第2話 瞳はシナスタジア
目を閉じればいい。でも、それができない。目を開けば見たくないものが見えてしまう。目は口ほどにものを言う、とはよく言ったものだ。あたしは相手の目を見れば感情がわかる。いや、正確な表現じゃない。感情が”見える”のだ。たとえば、あたしは今同じ会社の女性社員たちと昼ご飯を食べているけど、この人たちはあたしに関心がない。あたしがなにか言ってもほとんど聞いていない。
「そうだね。あたしもそう思う」
試しにうなずいてみる。数人がこちらに目を向けた、黒い穴のような目を。穴のような目は無関心を表している。斜め向かいの子は、血の涙を溜めている。ここにいるのがつらいのだろう。彼女がいじめられ、孤立しているせいだ。
その時、軽く腕を突かれた。横にいる同僚の小山内澄香だ。
「また、見てたでしょ?」
小声でささやかれる。開かれた瞳孔からあたたかい風が吹いてくる。あたしは一瞬、草原にたたずんでいるかのような錯覚に陥る。
「うん。ちょっとね」
そう答えて突き返す。
「なになに? なに話してるの?」
さっき黒い穴だった女の目は、悪食の餓鬼に変わった。涎を垂らしながらこちらの匂いを嗅いでいる。口ぶりは好奇心をよそおっているけど、あたしや澄香のことなんか気にしていない。勝手にふたりで話をされるのが嫌なのだ。嫌悪の餓鬼の目は嫌悪の対象に近づき、さらに嫌悪の元となるものを見つけようとする。そうやって嫌悪を増幅させてゆく。相手にしないのが一番だ。
「なんでもない」
あたしは作り笑顔を見せる。相手はまだなにか言いたそうだったけど、他の子に話しかけられてそちらに目を向けた。あたしと澄香は顔を見合わせてほっとする。
なんとなく周囲を見回してみると、みんなの目が動物園か水族館の生き物のように蠢いていた。あたしは目を見れば相手の感情がわかる。嫌になるくらいにわかる。
もちろんいつもそうというわけじゃない。ふとした拍子に相手の目が感情を表すものに変わる。騙し絵みたいなものだ。ひとつの絵が老女に見えたり、若い女性に見えたりする。あるいは笑っている顔と、怒っている顔に見える。それと同じで頭を切り替えて見ると、それまでただの瞳だったものが、餓鬼や犬やナイフに変わる。そしてそれが相手の気持ちを表している。
いわゆる共感覚=シナスタジアだ。世の中には、音を聴くと色を感じたり、文字に匂いを感じたりする感覚を持つ人がいる。あたしの目もその一種だ。物心ついた時から見えていたけど、はっきり共感覚とわかったのは大学生になってからだ。初めてキスをした時、相手の目があたしを食べようとする紅い獣になっていた。ごうごうと燃えている。
「桐香の目が燃える猛獣になってる」
あたしがそう言うと、桐香は笑った。それからあたしは桐香に食べられ、桐香はあたしの目の秘密を解き明かした。あたしの初めての恋人が、あたしの目に宿る共感覚を教えてくれた。
その夜からあたしは瞳の博物館の住人になった。同じ世界に生きているはずなのに、あたしだけがこの博物館で人の目に宿った感情を見ることができる。感情が形あるもので見えるとわかったことで、生きるのが少し楽になった。相手の気持ちがわかることもそうだが、それ以上にモノとして見ることで落ち着いて認識できるのだ。不思議なのだけど、思わせぶりな態度や遠回しの嫌がらせより、はっきりと見えた方が受け入れやすい。モノとして距離をおいて客観的に見られるからかもしれない。
それに金属製の感情を知ったのもよかった。どんな感情でも極端までゆくと金属になる。行きすぎた憎しみも愛情もナイフや鋏になる。相手の気持ちを感じることがなく、ただ自分の思いを冷たく鋭い金属にして突き刺し、切り裂く。だから金属製の目を見たら避けなければならない。
桐香はあたしが見た最初の鋏だった。つきあって二カ月目の深夜、ふと目が覚めると桐香が鋏の目であたしを見つめていた。その時、あたしは桐香があたしを壊したいのだと悟った。あの鋏であたしの喉を裂き、感情をずたずたに切り裂いて永遠にしたいのだ。底知れない畏れを感じた。桐香に対してではなく、自分自身に対してだ。桐香の冷たく輝く鋏の目を見た時に、あの甘い金属で蹂躙されて死にたいと感じた自分が怖い。
あたしは桐香から逃げた。
鋏を見た時に、気が付いてしまったのだ。あたしは心の奥底で金属製の感情に破滅させられるのを求めていた。男性と付き合えないのはそのせいだ。金属の目を持つ男性には会ったことがない。あたしにとっては容姿や性格や性別すらも関係ない。あたしを死に至らしめる金属がほしかっただけなのだ。
だからあたしは逃げた。それがどれほど甘美でとろけるような快楽だとわかっていても、あたしにはその覚悟がなかった。
それからいろんな女の子とつきあった。何度も彼女たちの瞳が金属に変わるのを見た。ぞくぞくする。でも鋏やナイフの目で見つめられ、愛し合った後にあたしは逃げてしまう。まだ勇気がない。
「なに考えてるの?」
澄香の目がきらっと光った。
「ぼんやりしてた」
その光が金属なら素敵だ。あたしは微笑んだ。
了
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