流木ーー松丸謙吾・最後の関八州

まさりん

第1話 惨殺 その一

 その日の夜、梅雨始めを思わせる小糠雨こぬかあめが、あたり一帯に降り注いでいた。

 男は空を仰ぐ。

 月も星も見えず、妙に薄明るい灰色の夜空が、頭上を覆う木々の隙間から見える。明るければ、微風にゆらゆら揺られ、雨粒が落ちる様が見えているだろう。

 盛夏に到る前の鬱蒼うっそうと茂った枝葉に隠されて、夜よりも深い闇に男はたたずんでいる。身なりは粗末であまり身分の高い感じはしない。ただ着流しではなく、きちんと灰色の袴も着けている。木の枝が隠して雨が粗末な着物を直接濡らすことはないが、葉を滴ってくる雫は防ぎようがない。長い時間待ちわびて、袴には大きな染みができていた。月代さかやきは剃っていない。痩身そうしんである。が、日々の鍛錬を欠かしていないのか、無駄のない硬質の体躯をしているのが服の上からも分かる。

 精悍せいかんな顔と鋭い視線を何度も上げる。視線の先には六十余段の石段がある。男は何かを待っているようだった。

 階段の上には大きな山門がぼんやり浮かんでいる。門の周囲に明かりでもあるのだろう。山門の方からは男の姿は視認できない。こんなところにやってくるのだろうか、男はいぶかしく思う。

 「山門の先の寺では句会が行われているはずだ。階段の下には参道があって、真間川を越え大門通りを抜ければ、街道沿いに商家や宿屋が建ち並ぶ所に出る。位置から言えば、この階段を通るのが一番近道だ。それに、やつのことだから妾の一人や二人いるだろうぜ。妾の家に行くなら、この道しかねえ」男はそう言われてここに立っていた。

 目当ての男は「益屋」という大店おおだなの主で、今晩の句会を仕切っていた。階段の上にある「弘法寺」への寄進額も他を抜きん出て多い。弘法寺は台地の上にあり、この辺りで一番の眺望である。浮世絵の舞台にもなっている。

 当代のます嘉右衛門かえもんには奇妙な噂があった。「嘉右衛門はまつりごとにご執心だ」というものだった。この頃の「まつりごと」とは攘夷のことである。

 男の目の前の六十余段の階段には途中三カ所の踊り場がある。階段の上半分の両脇には青や赤、額紫陽花がくあじさいの白、色とりどりの紫陽花が咲いている。ちょうど二つ目の踊り場まで紫陽花が続く。紫陽花は低木なので、屈まなければ身を隠せない。

 男の立っているのは三つ目の踊り場の脇だった。そこには一抱えの紅葉の木が立っている。それほど太くはないが、闇のなかで身を隠すには十分だ。

 男がそうして一刻が過ぎようとしていた。一刻ほど前に一応、遠目に益屋嘉右衛門らしきものが寺に入るのを確認していた。そのまま、寺内で夜を明かすことも考えられた。また街道沿いの商家の並ぶ街場に出るには、他にも通り道があった。そちらへ益屋が行った場合、お手上げだ。

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