第17話 師弟

 気が付いて最初に感じたのはぬくもりだった。


 後頭部に何か柔らかいものを感じながら、久しぶりの快眠とあまりの心地よい感触に抗えず、まぶたを開ける気になれない。


 そのまま微睡の中に停滞していると、頭を撫でられた。


 優しく慈しむようなその手に触れられて始めて自分ではない誰かの存在に思い至る。

 でも自分が飛び起きてないところを鑑みるに、相手に敵意がないことは確かだ。


 だから安心して俺は眠る。


 だけどずっとこうしているわけにもいかなかない。


 なにせここは危険なダンジョンの中なのだ。


 下手をすれば死んでしまうかもしれない。


 それは困る。


 だから仕方なく目を開いた。


 かくして瞳に映ったのは、この世の奇跡。


「天使様?」

「いいえ、私は聖女ですよ」

「・・・」


 んー、そういえばこの顔見たことあるなー。


 ・・・あ、思い出した、この人、聖女様だ。


「・・・って、うわあああああああああ」


 予期せぬ状況に意識が覚醒し、飛び起きる。


 魔物に襲撃されたときより数倍速い反応速度で、俺はその場から離脱した。


 ていうか膝枕か!あの感触は膝枕なのか!


「ああああああああ」


 恥ずかしさのあまり、その場でうずくまってうなり声をあげる。


 もうだめだ。


 ていうかどういう状況なんだ。

 いったい何が起きたんだ。


 確かサイクロプスと戦って、そのまま限界がきて力尽きたような・・・。


 恐る恐る顔を上げて、聖女様の方を向く。


「助けに来てくれたんですか?」

「はい、治療ももう終わりましたよ」

「・・・本当だ。ありがとうございます」


 確かに体の傷が全部治っている。

 さっきの戦いでだいぶボロボロになったが、今や傷一つない。

 長時間意識を失っていたおかげで寝不足も解消され、すこぶる体調がいい。


 しかし気分の良い目覚めもそこまでだった。


「目が覚めたようだね、勇者」


 当然と言えば当然だが、ここに聖女様がいる時点でこの人もいることは自明である。


 今最も会いたくない人と言っても過言ではないその人は、しかし最後に分かれたときと同じ調子で俺に向って話しかけてきた。


「魔法陣は正常に働いてる。問題なく地上に帰還できそうだよ」


 どうやらこの人は魔法陣を調べていたらしい。

 無事に帰れるのは朗報だ。


 だけどわからない。


 どうしてこの人はここにいるのだろうか。


 信頼していないと言われた。

 そして勇者であることを否定された。


 もう俺のことなど見捨てたものだと思っていたのに、どうしてここに来たのか。


 それがわからない。


 再開して最初に感じたのは気まずさ、次は驚きだった。

 あのときの怒りは不思議なことになりを潜めている。


「どうしてここにいるんですか?」

「ん?君を助けにきたからに決まってるじゃないか」

「俺を勇者として認めてないのに?」

「ひどいなあ。僕は君が勇者かどうかで助ける助けないを決めてはいないよ。目の前で人が倒れていたら助けようと思うくらいには僕にも慈悲があるのさ」

「・・・」


 相も変わらずこの人の考えていることは読めない。

 表情はほとんど動かないし、声の調子も変わらない。

 赤い瞳の奥で揺らめく光が、こちらを見透かすように輝いているだけ。

 幻想的で、神秘的なその美しさは、その奥を覗こうと思えば思うほどに、こちらの思考を迷わせる。


 それはまるで深い血だまりの沼の底を覗くかの如く。


 ならばもはや答えはその口から聞くしかない。

 俺たちの関係をはっきりさせるためにも、ルイさんの真意を俺は確かめなければならなかった。


「なぜあんなに腹が立ったのか、今ならわかります」


 一つ深呼吸し、言葉を吐き出す。


「ルイさん、あなたの言ったことは正しい。俺は弱い、勇者にあるまじき弱さだ。そしてそれを自覚もしていた」


 紅の瞳を見つめ、自らの出した答えをぶつける。


「だから不安だった。自分が本当に勇者かわからなくて、それを証明したくて、早く魔王軍と戦いたかった」


 これでだめならもうどうしようもない。

 ここで終わりだ。

 俺は一人で戦うことになる。


「あなたは俺を信頼していないと言ったけど、それもしょうがないことです。弱い俺が強さを証明しようとするなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある」


 ルイさん、お願いだ。

 答えてくれ。


「そんなどうしようもない俺に、いったい何の用があってあなたはここまで来たんですか?」


 ルイさんは俺からの問いに耳を傾けていた。

 まっすぐこちらを見つめ、俺と向き合っている。


 その沈黙の時間がしばらく続いた後、ルイさんはようやくその口を開いた。


「質問に質問で返すのは良くない。まずは君が答えるべきだ。僕の問いを覚えているかな?」

「え、なんのことですか?」

「仕方ない、忘れたのならもう一度聞くよ。今度は忘れる前に答えるといい」


 なんのことだ?ルイさんの問い?そんなもの・・・。


「君は本当に勇者なのかい?」


 それを言われた瞬間、言葉に詰まる。


 ああ、そういえばあの時、俺はその問いに答えず逃げてしまった。


 人には答えろと言っておいて、自分は逃げたままなど道理に反する。


 まず答えを口にすべきは俺だったのだ。


 でも大丈夫。

 あの時持っていなかった答えは、もうすでに見つけたから。


「俺は今、勇者になろうと足掻いているんですよ。だからまだ勇者じゃない。それが俺の答えです」

「ああ、そう。まあ良いんじゃない?」


 ずいぶんあっさりと、ルイさんは俺の勇者否定宣言を受け入れた。

 というか少し満足気でさえある。


「そこまでわかってるなら僕の答えもおのずと導かれるけど、ここで僕の口からそれを言わないのは公平じゃないからね」


 筋は通す、ルイさんはそう言った。


「僕は君を信頼していない」


 その一言から、彼の言葉は始まった。


「そもそも信頼というのはね、結果から導かれるある種の評価だ。何かを成し遂げたとき、初めて人は信頼される。君はまだ勇者として何も成し遂げていない。現に魔王軍は地上で人々を蹂躙し、勇者の紋章を持つ君はそれを止められていない。役目を果たすだけの力を持っていない君は信頼に値しなかったということだ」


 そこにあったのはどこまでも残酷で、そして紛れもない事実だった。

 わかってはいたことだけど、やはり直接言われると傷つかずにはいられない。


「でもね」


 目を伏せた俺に、それでもルイさんは言葉を続けた。


「信頼はできなくても、期待はしている」

「・・・え?」


 思わず顔を上げる。


「君は逃げることができた。その手に紋章が出たときも、僕たちとダンジョンで別れたときも、その気になれば何もかも投げ出して逃げることができたんだ。でも君は逃げなかった。軍に志願し、ダンジョンで戦い、そして今ここに立っている。それは間違いなく君の勇気によるものだ。勇者としてはまだ結果を出せなくても、一人の戦士として君は立派にここまで来た。たとえ弱くても戦うことからは逃げない、そんな君だからこそ僕は君が本物の勇者になれると期待している」


 それは賞賛だった。


 初めてこの人から受け取った賞賛。

 そして俺の質問に対する答え。


「だから僕もここにきた。君を勇者にするために、師として君を導くために。これが僕の答えだよ」


 そうか、そうだったのか。


 ただそれだけのことだったのだ。


 この人は最初から俺のことをちゃんと考えて行動していてくれていたのだ。


 寝床も食事も、俺の負担が少しでも減るようにしてくれていた。

 弱い俺が魔王軍と渡り合えるように鍛えてくれた。

 勝手に怒って一人で突っ走っても、ちゃんと後ろからついてきてくれた。


 勇者になれていない俺を見捨てずに、そして期待までしてくれていたのだ。


 ずっと怖かった。


 勇者に選ばれ、人々を救うはずの存在が、こんなにも弱く、無力なのはおかしいと。

 自分は勇者じゃないのではないかという不安にいつも襲われていた。


 仮にもし自分が本当に勇者だったとしても、きっと魔王に負けてしまうのではないかと、その結果多くの人が死んでしまうんじゃないかと思って押し潰されそうになっていた。


 自分では世界を救えない。


 その恐怖に抗えなかった。


 でももうやめだ。

 ここから先、自分を疑うのはもうやめろ。


 だって少なくとも、この人の期待には応えたいと、そう思えたから。


「俺は勇者になってみせます。それで魔王を倒して世界を救います。だからルイさん、いや、師匠、手伝ってください」


 それを聞いて師匠も頷いた。


「いいとも。君が君の戦いを終えるまで、僕も君のために戦おう」


 それが、決別を経て、もう一度向き合い、そして名実共にこの人の弟子になった瞬間であった。

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