第一章:崩れゆく日々

覚醒

 その日、如月飛鳥きさらぎあすかは全くツイていなかった。


(ホームセンターで貰ったオマケの栄養ドリンクなんて飲まなきゃよかったな。とんでもなく不味かった。まったく、僕としたことが)


 三週間前、姉のかなめが交差点で事故に巻き込まれ、夜中の二時まで帰ってこなかったことがあった。その数日後からというもの、調子がイマイチ良くないのだ。


 先々週の体育の時間には怪我をするし、妙な頭痛で昨日は眠りが浅かったし、朝方に頭痛が治ったと思ったら今日は髪の毛が跳ねて全然決まらない。オマケにスマートホンの調子も悪い。全くもって気分が乗らない、と飛鳥は胸の中で毒づいた。


 こんな日は学校に行きたくないが、そろそろ時間で仕方ない。まったく、この単なるブレザーがもう少しパンクでカッコよければ、少しは気分もアガるのに。最近は自分のラジオまで調子が悪い。


(ああ…、学校と家以外の居場所が欲しい。決まりきった日常にささやかな抵抗をする権利があればいいのに)


 飛鳥は今年で十四歳になる。カッコよさに憧れ、己の趣味を押し通したいと思う心と、現実とのギャップに戸惑う時期。そう言う意味では退屈な、いつもの代わり映えのしない道を歩いて中学校に向かう。


(昨日のうちに宿題は終わらせたし、小テストの勉強は済ませてある。眠くて調子は良くないけど体育はないし、今日は何とかなるだろう。…ノートを取るのが億劫だ)


 そんなことを考えながら歩いていると、よろよろと頭を押さえて歩く老人が不意に飛鳥の目に止まった。今にも倒れそうな足取りはどう見ても健康には見えない。


(あの人は…鬼熊さんか。いつも元気すぎるほど元気だと聞いていたが)


 鬼熊権蔵おにくまごんぞうは四軒茶屋でも有数の地主だ。金は持っているがリウマチ持ちで性格が悪く、町内会で好き勝手やっていることでも悪名高い。なにせ、中学生の飛鳥ですら知っている位だ。


「……」


 面倒な老人とはいえ、明らかに体調が悪そうなものを放置するのも寝覚めが悪い。幸い、まだ学校にいくには時間はある。


(母さんは関わるなと言っていたが。まぁ、少しならなんとかなるだろう)


 飛鳥は、鬼熊を追いかけることにした。鬼熊は、少し通学路を外れたところにある遊歩道の奥、古びた椅子に座り込んでいる。


「大丈夫かい? 凄く辛そうだけど」


「ん…?」


 鬼熊は顔をしかめ、ぼんやりした目で飛鳥を見つめた。気のせいか、その体は一回り大きく見える。


「なんじゃ、子供の癖にその口の聞き方…年寄りを敬わんか!」


 鬼熊は即座に激昂し、頭を押さえながらバネ仕掛けのように立ち上がった。歯を剥き出しにして飛鳥に詰め寄る。


「貴様、その制服は向こうの私立じゃな? 親の脛をかじることしかできん奴が、山ほど税金を納める儂に敬語一つ使わんとは、恥を知れ!」


「ご、ごめんなさい…」


 善意であっても、鬼熊に関わったのは間違いだった。飛鳥は身を竦め、震える声で謝った。


「ちょっと、鬼熊さん!」


 飛鳥の後ろから力強い声が響く。恰幅のいい中年女性。見たことがない人だった。


「流石に人に気を使ってもらってその言い方はないんじゃないですか?」


「煩いわ! リウマチはともかく、人が頭痛で苦しんでいるときに…」


 鬼熊の顔に血管が浮かび上がる。みしみしと何かが軋むような音が響く。鬼熊が、中年女性に向けて手を振り上げた。


「とっとと消えろ!」


 それは、老人のなんてことのない一撃のはずだった。中年女性の腹に鬼熊の腕が叩きつけられる。


 しかし、その腕は中年女性の腹を抉り取り、肉体を容易く両断した。


「…え?」


「なんじゃと…!?」


飛鳥は目をしばたいた。むせ返るような生肉と血の臭い、こぼれた内蔵の妙に明るいピンク色。白い砂利の上にこぼれる赤色。全く現実感がない風景だった。


 吹き飛んだ女性の上半身が地面に落ち、一瞬だけ鬼熊の動きが止まる。しかし、鬼熊の動きは素早かった。


「…見たな?」


それは、飛鳥が生まれて初めて感じる、明確な殺意だった。飛鳥の背筋が凍った。


「ま…待ってくれ。これは…その…」


足が上手く動かない。後退りするだけでも精一杯だ。気のせいか、鬼熊の全身が膨れ上がっていくように見える。


「見られたからには生かしておけん…」


鬼熊は血のついた拳を舐め、ニヤリと笑った。


「ん? 頭痛が消える…? そうか!」


女性の死体を持ち上げ、がぶがぶとその血を飲み干す鬼熊。


「やはり! 儂が求めておったのは栄養! この頭痛は栄養失調だぞい!」


服が弾け飛ぶ。全身の皮膚がパリパリと剥がれ落ち、新たなシワのない皮膚が形成されていく。飛鳥の気のせいなどではなく、鬼熊の肉体は大きく…そして、若返っていた。白い褌が風にはためく。


「血じゃ! 若き血潮が燃えたぎるッ! 神は儂に、奇跡を与えたもうたッ!」


さっきまでは確かに老人だった。だが今は違う。どう控えめに見ても二十歳前後の筋骨隆々とした大男である。身長百四十センチちょっとの飛鳥よりも頭二つは大きい。飛鳥のあまり長くはない一生でも、今起こっていることが「決まりきった日常」などではないことは分かった。


(望んでない。こんなの望んでない!)


飛鳥は心の中で悲鳴を上げた。恐怖に涙が溢れ、歯の根が震える。目の前の暴力の化身から、どうあっても逃れられそうにないという冷徹な事実だけが飛鳥を支配していた。


「運の悪さをあの世で呪え」


鬼熊の裏拳が、動けない飛鳥の頭を横殴りに撃ち抜いた。首の骨が外れ、頭蓋骨が砕ける音が飛鳥の耳の中で木霊する。目がひしゃげたのか、視界が三つにブレている。頭が上手く働かない。


(いやだ)


(こんな)


(しにたく…)


意識が薄れていく。不意に胸に破裂するほどの激痛が走り、飛鳥の意識は闇に落ちた。

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