02 怖いからだよ、とあの方は言いました。
怖いからだよ、とあの方は言いました。一月時がめぐるたび、何かせかされるように繰り返し、繰り返される祭りが行われるその理由を私が聞くたびに。あの人は言いました。必ず空を見上げ、そこが晴れていても曇っていても雨を降らせていても、全く変わりないように愛しく目を細め、そして怖いからだよ、と言いました。それが口癖であるかのように。
今にして思えば、それは本当にあの人の口癖であったのかも知れません。あまりにも素直に、まるで幼子のように恐ろしさを訴えて来るというのは、あの人の癖であったのかも知れません。しかしその時の私はそれが癖であると思うこともなく、思おうとする事もなく、ただ繰り返される同じ言葉に、呆れたように目を細めたのでした。ためいきをついて。
「なにがでしょう、陛下」
「分からないかい?」
あの方。この国の王であらせられた方。その時は十九歳の青年として、まるで若葉のような印象をあたりにふりまきながら、美しさや艶やかさをまとっておられた方。その髪は磨き上げられたかのような銀そのもので。笑みを称える瞳は深い深い、吸い込まれそうな濃い海の色を宿していて。
私は実際、いつもいつも、その魅惑的な色彩に目を奪われないように、息を奪われないように、意識を奪われてしまわないように。ほんの少し緊張している風を装って手を握り締め、息をつめてわずかに視線を外しているのでした。とてもではありませんが、正面からそのお姿を見られなかったのです。美しすぎて。儚すぎて。
陛下は類まれなる方でした。男性であるのに美しく、儚く、それでいて女性的ではない、稀有な方でした。すらりとした長い手足はどこか窮屈そうに、それでいて自由に椅子から伸びていて、時折暇そうにゆらゆらとゆれているその仕草は、機嫌を損ね始める合図だと私以外の誰が知っていたでしょうか。
全く優雅に空気をかき回すのを楽しんでいるようなその仕草が、機嫌が下降し始める合図であるのだと、私以外の誰が知っていた事でしょう。きっとあの方の妹である王女殿下であっても、たとえあの方をお守りする教育官殿であっても、知らなかったのではないでしょうか。なぜってその仕草は、決まって私と二人きりの時だけに現れるのですから。
何かの合図のように、手足はゆらゆらと動いて空気をかき回し、愛しげに細められて空に向けられていた瞳が、室内に所在投げに立つ私の元へと戻りました。そう、戻るのです。あの方の視線の先にいるのは常に私で、私だけで、他の誰でもなにでもないのですから。生まれた時からそうであるように、そうなると決まっていたのであるように。
「コージュ」
「はい」
「コージュ・クレイン・サーレイシェリア。……聞いているのだよ? 答えなさい。その理由が、分からないかい?」
優しく、愛しく、柔らかく。あの方の、陛下の声は、まるで歌声のように歌詞のように、その言葉をどこまでも滑らかに紡ぎ上げるのです。私が震える唇を開き、情けなく涙のにじむ声で何かを答えるまで。かたくなに許さず、それでいて楽しんで遊ぶかのように、繰り返し囁くのです。コージュ、と。コージュ・クレイン・サーレイシェリア。答えなさい、と。
その、一つなぎの呪文のような私の名前を、優しく、愛しく、柔らかく。あの方は何度も、何度も囁くのです。頷きを返すだけでは許さずに、言葉にしてきちんと表さない限り、何度も、何度も囁くのです。美しすぎるあの方の声の前で、私の唇が紡ぐ音など霞むだけで空気を揺らしたくないと、そう思っているのをきっと誰より知っていると言うのに。
許してはくれないのです。あの方はどこまでも卑怯で自分勝手で意地悪で、そして優しく臆病な人でした。
「分かり、ません」
そう言うと、あの方は酷く満足そうに笑顔を浮かべました。何度も何度も繰り返されてきた問いかけと答えを、さらにもう一度繰り返した私に対して、あの方は酷く満足そうに、笑うのです。繰り返し、繰り返されている祭りの理由を私が聞くたびに。その理由をさらに問うたびに。そしてその理由を分からないというたびに。決まってそれは、浮かべられる笑みでした。
「では教えてあげよう。もの覚えの悪い、全く理解しようとしてくれない、王国の臣下。私の、愛しいコージュ」
「……その言い方は、私を馬鹿になさっているとしか思えないのですが? 陛下」
「この国が一月ごとに祭りを開き、一年で十二回も……十二回以上もそんな騒ぎを、それこそ馬鹿のように繰り返している理由、だったね。愛しいコージュ」
そう言って陛下は、私の不満いっぱいの言葉など完全に無視して、いきいきと目を輝かせて話し出すのです。何度も何度も繰り返した言葉をなぞって、それはあたかも筋書き通りの台本を読み上げているかのようななめらかさで、言うのです。その怖さの正体と理由を。分からず、理解さえしようとしない私に、少しだけ困ったように。
「平和だと感じられなくなる事が怖いからだよ、愛しいコージュ。分かるかい? 平和に慣れない為に、平和を平和だといつもいつも強く、なによりも強くなによりも強く感じている為に。その為に、その為だけに、祭りはあるのだ。分かるかい? 愛しいコージュ。平和を平和だと感じ続ける為に、そしてそれを感じられなくなることが怖いからこそ、狂ったように馬鹿のように私たちはそうし続けているのだよ」
「陛下」
「つまり。平和に慣れてしまうことこそが、怖いのさ。分かるかい? 愛しいコージュ」
いいえ。いいえ、いいえ、いいえ、いいえ。分かりません。私には、それは分かりません。分かりません、分からないのです、陛下。平和に慣れること。平和を平和だとも思わずに慣れてしまうことのなにが、そんなに怖いというのでしょうか。それは、平和に肩までつかったまるで満たされた幸福な状態であることの証ではないですか。
ですから私は決まって首を横に振ります。ぎゅっと目を閉じて、何故か泣きそうになる気持ちを小さく胸の中に押し込めて、涙を流さないようにしながら。首を横に振ります。視線でまた陛下が私に、声での回答を求めても、頑なにわがままにそれを求めていても。私もまた、頑なにわがままに声を出そうとはせず、首を横に振ります。
そしてそれが、一連の繰り返し繰り返している問いかけと回答のいつもの終わりなのです。私たちは決して、分かり合わないのです。分かり合おうとしないのです。平行線を曲げようとはしないのです。だって私には分かりません、平和に慣れてしまうことの恐ろしさ、怖さが。そのなにが怖いのかが、理解できないのです。
それなのに、それが分かっているのに。私は何度でも、何度でもそれを陛下に問いかけました。理解し合おうとしていた訳ではなく、分かり合おうとしていたのではなく。ただ、何故か私はいつもそれを問いかけました。陛下はそのたびに怖いからだよ、といい、また一連の流れは繰り返されます。怒ることなく、呆れることなく、飽きることなく。
そのたび、それがあたかも一度目の問いかけであるかのように。それでいて、何度も何度も繰り返された問いかけであるのが分かる慣れた言葉で。けれどたどたどしく。私たちは答え、問いかけ、問いかけられ、答えました。いったい何がしたかったのか、いったいどんな答えを出したかったのか。それは私にも、あの方にも分からないでしょう。
ただの言葉遊びだったのかも知れません。なぜならその問答が繰り返されるのは決まって私たちが二人きりの時だけで、私たちが二人きりでいると言うことは、それは全く平和な休憩時間であることを指し示していたからです。それは時に、鳥さえも目覚めていない早朝のことでした。太陽の日差しがまぶしい真昼のことでした。
夕焼けのきらめく夜の入り口のことでもあり、星が歌い出す深夜のことでもありました。数日おきのこともありました。毎日のこともありました。一日に数度であったこともありました。数ヶ月に一度のこともありました。けれど飽きずに忘れずに呆れずに怒らずに、二人きりになるたびに私たちはその言葉を繰り返し続けました。
なぜ、なのでしょう。なぜ、だったのでしょう。なぜ、その言葉でなければいけなかったのでしょう。なぜ、そう繰り返さなければならなかったのでしょう。分かりません。私には分かりません。あの方にも、きっと分からないでしょう。それに理由はなかったのです。強制もなかったのです。
私たちはただぼんやりとして理由をもつ事もなく、その交わらない平行線を悲しみ、確認し、切なく楽しむようにしていたのです。あの日まで。平和が途切れるあの日まで。平和を平和であるとなによりも強くなによりも強く意識し、その意識が消えてなくなることを恐れてしまう、その恐れを振り払う作業を祭りとして成すことが出来なくなる、あの日まで。
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