エヴォルハザード

ねーぴあ

プロローグ

災厄の始まり

 黒タイツと黒い覆面を着込んだ男が真夜中の住宅街を駆けていく。その手にはペットボトルほどのサイズの金属筒が握りしめられていた。


「やった、やったぞ。これで俺は大金持ちだ!」


 この金属筒の中にはある特殊な研究で生み出されたウイルスが封じ込められている。これをしかるべきところに売り払えば、男は人生を三回遊んで暮らせるほどの金を手に入れることができるのだった。


 逃げる算段は完璧に詰めている。ここ、四軒茶屋は東京ではあるが住宅街で、男の走る道は街灯の光が弱く車もほとんど通らない。この黒尽くめの服装は夜の間なら殆ど見えないし、証拠を残すようなへまもしていない。


 後は近くの駐車場まで走りぬけば、そのまま海外への高飛びができるはずだった。普段から人通りが少ない裏道を軽やかに駆け抜け、最後の大交差点を夢見るような気持ちで横切って――


 次の瞬間、時速五十キロで突っ走る閃光が男を撥ね飛ばした。地面に擦られ、男の皮膚が破ける。


 車が急停止するのと、飛んだ男が車の上に着地するのは殆ど同時だった。溢れる血がボンネットとフロントガラスを濡らす。


「やべぇ、やべぇよ!」


「どうしよう、人を撥ねちゃった!」


 車に乗っていた男女の慌てる声は、しかし既に命と盗み出した宝を落としていた男の耳には届かなかった。


★☆★☆★


「ちくしょー…ウソだろ…」


 力なく横たわる首が捩じれた男の前で、風切大悟かざきりだいごは頭を抱えながら呻き声をあげた。安全運転をしていたつもりだったし、れっきとした青信号だった。しかしブレーキは間に合わなかった。


「なんでこんな真っ黒い服着てるんだよ…ライト完璧に当てねーと見えねーじゃねーか…」


死者の体は思いの外重い。大量の血液はねばつくものなのだと大悟は始めて知った。


「どうしよう…」


 如月きさらぎかなめは半泣きになりながら指を噛む。緊張したときのかなめの癖だった。


「うう、車もベタベタで気持ち悪い…。と、とりあえず119番呼ばないと…でも助からないよねこれ…110番?」


かなめは車の扉を空け、赤くベタつく指をティッシュで拭き取った。そのまま淀み無い動きでスマートホンを操作し始める。


「な、何があったんじゃ…?」


 騒ぎを聞きつけ、夜の街を散歩していた老人が二人の元にやってくる。


「イ、イテテ…持病のリウマチが…」


「あの、大丈夫ですか?」


老人は近寄ってきた直後に杖を突き、ぷるぷると震え始めた。思わず大悟は老人を手で掴んで支えようとした。


「うるさい、触るな!」


「す、すみません」


老人は大悟の手を払った。なんじゃ、汚い手をしよって…と老人が毒づく。


「ご迷惑を…見ない方がいいですよ…人が死んでるので…」


 憔悴しきった顔で、大悟は老人に話しかける。老人も不満げな顔で頷いた。


「ドライブレコーダー、どうなってるかなぁ…」


 電話を掛け終えたかなめが、哀しげに呟く。警察官がやってきたのはその数十分後だった。


 警察官は大悟たちに事情聴取を行い、事故の検証と黒尽くめの男の身元確認を始めた。この時、黒尽くめの男が落とした金属筒が引きつぶされ、中に入っていたものが男の体液と共に、車と地面になすりつけられていたことには、誰も気が付いていなかった。


 金属筒には、ラテン語で「エヴォルウイルスSG-161」と書かれたラベルが貼られていた。そのラベルは地面にこすり付けられ、もはや何処にもなくなっていたが、中身が変わったわけではない。


 そのウイルスは、男の体液と混じって急速に増殖し、その血を体内に取り込んだものに手当たり次第に感染していった。

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