絶するのか、それがわからなかった。
「どうしてですか、どうしてそこまで勇者様を憎んでいるのですか?」
あんなに必死で戦って、そして一人傷ついているあの人に何の不満があるというのか。
私のその問いに、初めてジラさんは本から顔を上げ、こちらに視線を寄越した。
「たぶん彼を恨んでいる者は少なからずいると思いますよ。特にこの戦場に長くいるものほどその恨みは深い」
「・・・それはどういう意味ですか?」
「魔王が誕生してからあの勇者が現れるまでずいぶんと長い時間がかかりました。その間ずっと、我々戦場にいた者たちは絶望の中で戦っていた。いつ来るともわからない勇者という幻想のために、日々傷つき、そしてその命を散らしていった。あるものは家族を失い、またあるものは友を失った、そしてあるものは愛する人を失った」
少しずつ周囲の温度が下がっていく。
底知れぬ怒りが、止めようのない恨みが、私の背中に悪寒を走らせる。
もう彼は私に語り掛けてなどいない。
「あれは何も救ってこなかった。今更のこのこ出てきて何が勇者だ!もし仮にあの者が真の勇者であり、魔王を討伐したとしても、我々の傷が癒えることはない!もう元には戻らないのだ。失ったものは決して返ってこない!」
その内に抱えた憎悪を、彼は吐き出しているだけ。
「私としてはね、聖女様。もうこの際誰が勇者だろうが、魔王が世界を滅ぼそうがどうでもいいんですよ。私以外の仲間がどう考えているかなど知りませんが、私はあの勇者に復讐ができればそれでいいんです。そのためだけに今私は生きているのですから」
とんだ逆恨みである。
でもそれだけでは片付けられないものをこの魔術師は抱えていた。
どれだけ言葉を重ねても、もうこの人にはそれが届かないのかもしれない。
「ジラ、その辺にしておけ」
しかしその狂気は、異なる狂気によって抑えられる。
「・・・ハーレイ」
「聖女様に罪はない。お前のその怒りは存分に偽物にぶつけるがいい」
奴だ。
奴は残りの仲間を連れて姿を現すと、ジラさんに声をかける。
そして場を一旦白けさせると、その汚い瞳を私に向けた。
「聖女様、魔王城の結界が壊れたそうです」
「なっ!」
「そうです、神は我々を見捨てなかった。偉大なるその力を持ってして、私が魔王へと至る道を作られたようです」
「違う!勇者様が魔王軍幹部を討伐されたからです!」
「まだそんな世迷い事をおっしゃっているのですか?まあ何が正しいかなんてことはすぐにわかることですよ。あの偽物がこの街に帰ってきたらね」
「・・・何をするつもりですか」
「知りたいですか?」
ハーレイは笑っていた。
その笑顔は嗜虐に満ちていて、見るものをひどく怯えさせる。
自分がどれだけ醜い顔をしているのかも気づかずに、彼は続く言葉を発した。
「あと数日であの偽物はこの街に戻ってきます。そうしたら我々は奴をここに招き、そして雌雄を決します。その結果を見たらきっとあなたは何が真実かに気付くはずです」
「勇者様に手を出したら、私はお前を許さない」
「大丈夫です、聖女様。すぐ目を覚まさせてあげますからね」
彼は最後にそう締めくくった。
このままではまずい。
もし私が人質にされているとわかったら、勇者様は間違いなくここに来てしまう。
ここは理不尽な憎悪が渦巻く魔境だ。
きっと彼を傷つける。
なんとしてもそれだけは阻止しなくてはならない。
だが腐っても彼らは魔王軍幹部を倒した精鋭だ。
私がどれだけ足掻こうがこの状況をひっくり返すことはできない。
方法が無い。
手詰まりだ。
なんとも情けない。
勇者様を助けようと思ってしたことが、結果としてまた勇者様の足を引っ張ることになってしまった。
ドラゴン戦で嫌というほど理解したことをもう忘れて同じ失敗をまた繰り返している。
何が聖女だ。
ただの足手まといではないか。
目に涙が浮かぶ。
悔しくて悔しくて仕方がない。
しかしどれだけ私が激情を抱えても、それを力にすることはできなかった。
沈黙を余儀なくされた私を横目に、ハーレイは声高らかに演説を続ける。
「まもなく稀代の詐欺師がここに来る。罠を張り、作戦も立てた。迎撃の準備は万端と言えよう。万が一にも我々が負けることはない。偽物は消え、真の勇者が立ち上がる時が来たのだ。今こそ我々の力を持ってして、偽りの勇者を倒し、魔王を倒し、世界を救うぞ!」
ハーレイの叫びを受けて、四人の冒険者が武器を掲げた。
その光景が私の誇りを踏みにじる。
もうすべてを諦めて、投げ出してしまおうと、そんな気持ちにさせる。
「誰か・・・助けて・・・」
私が最後にできたのは祈ることだった。
無意味だと知りながら、それでももうそれしかできることはなかったから。
たとえ聖女であっても己の声を神に届かせることはできない。
聖女にできるのはせいぜいが神の声を聞くことだけ。
だからこの行為に意味はない。
それでも祈らずにはいられなかったのだ。
この理不尽が許せなかったから。
こいつらに負けたくなかったから。
そう、本当に意味などないはずだったのだ。
そのはずだったのに・・・。
「っ!ハーレイ、何者かが結界に侵入した」
突然ジラが驚いたような顔をして声を出す。
「何?勇者か?」
「いや、さすがにそれはあり得ない。魔王城が開いたのはついさきほどのことだ。勇者の帰還にはまだ時間がある」
「では誰だ?迷子でもこんなところには迷い込まないぞ」
彼らが動揺して喚いていると、大きな音を立てて倉庫の扉がゆっくりと開かれる。
果たして、現れた影はただ一つ。
なるほど。
この状況を覆せるとしたら、勇者様の他にはもうあなたしかいない。
「こんばんは」
彼の象徴と言える綺麗な白い髪が月夜に照らされ輝いている。
それはまるで神話から出てきたような、美しい光景だった。
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