運命の家族漁船団

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運命の家族漁船団

父が死んだ。

父は襟裳の昆布漁師だった。

父は昆布を採取しているときに、昆布に足をとられ、海中に引きずり込まれ、そのまま死んだと思われる。死体も見つからなかった。


家系は圧迫された。それまで稼いでいたのは父だけだった。

母は働いたことのない女だった。

そもそも貧乏だった。しかし、それが激化した。

すぐに借金をするしかない状況に陥った。

働かなければならない、と豊子は思った。

しかし、この襟裳の町には、仕事などない。あってもパートかアルバイト。

それでは家を支えてはいけない。

まだ小学生の弟、清彦が青い鼻汁をたらして帰って来てすることもなくぼうっとしているのを見るのが、つらい。

このままでは、清彦は高校にも行けないだろう。

母は毎日ぼうっと空を見て暮らしている。何もしない。家事もしない。庭に生えているつる草が母の体にまといついてくるであろう未来を思い描き、豊子は人知れず恐怖した。


卒業式の日は、雪の降りそうなどんよりした空だった。

しかし、雪は降らないのであった。

同級生たちが、きゃあきゃあわいわい騒いでいる。

地元の企業に就職する者や、目的が何かはわからないが、ともかく札幌にまで出て働こうという者もいる。

しかし、豊子の思いはそのさらに遠くにあった。彼女はロシアへ行き、ベーリング海の蟹漁の船団に乗るつもりでいた。

かなりつらい仕事だそうだが、うまくいけば月給で二百万円ほど稼げるとのことだ。

クラスメートの町子が豊子に声をかけた。「豊子はこれからどうするの?」

「蟹を取るわ。ズワイガニよ。そして家族を守るの」

「そうか、豊子のお父さん、亡くなったんだもんね。大変ね」

しかし、わかっていないのだ。町子は。蟹漁船団の仕事が、どれだけ過酷なものかは。

町子はこの後、札幌に行き、そこで遊びまくり、金を失い、キャバクラで働くようになり、シャブに手を出して心も体もぼろぼろになり、借金まみれになり、東京のアダルトプロダクションに売られ、アダルトビデオでもうめちゃくちゃなことをされまくることになる。


比べて豊子のこの決意に引き締まった顔。

豊子は着替えと預金通帳と父親の遺影だけが入った小さなケースを持ち、襟裳の駅に向かった。

清彦がついてきてくれた。母親は来なかった。

駅について、電車を待っている間、豊子は清彦に言った。

「いい? おかあさんにつる草が巻きつきそうになったら、ほどいてあげるのよ。大丈夫。あんたが進学するためのお金は、私が稼ぐから」

清彦は姉が話す言葉の重大さにまだそこまで気付くことができなかった。

列車が発車する時間が来た。豊子が列車に乗り込んだ。列車が発車した。途端に空に轟音がとどろきをを上げ、とてつもない大雨が一瞬にして振り出した。清彦はびしょびしょになった。視界が暗くて、豊子がこちらに手を振ってくれているのかどうかが、わからなかった。清彦はただ、青っぱなをたらして、立ち尽くしていた。


姉から連絡が途絶えて三年が過ぎていた。そして、姉からの仕送りが途絶えてからも三年が経った。

父の死のときには、突然のことだったのと、周囲がわんわんと泣いていたので、清彦も泣いた。しかし、遠い国で曖昧に消えてしまった姉の存在に対して、清彦はどのように対処すればいいのかわからなかった。

清彦は十八歳になっていた。高校には通っていた。姉からかつて送られてきていた仕送りの額が半端ではなかったため、まだまだ食いつなぐことはできていた。

母はもう人ではなくなってしまっていた。毎日、縁側に座り、庭ばかり見ていて、ひとことも話さない。食事も、食べさせないと食べない。

そんな環境のなかで生きる清彦十八歳は、未来を描けないでいた。


清彦に地元で就職する以外の選択肢はなかった。母がこんな風では、襟裳を離れることはできない。

姉のことの顛末を探りにも行きたいが、そんな余裕もないだろう。

もちろん清彦にも札幌などの大都会に出て働いてみたいという夢はあったが、叶うべきものではないことは、自身が一番わかっていた。


卒業式の日がやってきた。空はどんよりとしていた。

清彦は地元の漁船団の一員になることで就職が決まっていた。昆布漁の仕事ではなかった。清彦は父親のことがあったため、昆布を毛嫌いしていた。

卒業式の後、クラスメートの時子が声をかけてきた。

「清彦君てこの後ヒマ?」

「うん」

そして清彦は海岸の近くの森の木陰で初体験をした。涙がこぼれた。これが人生で最初で最後の喜びなのだと思った。これ以上自分には幸福と呼べる幸福的な感情が与えられることはないのだと思った。

時子はことが終わって泣き出した清彦の態度に驚き、変な顔をしてそそくさとその場を去っていった。

その後、時子はアメリカに渡り、整形手術を受けて偽美人となり、東京に行って女優となる夢を追い、結果ジゴロにだまされて借金まみれになり、アダルトプロダクションに売り飛ばされて、アダルトビデオでもうめちゃくちゃなことをされることになる。


そして、清彦は働き始めた。彼が乗った漁船は、貝や小魚を獲るものだった。早朝から仕事で夕方に帰って来て、母親の世話なり何なり、そんなことを毎日くりかえした。そのうち何のために生きているのだかわからなくなってきた。母親の様子は一向によくならなかった。もう医者を呼ぶのもやめていた。いつしか、母親の足には、ほんとうにつる草が巻きついているときがあるほどになったが、もう清彦はそれさえ気にも留めなかった。


死のう。清彦はそう思った。もうなにもない。未来に光はない。楽しみもない。生きていても仕方ない。

それで、仕事中に、漁船から海の中へ飛び込んだ。服のなかに小石を詰め込んで、沈むようにしておいた。遺書も何も書いていなかった。ただ、消えてしまいたかった。

水のなか、だんだんと、周囲が暗くなっていった。音もなくなっていった。気が遠くなる。

と、突然、体が浮き上がった。訳がわからなかった。こんな海の底で、何が起きたのか。


ざばあ、と海面に顔が出た。あちらに自分の乗り込んでいた漁船「五郎丸」があって、こちらを発見して大騒ぎしているようだ。しかし、なぜ自分は助かったのだ。

清彦は左右から支えられていた。父と姉に。しっかりと。

「とうちゃん、ねえちゃん」涙が滝のように流れた。ここは陸から遠く離れた海の上で、父も姉もいなくなってから久しかったが、そんなのはどうでもよかった。自分がひとりではないということ、それだけが彼のこころを熱くさせた。


父は昆布人間になっていた。昆布に足を巻き取られ、海中に沈んだ後、海底にすむ魚人たちに助けられ、昆布人間に改造されたという。しかし、人でなくなってしまったがために、陸上の子供たちや妻には会いにいけない。そこで、清彦が船乗りとなった後、邂逅の機会を望み、常に彼の船の後を追っていたという。現在では、魚人たちの町で平和に暮らしているとのことだった。

姉はベーリング海での漁業中、突然の大嵐に巻き込まれ、船ごと海中に沈んだ。そして目が覚めると、カニ帝国でカニ人間となる改造手術を受け終わっただったという。そしてカニ皇帝の側女として遣える身分となった。しかし、弟を心配するあまりに思いが募り、このたびカニ皇帝にしばしの暇をもらい、襟裳に帰ってきたそうだ。そして、この襟裳岬の沖の海底で、父と再開し、涙ながらに喜びを分け合った。

そこに、海面から清彦が落ちてきたというのだ。

ふたりは清彦の表情と、服のなかに入れられた重りから、彼が生活に絶望して死を図ったことにすぐに気付いた。そして彼を助けたのだ。


とうちゃん、ねえちゃん。とうちゃん、ねえちゃん。つらかった。おれ、つらかった」

清彦は泣き止まなかった。五郎丸の乗組員たちは、船の上からその光景を見ていた。海中に漂っているのは、自分たちの仲間である、死のうとしていた若者と、髪の毛が昆布になってしまっている、はるか昔に死んだと思われていた自分たちの漁業仲間、そして腕がカニの腕になってしまっている清彦の姉だった。

異様な光景だった。しかし、だれもそれをおかしいと思わなかったのは、そこにあった愛が人種的偏見を超えたところにまで高まっていたからだろう。


父と豊子は海中から出られない。もはや人ではないからだ。しかし、彼らは五郎丸を陸の近くまで見送っていった。そして大きく手を振った。五郎丸は港に着いた。しかしそこからもまだふたりの姿は見えた。


清彦は母を車椅子に乗せて、港まで連れて行こうとした。ふたりの姿を見せれば、母もまちがいなく生気を取り戻すことだろうと思った。そして母親を持ち上げようとした。

そして清彦は気付いた。母の足が完全につる草と同化してしまっていたことを。いや、もはや、何も話さなくなり、何も自発的に口にしようとしなくなってしまった母が、ほんとうの植物と化してしまったことに気付いたのだ。


こうして、死んだと思われていた家族のうちのふたりが生きていたという真実は、もうひとりの死を止めはしたが、さらにもうひとりが人でなくなることを救うには、遅すぎたのだった。

清彦は悲しかった。もう死にたいという気持ちはなかった。これからはいつでも父と姉に会える。そして、母もここにいる。しかし。

自分以外の三人が、人ではなくなってしまった。そんなことはもうどうでもよかったのだ。自分には家族がある。それだけで、よかった。でも、母親とはもう、話すことはできない。そして、家族四人で会うこともできない。

みんなが生きていることは、うれしいことだ。しかし、家族四人で一緒に会って、話し、食事をし、笑い、生きていくことは、もうできない。

自分は漁に出て、父と姉に会い、家では無口な母親の足元に水をやる。それがこれからずっと続いていく生活なのだ。

清彦はもう死のうとは思わなかった。未来に絶望した気持ちもなくなった。ただ、不可思議な悲しみだけが、彼のこころの表面に薄い膜を張り、光を通してくれなかった。

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