苦い勝利

飛鳥は、目の前で起きたことを呆然と見ていた。


(おかしいな。なんで、燃えてるんだろう?)


混乱により集中力が消え、髪の毛が元に戻る。


『アタシが一人目だ』


(何の?)


『喜べ』


(何を?)


『お前は――』


(ああ、そうか)


前園がグレネードランチャーに良く似た銃を打つ。巨大な銃弾には粘液の塊が詰まっていた。煮えたぎる女が粘液で消火され、黒い煙を上げ始める。


前園とその部下ががバタバタと動き、可能な限り延焼を防いでいるのを、飛鳥はぼんやりと見ていた。女が崩れ落ちた時、ようやく飛鳥は理解した。


(僕は今、この人を、殺したのか)


「…すかくん! 飛鳥くん!」


前園が飛鳥の体を揺さぶる。飛鳥は答えなかった。ただ、自分のしてしまったことの意味と理由に、向き合おうとするだけで精いっぱいだった。


前園たちが後片付けをしている時も、飛鳥はただ階段横の椅子に座っていた。やがて、上に逃げていた人たちが降りてきた。飛鳥の友人たちもそこに居た。


友人に呼びかけられたのは分かっていたが、飛鳥はうまく反応できなかった。飛鳥を見ていた前園が、飛鳥の友人たちに何かを話した。友人たちは飛鳥にもう一度話しかけたり揺さぶったりしたが、数十分後には飛鳥を置いて帰って行った。


(どうしよう)


飛鳥の頭はそれだけで埋め尽くされていた。人を殺すのは案外簡単で、しかしその事実は数日前まで一般人だった中学生にはあまりにも重かった。騙されたのだから仕方ないと開き直るにも、異脳を看過しておきながら知識不足で見抜けなかったという事実が立ちはだかっていた。


(…)


日が暮れてもなお、飛鳥は呆然と座り続けていた。座り続ける飛鳥の頬に、不意に鋭い痛みが走った。一瞬遅れて、叩かれたのだと理解した。


「…飛鳥くん。目は、覚めましたか」


「前園さん…」


「何があったのかは聞きません。ですが、今日は帰りなさい。必要であれば送っていきます」


飛鳥は、のろのろと首を横に振った。送り届けてもらう気力も、残っていなかった。


電車に揺られる中で、スマートホンを見る。良く使っているSNSソフト、LINNEには友人からの激励のメッセージが届いていた。どうやら、彼女たちは飛鳥が人が焼け死ぬところを見てショックを受けたのだ、と思っているらしい。前園がそう説明したのだろう。


だが、実際は違う。あの女には、飛鳥自身が手を下したのだ。


(あのラム酒が殆どアルコールだと知っていれば、一気飲みなんてさせなかった。一般人でも急性アルコール中毒で死にかねないことをさせたのは僕だ)


飛鳥は弱々しく首を振った。


(異脳の解析も甘かった。多分、あの女の人の異脳の分からなかった部分は、アルコールを取り込むと自爆する物質を体内で作れる…とか、そんな感じだったのだろう。化学の知識がもう少しあれば、あの女の人が酒を飲んではいけないことに気が付けた)


飛鳥の推測は概ね当たっていた。井上の異脳は『空気中の窒素から体内で亜硝酸を経由して硝酸を作り、更に、アルコールと組み合わせて硝酸エステルを作れる』ことであった。窒素から硝酸を作れる生物としては、土壌中にニトロバクターと呼ばれる細菌が居る。井上も同様に、筋肉内に存在する特殊な酵素を触媒にして体内で化学反応を起こすことができた。そうして作った硝酸で自らが死なないのは、筋肉自体が対硝酸の酵素を持っていたからだった。


この異脳の最終型として作られる硝酸エステルは自然分解により酸化窒素を発生し、これが触媒となって自然発火を起こすという特徴を持つ。井上はアルコールを飲む度に硝酸エステルの分解により一酸化窒素と亜酸化窒素が大量に発生する体質になっていた。


一酸化窒素は血管を拡張し、亜酸化窒素は陶酔感を与える麻薬と同等の作用を持つ。つまり、酒を飲むことで全身にアルコール及び麻薬が速く強く巡ることになる。それが井上の全能感の正体であった。つまり、井上は自らの異脳で、麻薬中毒に成り下がっていたのだ。


しかし…体内で爆薬を生成するような異脳を全力で使って無事で済むわけがない。井上の死は必然だった。


それらのことを飛鳥は知る由もない。確かに故意ではなかった。だがどうしようもなく無知だった。


封印されたノートに書いたことを思い出す。考え抜いたはずのそれらは、なんだか酷く薄っぺらく思えた。


(僕は、結局あの女の人のことを名前すら知らないままだった。『情報戦で四割決まる』なんて…異脳を解析する異脳は作ったけど、それだけだった)


あの女の最後の言葉が飛鳥の耳の奥にへばりついて離れない。


『喜べ。アタシが一人目だ』


個人的にはとても大切な、けれどセカイにとってはあまりにもちっぽけな決意で飛鳥が踏み込んだ場所は、想像より遥かに冷徹なルールに支配されていた。


(人は、簡単に死ぬ。手足すら再生できる異脳者だろうと、それは変わらない)


飛鳥は流れる景色を見ながらぼんやりと考えていた。二つの心臓が、飛鳥の中で不協和音を奏でていた。



家の中というのは、やはり安らぐ。食事もそこそこに自室に籠った飛鳥は、心からそう思った。飛鳥は母親に言われるまで、全身に煤がついていることにも気がつかなかった。電車で帰る姿は、さぞや人目を引いただろう。


(滑稽だな…)


カッコ悪い。普段なら、こんな有り様は絶対に避けていただろう。だが、今の飛鳥にはその無様さが救いだった。今、自分が普段通りであることは、殺した女に対してあまりにも不誠実な気がした。


(殺人、か…)


もっと高尚で、神聖な理由で行うべき行為だと思っていた。実際にやってしまったそれは、ただ取り返しがつかないだけだった。


(僕は、どうすればいいのだろう。どうしよう?)


異脳。エヴォルウイルス。色々なことが数日の間に起こり過ぎて、どこか浮ついていたのかもしれない。超能力者になった、自分は特別な存在だという驕りがあったんじゃないか。本当はもっと、先になにかすべきだったような気がする。


飛鳥は目を閉じ、胸の奥から浮かんでくるものに身を任せた。夜はまだ、始まったばかりだった。


★☆★☆★


前園は、部下の運転する車の中でエヴォルウイルスと異脳者について静かに考えていた。


(とにかく想像を越えた攻撃力だ。異脳者自身を滅ぼすような異脳を持つ者まで居るとは)


思い返すのは井上の死と、呆然とそれを見ていた飛鳥の姿。


(異脳者は、あまりにも容易く加害者になり、そして己の罪を否応なしに突きつけられる)


公安の特殊部隊も、飛鳥と井上との戦いには全く割り込めなかった。数日前までは一般人だった女子供が、鍛えぬいた大人をも上回る超人的な身体能力を発揮する。それでいて、体の脆さは殆ど変わらないのだ。手足の再生能力など、何の足しにもならない。


秘密兵器、対異脳者用の瞬間接着弾の使用には一考が必要だ。対熱性や対衝撃性に優れた特殊ボンドの弾で、異脳者の行動を効果的に封じる筈だったが、異脳者の機動力が高すぎる。今回の消火は想定とは異なる使い方だった。


(協力してくれる異脳者が必要だ。しかし、飛鳥くんは…)


状況証拠から見て、飛鳥は井上を何らかの方法で操り、そして自殺に追い込んだのだろう。おそらくは頭の回りのスパークに関係があるのだろうが、今はそれは重要ではない。


(本人は殺すつもりなど、無かったのだろうな。たった一度の殺人で、あれほど傷つくような繊細さを持つようでは、とても戦闘には巻き込めない)


前園は天を仰いだ。黒い車の天井が、今の気分にぴったりとマッチしていた。

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