鬼熊権蔵

鬼熊権蔵おにくまごんぞうは殺人鬼である。今、二人の人間を叩き殺したからではない。遥か三十年前から、鬼熊は浮気を咎めた自分の妻を殺害した殺人犯であった。鬼熊にとって、悪とは己を拘束するものである。どこまでも身勝手な男なのであった。


(困ったことになったぞい)


年期の入った殺人鬼として、鬼熊は今の状態が極めて不味いということを理解していた。自首するという選択肢はない。己は沢山の税金を納める地主である。良く分からないが、せっかく若返ったのだ。人生は謳歌するものである。


(この国で人を殺すなら、死体の処分ほど頭を使うものはない…この状況での血液もろともの処分は無理じゃな)


取り敢えず逃走せねばならない。年長者への敬意もないメスガキと、いつも鬼熊に文句をつける町内会のババアごときに構って無駄遣いする人生は鬼熊にはない。


(どうして若返ったのかわからんが、あまりにも急すぎたぞい。破けた服を拾い集めるのはほぼ無理じゃな。DNA検査で儂は容易く見つかる。しかし、同時にDNA検査でもなければ若く大きくなった今の儂は見つかるまい)


鬼熊権蔵にはこのまま行方不明になってもらい、親戚として我が家にしれっと帰還するのが今の鬼熊の最終目標だ。だが、ここでやるべきことは…


(目撃者が現れる前に逃げるのみ! 三十六計逃げるにしかず、頭痛で病院に行くために財布をしっかり持っておいてよかったぞい)


飛鳥の頭を潰してから僅か二十秒で、鬼熊は撤退を選択した。顔にへばりついた血を破れた自分のズボンの切れ端で拭い、財布を片手に裏道を駆け抜けて行く。


(この二メートルはある見た目で隠れるのは難しい。ガタイが良すぎて他人の服を奪うのも無理。目立ちたくはないが、適当に服を買うしかないのう。まずは大回りして血飛沫を落としつつ繁華街に向かうぞい)


今の鬼熊の足は車に追い付くほど速い。他人の家の敷地や高い塀、警察犬が手間取りそうな道を駆け抜け、瞬く間に姿を消した。


鬼熊の逃走と凶行の一部始終を、見ているものがあったとも知らずに。


★☆★☆★


「鬼熊権蔵、逃走しました。もうドローンでは追いつけません」


「判断が早いな。驚いた」


深海魚のステルス構造を応用し、下から見上げても見えないという最新鋭のステルスドローン。池袋にある最新鋭のウイルス研究所で東京中にばら撒いたドローンを操作しているのは、白衣を着た三人の科学者と、一人のスーツ姿の警察官だった。


「いやー、困ったなぁー」


一番年配の無精髭を生やした男が、コーヒーを飲みながら適当な口調で感想をこぼす。


雪城ゆきしろちゃん、どーしようかねぇ? どう見てもこれSG-161の効果じゃない? もうエヴォルハザード始まっちゃってるっぽくない?」


雷泥らいでい主任…さっきから寛いでいるようだが、ここの責任者は貴方だろう?」


へらへら笑う男に、スーツ姿の警察官が眼鏡を弄りながら釘を刺した。


「それはそうだけどさー、泥棒まで責任持てないって。前園まえぞのさん、頑張って探してよー」


「グロ画像には辟易しますが、あの身体能力と若返りは本当に興味深いですね。ぜひとも生け捕りにして研究したい…」


「あいつみたいなプロレスラー出てこないっすかねぇ。絶対キン肉バスターとかキン肉ドライバーとかできるっすよ」


次々に思い思いの感想を述べる三人の科学者。警察官、前園周二まえぞのしゅうじは眼鏡を指で押し上げ、心の中で舌打ちを放った。


(今、目の前で二人も人が死んだんだぞ!? わかってないのかこの三バカ)


国立ウイルス研究所の研究主任、雷泥主水らいでいもんど。その部下である雪城未来ゆきしろみらい火野厚志ひのあつし。この三人はエリート揃いの国立ウイルス研究所の中でも異端のメンバーで、良く言えば研究熱心、悪く言えば好奇心を優先する典型的な学者馬鹿であった。


前園にも警察官としての矜持位はある。人の感性は自由だと分かっていても気分がいい話ではない。


「とにかく、このドローンの画像を利用して適当な理由で指名手配を打つ。あれはもはや人間の知能を持った人食い熊だ。自由にさせる訳にはいかない」


「でも、人間が勝てる相手じゃないっすよ? あれじゃマーク・ヘンリーでも無理っす」


「…装備に関しては検討が必要だな。とりあえず二人を回収させよう」


「そうですね。SG-161で生まれた異脳者の能力には個人差が大きいですから、あの二人は鬼熊氏の能力を測る重要なサンプルです」


「…そうかもしれんが荼毘に伏すのが先だ」


前園は配下の警察官に指示をだした。対ウイルス装備に身を包んだ特殊部隊でなければ、連鎖感染の危険性がある。一刻も早く被害者を回収しなければならない。


(エヴォルウイルスSG-161…)


話を聞いたときは半信半疑だった。元々は脳腫瘍の原因となるウイルスだったそれは、研究中の杜撰な管理により変異を繰り返し、気が付けば『極めて特殊な脳腫瘍を作り出す』という性質を手に入れてしまっていたという。


このウイルスによって脳幹が変質して形成される良性脳腫瘍、異脳核には患者を突然変異させて超能力者に変えるという強烈な特性がある。三人の科学者が異脳者と呼ぶそれは、ラットによる実験ですら既に凄まじいものだった。


(七つの頭で他のラットを操るラット、筋骨隆々としたラット、異様に素早い六本足のラット、肥大した子宮で無数の子を生産するラット。そして全てのラットに共通する、手足をもがれても再生する異様な生命力)


前園をして戦慄するようなミュータントラットの王国。異脳の質でカーストが決まる厳然たる弱肉強食の社会。それを実現するエヴォルウイルスが人間に感染したとき、どのような未来が齎されるかなど火を見るよりも明らかだった。


(必ずエヴォルウイルスは封じ込めねばならない。そして、一刻も早くこのウイルスに対する治療法を確立しなければ)


前園は目を閉じ、静かに決意を固めた。


「ん?」


ぼんやりとドローンの画像を見ていた火野が眉を潜めた。


「この少女、動いてるっすね」


「そんな訳ないでしょー、火野ちゃん。頭が弾けてるんだよ?」


「いえ、雷泥主任。確かにこの少女は生きています。微かに呼吸をしているようですね」


「え、マジ?」


「マジっすよ。だって頭も元に戻りかけてんすよ? ゆっくりっすけど」


「何だと!?」


前園は画面にかじりついた。砕けたスイカのようだった少女の頭部が、確かにゆっくりと元に戻ってゆく。前園の見ている前で、潰れた目玉が元通りに膨らみ、元の位置に収まった。


「彼女も異脳者だったのか…」


「奇妙ですね。異脳者は異脳核を破壊されれば死ぬはずです。あの頭部への損傷で、異脳核が破壊されていないとは思えないのですが」


「そんなことはどうでもいい!」前園は専用のスマホを取り出した。「聞こえるか! 被害者の一人は生きている! 国立ウイルス研究所に移送しろ! こちらで治療を行う!」


「おー、警察官って感じ。凄いねー」


機敏に指示を出す前園を見て、雷泥はけらけらと笑った。前園は誰のせいだ、と心の中で毒づいた。

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