01 「月の綺麗な夜ですね」
「今晩は」
「……」
「月の綺麗な夜ですね」
「……」
「貴女も、やはりこの月を見に来たのですか?」
「……」
「こんなに美しい月ですもの。もう肌寒い季節を迎えたとはいえ、家の中ではなく、こうして外に立って見上げたいとも思うのはごく自然のことなのかも知れませんね」
「……」
「けれど貴女のその格好は、やはりこうしてゆるやかにとはいえ風が吹く中、月を見上げるには寒々しいようにも思われます。コートを着ませんか? お貸ししますから」
「……」
「美しい月です。風邪をひいて、それを見上げたのを後悔してしまっては惜しいくらいに。今日の月は本当に美しい。だから、どうか……コートを、着てはくださいませんか? もう十年も前になりますか。大乱でその名をはせたコージュ殿とは言え、この寒さでは体を壊してしまう」
「……」
「……やはり、どうして名を知っているのか、とはお聞きにならないのですね。気にならないのでしょうか。それとも、私が貴女を覚えていたように、貴女も私を覚えていてくださったのでしょうか」
「……お久しぶりです。覚えて、いますよ。貴女の姿は、あの埃まみれの戦場であっても、まるでこの月のように美しく輝いていたのを覚えています。忘れることなど、出来ない程に。……本当に、お久しぶりです。お元気でしたでしょうか」
「ああ。嬉しい。ええ、ええ。私はこの十年、とても元気で過ごしていました。それこそ、風邪の一つもひかない程に。これも、コージュ殿とあの方のおかげです」
「……」
「……申し訳ありません。言うべきではありませんでしたね」
「……」
「本当に、申し訳ありません。気分を害されてしまったようであるなら、私はすぐにこの場を立ち去りましょう。……けれど、けれどコージュ殿。どうか」
「……」
「どうか、コートを着てくださいませんか? この時期、私の国はすでに冬の季節に入っているのです。一年の半分以上を、厳しい冬として過ごす私の国は、十月とは言えすでに一部では雪さえも降るのです。貴女のその格好では、夜風にあたり、月を見上げるには厳しすぎる。きっと、風邪をひいてしまうでしょう。酷ければ、肺炎で死ぬかも知れない」
「……」
「お願いです。貴女はだからこそその格好でいるのかも知れない。死にたいからこそこうして月を見上げているのかも知れない。けれど、私はそれを受け入れたくないのです。私の恩人の一人である、貴女には、決して」
「……王女殿下」
「どうか、コートを着てください、コージュ殿。でなければ私は、貴女を残して帰るのに、とてもとても後ろ髪ひかれてしまう。暖かな部屋の中で、一晩貴女を思って過ごすでしょう。この十年、満月のたびそうしたように」
「……」
「……いいえ、責めている訳ではないのです。どうして責めることなど出来ましょうか。それが出来るのは私ではなく、貴女なのですから。貴女の大切な人を、結果的に奪ってしまった私こそ、責められるべき存在」
「……」
「……綺麗な、月ですね」
「……」
「本当は、こんな話をしに来たのではないのです。私、ただ貴女に会いたくて。貴女の姿を見たという者がいたので、それがもし本当であるのなら、貴女は必ずここにいるだろうと思って、会いに来ただけなのです」
「……」
「顔が見られて、よかった。……生きていて、よかった」
「……」
「私、貴女は死んだのだと思っていました。十年前に。月丘つきおか の門を通って死者がよみがえり来る、あの十年前の満月の夜に、貴女は死んでしまったのだと思っていました。あの方が、貴女を連れて行ったのだろうと、思っていました」
「……」
「だって実際、貴女ときたらこの十年、消息も知れないのですもの。昨日、私が貴女を見たという言葉を聞いて、どれ程驚き、どれ程疑ったかなど、貴女には分からないでしょうね」
「……殿下」
「……ごめんなさい。本当に、本当に責めている訳ではないのです。ただ、本当に不思議で」
「……」
「本当に、本当に私は、あの方が十年前の今日の日のような満月の夜に、月丘の見えない門をくぐって死者の国からよみがえり、そして貴女を連れて行ったと思っていたのです。……コージュ殿、どうか教えてくださいませんか? 貴女はなぜ、まだ生きているのです?」
「……」
「責めてはいません。私は、喜んでいるのです。貴女という恩人に、再び生きて出会えたことを。しかしそれと同じくらいに、私は不思議にも思っているのです。ねえ、コージュ殿。あの方は……私の兄は、来たのでしょう?」
「……」
「いいえ、来た筈です。必ず、兄は貴女を迎えに来た筈なのです。月丘の見えない門をくぐり、死者がよみがえり来るこのたった一夜。十年に一度しか訪れない不思議の力を利用して、貴女を迎えに来た筈なのです。兄は、そういう人でした。迎えに来ると言ったのですから、どんな手を使ってでも貴女を迎えに来る、そういう人でした」
「……殿下」
「そうでしょう?」
「……」
「そう、なのでしょう? 今確信しました。貴女のその顔を見て、私には分かってしまった。やはり……やはり兄は来たのですね。十年前の月夜、貴女を迎えに、来たのですね?」
「……はい」
「では、なぜ」
「……」
「なぜ貴女は今、ここにいるのです? 生きた人として、なぜ私の前に立っているのでしょう。……教えてください、コージュ殿。なぜ貴女は、兄と共に月丘の門をくぐらなかったのですか?」
「……」
「迎えに来たのが兄であれば、貴女は必ず兄についていった筈です。差し出された手をしっかりと握って、二人でよりそい歩いてあの月丘の門をくぐる筈です。教えてください、コージュ殿、貴女はなぜ」
「ちがいます」
「……コージュ殿?」
「あの方は、私を迎えに来たのではないのです」
「……そんな。嘘でしょう」
「いいえ、本当です。確かにあの方は、私の前にその姿を現してくださいました。ちょうど十年前、今日のように美しい月明かりの下、あの方は姿を現してくださいました。月丘の見えない門をくぐり、よみがえって来てくださったのです。けれどそれは、迎えなどではなかった」
「……」
「私は、あの方に置いていかれたのです、殿下」
「嘘」
「いいえ。本当です。私が生きているのが、その証拠でしょう? 私は、あの方に」
「もしも生きろと言われたのであれば、貴女はそんな寒々しい格好をしている筈がありません」
「……」
「コージュ殿」
「……」
「コージュ殿」
「……」
「……兄は、貴女になんと言いましたか?」
「……」
「教えてください、コージュ殿。あの方は、なんと……なんと言って、貴女を置いていってしまったのですか?」
「……」
「それは、納得できる言葉だったのでしょうか。私には、とてもそうとは思えません。だって、そうであるのなら、今貴女がこんな所にいる訳がない。人の目には見えない月丘の門、それが開くとされている二本の大きな木の下で、こうして月を見上げているとは思えない。……コージュ殿、教えてください」
「……」
「兄は」
「……」
「私の兄は、貴女に」
「……」
「なんと言ったのですか」
「……」
「なんと……」
「……」
「……教えては、くださいませんか?」
「殿下」
「はい」
「……あの方は、私を迎えに来たのではなかったのです」
「……はい」
「ですから私は、今度こそ間違えず迎えに来られる為に、ここに立っているのです」
「……コージュ殿?」
「殿下、知ってらっしゃるでしょう? あの方は、どこまでも卑怯で自分勝手で意地悪で、そして優しく臆病な人でした」
「……」
「あの時もそうだったのです」
「……」
「十年前、月丘の門をくぐり、あの人が私を迎えによみがえり来たあの一夜。あの方は私を迎えに来きることができなかったのです」
「……」
「ですからそれは迎えではありませんでした。迎えですら、ありませんでした。だから私は今ここにいるのです。共に、門をくぐることが出来なかったから。あの方を追って、月丘の門をくぐることが出来なかったから」
「コージュ、殿」
「お教えいたします、殿下。十年前のあの日、あの夜、この場所で起こった全てを。……けれど今日は月丘の門が開く日。話の途中で、あの方が私を今度こそ、迎えきる為に迎えに来てくださるかも知れません。その場合、私は今度こそためらいなくその手を取り、共に月丘の門をくぐって行くでしょう。それでもよろしいですか?」
「はい。……コージュ殿」
「なんでしょう、殿下」
「長い話、ですね?」
「ええ」
「ではコートを」
「……」
「コートを、着てください。あの人が貴女を迎えに来たその時は、脱ぎ捨ててしまってかまいません。持っていってくださってもいい」
「殿下」
「お願いします、コージュ殿。迎えきる為、あの人がよみがえり門をくぐってくるまでの間でかまいません。風邪を……」
「……」
「門をくぐっていく貴女には、そんな心配はしなくていいのかも知れません。けれど私は、あなたに風邪をひいて欲しくはないのです」
「……」
「コージュ殿」
「……分かりました、殿下」
「……ありがとうございます、コージュ殿」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます