第35話

 炎が血の色をしている。

 見上げるほどに巨大な火柱が立っている。


 魔法陣の効果なのか、まるで透明の壁があるかのように、一定の範囲に炎が収まっている。

 魔法陣の中は灼熱の地獄になっている。違和感あるほどに真っ赤な炎のせいで、本当の地獄と言われても納得できるくらい。


 ハイオークの姿は、もはや全く見えない。

 炎が強すぎるせいだ。火中への視界が遮られている。


 魔法とは一体何なんだ。何を極めればこうなるんだ。

 魔法を見ている気がしない。アリアはどうやってこの魔法を使えるようになったのだろうか。


 少し時間が経過したところで、炎がゆっくり消えていく。

 光が失われた魔法陣が消失する。


 訓練場中央に、焼け焦げたハイオークのみが残されている。真っ黒だ。ぴくりとも動かない。


「倒した、のか」


 誰かがそう呟いたのが聞こえる。

 それを皮切りに、訓練場が大歓声で埋め尽くされた。


 逃げることに必死だった人たちが肩を抱き合って喜んでいる。

 涙を流している人も。さっきまでの絶望が嘘みたいだ。


 訓練場の中央で、アリアがほっとしたような表情を浮かべている。

 目が合った。

 アリアが笑顔を向けてくる。

 思わず僕の頬も緩む。


 結局、いいところを全部アリアが持ってっちゃったな。

 僕の呪いの杖──アインザームの出番も無かったし。


「──ゥウウウウウ」


 重いうめき声が聞こえる。

 視線が一瞬で、訓練場中央に引き戻される。


 真っ黒に、これでもかというくらいに焼き焦げられた巨体が、ゆっくりと立ち上がっている。


「嘘だ」


 全身が焼け焦げている。

 肌の表面はところどころ剥がれ落ちている。

 瀕死じゃないのか。どうして動ける?


 鬼のような形相でハイオークが咆哮を放つ。


「グゥゥゥゥゥウアアアアアアアアアア!」


 心臓が鷲掴みされるような感覚だ。

 空気が振動して、鼓膜が引きちぎれそうになる。


 地面に膝をついて両手で耳を塞ぐ。手も足も震えが止まらない。


 叫びの魔法だ。声に魔力を込めて咆哮を放つことで、周囲の生物をひるませる。

 魔法とは言えないかもしれない。

 だって声に魔力を乗せるだけだ。魔力消費の効率もめちゃくちゃく悪い。言ってしまえばお粗末な魔法だ。

 にも関わらずこれだ。


 震えが止まらない。

 心は折れてる。

 僕だけじゃない。

 みんな震えながら逃げようとして、足が震えて逃げれないでいる。地面に倒れて気絶してる人もいる。


 期待した分、落ち幅も大きい。

 これが絶望ってやつだ。

 最初から勝算なんて無かったんだ。


「早く、逃げ、ないと」


 声が震えてる。

 足が動かない。

 手も動かない。

 怖い。焦ってる。ものすごく焦ってる。だって逃げることしか考えられないんだから。


「──きゃっ」


 小さな声が聞こえた。声というより悲鳴。


 こんな状況でそんな声を気にしている暇なんてない、はずなのに。

 震えが止まった。

 自然と声の方向を向いていた。


 ハイオークが手を振り上げている。

 尻もちをついたアリアが、涙を流して、ハイオークの前で震えている。


 僕は体が弱いのか? 咆哮に耐えられない体が、弱いのか。

 違う。心が弱い。体も心も弱いんだ。

 アリアが危ないなんて分かっていたのに、僕は、逃げることしか考えていなかった。

 僕ってこんなに、弱かったんだ。


 いざとなれば、勇気とか魔法の力とかでどうにかなると思ってた。誰かがどうにかしてると、心のどこかで思ってた。

 今はもうそうは思わない。


 先生。ごめんなさい。

 僕は約束を守れそうにない。


「アインザーム!」


 杖を持って叫ぶ。

 心臓が脈打った。


 目の前に一瞬だけアインザームが映った。

 笑顔を浮かべている。

 アインザームが消えた。


 全身に何かが流れ込んでくる。グツグツと煮えたぎっているエネルギーみたいな何か。どこからか、莫大な力を吸い上げているような気がした。


 力が溢れる。意識が冴え渡る。

 知覚機能がありえないほどに発達しているのが自覚できる。誰がどこにいるのかが手にとるように理解できた。

 全てが遅く見える。


 今なら何でもできる気がする。


 アリアの頭上でハイオークが腕を振り上げている。あそこに行けばいい。

 地面を蹴る。景色がものすごい勢いで後ろに流れる。


 ハイオークの足元に着地。まだハイオークの腕は振り下ろされていない。ハイオークは僕の動きを目で捉えてすらいない。


 右手を強く握りしめる。

 それだけで右手に光が宿り、僕の腕の周りを電撃が這い周り始めた。


 全部吹き飛ばすつもりで右手を振り抜く。拳がハイオークの体にめり込む。

 ジュワ、と手で殴ったとは思えない音がした。


 その瞬間に、拳から青白い電撃の線が放たれる。ハイオークの上半身が砕け、瞬時に蒸発する。


 それでもなお余ったエネルギーが、青白いスパークを撒き散らしながら、銀色の線を描いて空の彼方に消えた。


 訓練場がシーンとしている。


 不思議な感覚だ。戦う前まであんなに怖かったのに。気持ちいい。

 やっぱり僕は魔法が好きだ。


 突然、全身から力が抜けた。

 全能感が消え失せる。


 右腕の裾が焦げて破けている。

 今でも信じられない。アインザームの力。ハイオークを一瞬で蒸発させる威力の魔法なんて見たことがない。


 これは、ルドリク先生に怒られるなあ。

 なんて思っていると、気づけば辺り一帯で大歓声が上がっていた。





【お知らせ】

明日は36話から40話まで公開します

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