03 その時国は、消え去り行く不安に揺れていました。

 それは十年に一度一夜だけ、月丘の門が開くと言われる満月の輝くまで、ちょうど半年前のことでした。このままずっと続いていくと、私が心のどこかで疑いながらも無意識の必死さで信じていた平和が、その日途切れたのです。美しい、満月の夜でした。うっかりその美しさに、待ち焦がれていたその日だと勘違いした門が、開いてしまってもおかしくはないような。

 だから、なのでしょうね。その月を見上げながら、あの方は私に言ったのです。もしも命が途切れてしまったのならば、私は必ず月丘の門を通って、愛しい私のコージュを迎えに来るから、待っていて欲しいと。迎えに来るから、待っていて欲しいと、あの方は言ったのです。それがどれ程残酷な愛の言葉なのかを知った上で。

 その時国は、消え去り行く不安に揺れていました。少し前から続いていた国境でのいさかいがだんだんと大きくなり、大事になり、一般市民にも死人さえ出てくるようになった頃でした。このまま戦争になってしまうのではないかと言う、不安の中でした。それなのに。それなのにあの方は言ったのです。待っていて欲しいと。

 何を意味する言葉であるのか、私以外の誰でもきっと分かったでしょう。そう、戦争は始まるのです。おそらく美しい満月が地平線に沈み、暗闇に覆われた空を、晴れ晴れと太陽が照らし出す頃には。戦争は始まるのです。あの方の言葉で、ついに始まってしまうのです。私はぞっとして、伏せていた肩から顔をあげ、あの方の目を見ました。深い深い海のような、美しい底なしの瞳。

 酷いと、私は思いました。なんて、なんて酷いのだろうと。愛しい人、大切な人、守るべき人、守りたい人。私個人に取っても、国に取っても、なくてはならない人。幾千、幾万の盾を用意し、私がその一つとなって矢を受け止めようとも悔いはなく、そうする事が当然だと思ってもふさわしい地位にある人。それなのにあの方は、それを拒否したのです。

 人に守られると言う事を、拒否したのです。私に守られると言う事を、拒否したのです。酷い、なんと酷い愛しさで優しさなのでしょうか。私は溢れる涙をぬぐうこともせずに、あの方を睨み付けました。深い、深い海のような、美しい底なしの瞳をしっかりと正面から見て、睨み付けながら言いました。連れて行ってください、と。それは私にとって、当然の主張でした。

 待っている、だなんて。愛しい人、大切な人、守るべき人、守りたい人。私個人に取っても、国に取っても、なくてはならない人。あの方に向かって矢は降り注ぎ、あの方に向かって剣は振り下ろされるでしょう。それを、私は知っています。共に何度も、何度も戦い守ったからこそ、その事実を私は、現実の光景として知っているのです。

 絶対に許せませんでした。一人で行かせるなど。あんな危険な場所に一人で行かせ、私は無事な場所で待っているなどと。愛しさを盾にした卑怯な言葉で私を縛りつけようとしたあの方を、絶対に許せませんでした。あの方はどこまでも卑怯で自分勝手で意地悪で、そして優しく臆病な人でした。

 私を失うかもしれないという恐怖に、耐え切れない人でした。平和を平和と認識できなくなるくらい慣れてしまうことを、どこまでも何よりも恐れていたかのように。私がにらんだ美しい瞳の中に、しかしその見慣れた恐怖はありませんでした。ただ代わって、私を失うかも知れないという恐怖だけが横たわっていました。それは同じ、けれど全く違う恐怖の色でした。

 だからこそ私は鋭く視線を向けながらも笑うことができました。あの方に向かって、笑いかけることが出来ました。あの方の美しい、底なしの青の瞳。海の色。それに向かって、微笑みかけることが出来ました。幼子を守る母のように。守護を誓った女神のように。なによりも優しく、誰よりも強く、笑うことが出来ました。

「置いて行かせなど、させません」

 私は言いました。連れて行ってくださいなどと、弱い女のような言葉は、二度と吐き出しませんでした。そんな懇願が、あの方には無意味だと悟ったからです。そんな懇願を、恥ずかしく思ったからです。私は女です。けれど同時に、女ではなく、この国を守る為の剣でした。この国を守る為の、盾でした。私は随分前から一振りの刃でした。私は、守られる存在ではなく、守る存在だったのです。

 私は戦うことを知る女でした。何度も何度も、あの方と共にこの国を守ってきたのです。侵略者たちを切り捨て、この国を守ってきたのです。私は女ですがけれどそうではなく、幾千もの兵士を従えて戦う者だったのです。私は一振りの刃でした。磨き上げられた盾でした。この国の為の力でした。あの方の為の力でした。だから私を、置いて行かせなどは決してさせません。

 この国の為に。何よりも、あの方の為に。置いて行かせなどは、させません。私は繰り返しました。その言葉を。それしか知らない子供のような必死さで。それしか知らない大人のような愚かさで。涙を流し、それをぬぐおうともせず、至近距離であの方の美しい、底なしの瞳を見つめながら言いました。それこそが私の、愛の言葉でもあったのです。

「置いて行かせなど、させません」

「コージュ」

「いいえ。いいえ、絶対に。私は絶対に、受け入れはしません。駄目です。置いて行かせなど、させません。私は陛下、貴方と共に。必ず共に。置いて行かせなど、させません」

 それがどれ程危険な戦であろうとも、私は別にかまわないのです。そこで例え命を落としてしまっても、私は別にかまわないのです。あの方と一緒なら。一緒であるのなら。私はそこにどんな困難、どんな絶望が待ち構えていたとしても、かまわないのです。大切なのは一緒にいることであって、私一人が安全に待っていることではないのです。

 あの方はとても困った顔をしました。とてもとても、困った顔をして、視線をさまよわせました。どうすれば私を説得できるのだろうかと、考えているようでした。しかしその考えがまとまってしまうよりも早く、強く、私は繰り返し言い、首を振りました。置いて行かせなど、させませんでした。お互いを説得する作業は、そのまま夜明けまで続きました。

 明かりの薄かった室内には、やがて太陽の光が差し込んできます。金色の美しい朝日。しかしそれにも目を留める余裕などないかのように、私もあの方も必死でした。あの方はどうしても、私を連れて行きたくはないようでした。それがなぜかは自分でも分からず、説明もできないようでしたが、あの方はどこまでも私を連れて行くのを嫌がっていました。

 私は怒りました。悲しむより、悔しがるより、私は怒りました。あれ程に怒ったことはないというほど怒りました。だって、そうでしょう。もしも命が途切れてしまったのならば、だなんて。もしも死んでしまったら、だなんて。そんなことを言われて、けれど待っていろなどと言われて、怒らない女がいるとも思いません。分かったという女がいるとも思いません。

 ええ、あの方はそういう所に関しては、本当に愚かな人なのです。その言葉さえなければ、ただ必ず迎えに来るから待っているとさえだけ言ってくだされば、私はもしかしたら留まったかも知れないなどということについて、全く考えが及ばない程に。私は怒って、怒って泣きながらあの方の頬を手で打ちました。

「なっ」

「月丘の門を、くぐるだなんて……」

 それはそのまま、死を意味します。月丘の門の向こう側は死者たちの世界であり、こちら側は生者の世界なのですから。月丘の門を通って迎えに来るということは、つまりそういうことなのです。死が私たちを門の向こう側とこちら側に分けてしまうと、言うことなのです。私に取って死は問題にはなり得ません。問題になるのは、あの方がそこを通ると言ったこと。

 あの方は、そうです。私を失うことを何よりも怖がっていながら、私からあの方を失わせることについては何も怖がっていないのでした。私がそうであるように。私たちはお互いにわがままで一方的で分かり合いません。私たちはそういうことに関して、いつもいつも平行線なのです。交わろうとしないのです。歩み寄ろうともしないのでした。

 私たちは相手に、その気持ちを分かってもらおうだなんて、希望してはいないのです。そう願ってはいても、最初から受け入れてはもらえないだろうと、諦めているのです。かえって受け入れられたのなら、それはそれで気味悪がったでしょう。私たちは身勝手で、わがままで、卑怯で意地悪で臆病でした。自分の喪失より、相手の喪失を何より怖がったのです。

 死ぬのであれば自分が先に死にたいのです。相手を置いていってしまう事など、罪悪でもなんでもないのです。それは私たちに取っては、幸福でもありました。相手は一生相手を失ったことを悲しみ、想い続けるでしょう。それは何よりも強く、強く想い続けるでしょう。吐き気がするほどの愛で、想い続けるでしょう。それが私たちの間にあった愛でした。

 酷く醜い、利己的な愛でした。だからこそお互いに分かろうとせず、分かり合おうとせず、分かってもらおうともせず、分かり合おうともしなかったのです。分かって欲しくなどなかったのです。受け入れて欲しくなどなかったのです。私たちは同じ想いを持ってはいましたが、それを共有することなどしたくもありませんでした。

 大切に自分一人でいつくしんで育てたい愛なのでした。それを人は愛とは呼ばなかったのかも知れません。けれど私たちはそれを愛と呼んでいましたから、お互いに愛しあっていると確信していました。今も、昔も、これからも。決して分かり合わないまま共有しないまま愛し合うのが、私たちの形でした。

 だからこそ私は怒ったのです。今になって分かり合わせようとしたあの方に。それを盾に取って、愛を鎖にして私を安全な場所に縛りつけ、自分だけは意気揚々と死にに行こうとするあの方に。私は、分かり合わせようとしたことにこそ怒ったのです。私は、先に死のうとした勝手さにこそ怒ったのです。

 私たちは愛し合ってこそいましたが、私はそれを受け入れてもらおうなんて思いもしません。嫌われても別に、かまいはしないのです。大切なのは私があの人を愛していると、ただそれだけ。そして身勝手に卑怯にわがままに、先に死なせはしないという、ただそれだけ。私は笑います。昇る朝日のように、誰にも止められない力を持って。

 そして私は、あの方と共に戦場へと向かったのです。この国を守る為、あの方を守る為、あの方を先に月丘の門をくぐらせなどしないために。けれどその半年後、月丘の門をくぐって、あの方は私を迎えに来ました。酷く満足そうな笑みを浮かべて。


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