それでも魔女は毒を飲む

國枝 藍

雑居ビルの一室で

 大通りから一本入ったところにある、飾り気のない雑居ビルの一室は、真昼なのに薄暗い。腰掛けた革のソファーは氷みたいに冷たくて、体温を吸い取られていくようだった。

 この部屋を訪れるのも、もう三、四度目になるだろうか。居心地の悪さは変わらない。

 私は乾いた口の中でひとつ唾を飲み込んで、まとわりつく空気を払うように、小さく咳払いをした。


 控えめなノックの音。

 音もなく入ってきた長身の男の背後で、ドアが軋んだ音をたてる。


 不気味な男だ。初めて会った時、私はぞっとして、しばらく声が出せなくなった。眉毛も鼻筋も頬骨も、輪郭だけがあった彫刻にあとから何か鋭利なもので刻んだように無機質で、長い前髪に隠れている窪んだ目だけが怪しい光を放っている。深く裂けたような口元には、感情のない微笑。圧力がある。見透かされているのだ、と思わされてしまう。


「お久しぶりですね」

「ご無沙汰しております。お忙しいところお時間を頂いてすみません」

「いいえ。お越しくださる方は拒まないのがうちの方針ですから」

「ありがとうございます」

「どうです? それから」

 彼が伏した目を上げると、視線が刃物のように鋭い線を引く。


 ここはとある宗教団体の本部である。とは言っても瀬戸に言わせれば(今、私の目の前にいるのが瀬戸という男で、初めて会った時には、一応教祖です、などと明らかに胡散臭い挨拶をされた)、宗教団体といっても、信者や財源や教義すらもほとんど持たない小さな組織で、活動と呼べるものは何もないらしい。


「相変わらずです。やっぱり週に一度か二度」

「最近見たのはいつですか?」

「昨晩です。夜中の三時くらいに目が覚めました」

「お身体の調子は大丈夫ですか?」

「はい。なんとか」


 瀬戸は、自分の前に置かれたカップに軽く口をつけると、ふっ、と短く息を洩らす。

「では、もう一度話して頂けますか?一からです。今日初めて相談に来たつもりで、何も省略しないで」


 ここに来てから、毎回同じことを繰り返している。私が話して、瀬戸が聞く。ただそれだけ。これで何かが解決するのか、私には甚だ疑問だが、瀬戸に言わせれば、方法はこれしかないらしい。

 私はもう、それを信じるしかないのだ。


「はい、分かりました」

 私が一瞬浮かべた怪訝そうな表情に気付いたのか、

「繰り返し話すことで気付けることも、繰り返し聞くことで気付けることもあると思うので」

 と瀬戸は付け加えた。

「分かりました」

「その前にひとつだけ。初めてここにいらした時に私が言ったことを覚えていますか?」


 それはちょうど半年ほど前、東京の梅雨明けがようやく発表された日のことだった。

 私は数年前から抱えていた「とある問題」にどうしようもなく悩まされていて、仕事や食事、そして何より睡眠、生きるために必要な最低限度の活動にすら支障をきたすようになっていた。

 もっとも、はじめからこの疑わしげな宗教団体を頼った訳ではない。考えられる手を全て尽くした上で、もうここを頼るしか方法がなかったのだ。

 例えば病院でCTやらMRIやらを撮っても、脳には何の異常も見つからなかったし、有名な先生のカウンセリングを受けても、効果は得られなかった。それに、似たような症例がないため治療の方針も立てられず、原因不明、と言って誰もが首を捻るのだった。

 次第に私の「とある問題」は、周囲の心配や同情を買いたくて、私がでっち上げている妄言なのだろうと処理され、様々な場所をたらい回しにされた挙句、行き場をなくした私が最後に辿り着いたのが、この怪しい宗教団体で、瀬戸という男なのだった。


 初めてここを訪れた日、瀬戸は、私の話に一度も口を挟むことなく最後まで聞き終えると、

「なるほど。大丈夫です、疑っていません。本当のことを言っていると分かっていますよ。でも、私はあなたを助けません。というより、助けられないのです。あなたはたぶん、自分で自分を助けなければならない。夢なんて曖昧なものに悩まされているならなおさら。あなたは勝手にここに来て、勝手に私と話をして、勝手に助かっていく。それをきちんと頭に入れて置いてください」

 などと突き放すように言ったのだった。


「はい。覚えています」

「でしたら構いません。どうぞ」

 瀬戸は念押しするように私の目をじっと見ると、細く長い指を顔の前に組んだ。


「その夢を見るようになったのは数年前からです。具体的な日付は覚えていません。私は昔から眠りが浅い子どもで、夢を見ることなんてしょっちゅうだったし、それが悪い夢であることも少なくありませんでした。でもどんな強烈な夢でも、所詮は夢です。朝起きて、朝食を食べて、歯を磨いて、着替えて学校に向かう頃には、もう夢の内容どころか、夢を見たことすら忘れてしまうものだから、何の問題もなかったのです。はじめてその夢を見た時も、またか、と思う程度で、特別気にはしませんでした。でもそこから何度も何度も、同じ夢を見るようになったのです。繰り返し繰り返し。週に一度か二度のペースで。睡眠薬やお酒で無理に深い眠りにつこうとしても、高いお金をかけて病院やカウンセリングに通っても、原因も分からなければ、効果もありませんでした」

「原因も分からなければ、効果もなかった」

 瀬戸が繰り返す。

 瀬戸が私が話している途中に口を挟んできたのは初めてのことで、私は少し驚いた。


「はい。夢というのは、魔女の夢です。魔女が出てくるのです。なぜ魔女だと思うのか、と訊かれると、うまく答えられません。でも確かに魔女なのです。それだけは分かります。痩せていて、今にも折れそうな細い手足をしていて、腰まであるような長い髪をしています。陶器のような白い肌に異様に大きな目と、鉤のように尖った鼻、口元には、私はいつも見ているんだぞ、というような、不気味な笑みを浮かべています。長い夢の中で、私と魔女は何かを話しているような気がします。大切なことを言われているような気がします。でも思い出せない。私はいつも、魔女の言葉を受け取るたびに、今日こそは覚えているぞ、と意気込むのですが、目が覚めると、胸の中のどこをどう探しても、その内容は見当たらないのです。覚えているのはひとつだけ。夢が覚める直前のこと。魔女は、毒を飲むのです。毎回毎回。私の夢に現れるたびに。美しいとは言えない顔がさらに苦しみに歪んで、爪跡に血が滲むほど強く喉を掻きむしって、ぽっかりと開かれた口の端から泡を吹いて、次第に身体が石のように硬直して、すっと血の気が引いていく。私は、やめて、と叫ぶのですが、まるで水の中にでもいるみたいに、声を張り上げているはずの口からは何の音も出ていない。魔女のもとに必死で駆けていくのに、とんでもない強風に押し戻されるようで、少しも前には進めない。私は魔女がゆっくりゆっくり、長い時間をかけて死に飲み込まれていくさまを、ただ見ていることしかできないのです。それは私にとって、ほとんど拷問のようなものです。私は恐ろしい。目の前で魔女の死が繰り返されていくのが。それなのにまるで私はそこにいないみたいに何もできないのが。それから私は、眠ることが怖くなりました。眠ってしまうと、もしかしたら今日もあの夢を見るかもしれない。魔女が現れるかもしれない。毒を飲んで死ぬかもしれない。そう思うと、眠ろうとすること自体が苦痛になるのです。それでも生活と健康のために、なんとかして眠るのですが、極限まで薄められた質の悪い睡眠が長い時間を奪うだけで、何も休まらない。回復しない。そして睡眠がとれないせいで、食欲もわかない。人と会う気もおきない。仕事もおかしくなる。負の連鎖です。もうどうしようもないのです。あの夢に私は蝕まれている。もう助けを求める場所がここしかないのです。魔女はいったい何者ですか? この夢にはどういう意味があるのですか? 私はなぜ急にこんな夢を見るようになってしまったのですか?」


 瀬戸は、一度私の言葉を繰り返しただけで、それ以外は身じろぎひとつせずに私の話を聞き終えると、なるほど、といつものように言った。その顔に相変わらず色はなく、何の感情も読み取れない。


「いくつか質問をします。以前の内容と重なりもあるかもしれませんが、お気になさらず」

「分かりました」

「魔女を見るのは夢の中でだけですか?」

「はい」

「現実に干渉してくることはない? 例えば仕事をしている時や、誰かと会っている時、あるいは一人で食事をとったり、何か趣味をされている時間、そういうタイミングで魔女が現れることはありますか?」

「ありません」

「なるほど。お気を悪くしないでほしいのですが、本当に魔女に心当たりはないのですね?」

「はい」

「なぜ同じ死ぬにしても、魔女は毒を飲んで死ぬのでしょう? 他の方法でもいいように思われるのですが」

「なぜなのでしょう、分かりません」

「魔女の夢を見るようになった時期、あなた自身やあなたの周囲に何か大きな変化はありましたか?」

「いえ、なかったと思います」

 病院の問診のようなテンポで質問が進んでいく。瀬戸はそれを終えると、私の顔をじっと見たまま、そうですか、と独りごとのように呟いた。

 それからゆっくり立ち上がって、壁際に歩いていくと、正方形の形をした窓をわずかに開けて、おもむろに話し始めた。


「私はね、人間は初めから全部を知っているのだと思うのです。全部です、全部。本当にどんなことでも」

「はあ」


「もう少し分かりやすく説明をしましょう。この世界にはまだ答えの見つかっていない問題がたくさんありますね。あるいは答えはあるのに、経験からしてあなたが知り得なかったはずの問題も。フェルマーの最終定理の証明とか、愛とは何かという問いとか、全く聞き覚えのないどこか遠くの国の言語とか、例えばそういうものです。なるほど難しい。確かにあなたは答えられないのでしょう。でも、それらに答えられないのは、知識がないからではなく、ただそれを思い出せないからというだけなのです。言っている意味が分かりますか? 私たちは知っている。どれほどの難問に対する正解も私たちは自身の内側に持っている。前世の記憶が継承されるとか、全人類が知識を共有しているとか、そういうぼんやりとした話ではない。もっと根幹の部分の話です。確かで、深くて、毅然としている部分の話です。この世界に生まれ落ちたその瞬間から、あるいはそのずっと前から、あなたは全てを知っていて、本当はどんな問題に対する答えも真実も用意してある。ただそれを思い出せないだけで。あるいは、思い出そうとしていないだけで」


「どんな問題に対する答えも真実も用意してある」

私が言葉を繰り返すと、瀬戸は、ええ、と相槌をうった。

「ええ。あなた、本当はもうとっくに知っているのでしょう? 魔女がはじめてあなたの前に現れたその日から、彼女が何者で、どこから来て、何が目的なのか。本当は全て知っている。でもそれが、あなたにとって認めたくない何かなのか、過去や未来に不利益を与える内容なのか、あるいはただ単に思い出したくないだけなのか、理由は分かりませんが、あなたは知らない振りをしている。心のどこかで、おそらくあなたの意識にすら上らない巧妙に隠された無意識の領域で、知らない振りをしていたほうが都合がいいのだ、と判断しているのでしょう。本当に厄介です。面倒なことこの上ない。答えが欲しくて欲しくてたまらない、という表情を懸命に顔の上に貼り付けながら、少しも身に覚えがないんだ、一方的に傷つけられている犠牲者なんだ、という可哀想な私、を声高に叫びながら、流れて流れて、こんな果ての場所まで辿り着いておきながら、それでもやっぱりあなた自身が知ることを望んでいないのですから。急に現れた? 心当たりがない? いいえ、そうじゃないでしょう? 甘えちゃいけない。原因はいつも、あなたの中にある。知りたいと願うなら、掌を開いてごらんなさい。答えははじめからそこにありますよ。違いますか?」


 瀬戸の暴力的とも言える言葉を聞きながら、私は不思議な気持ちがしていた。心の一番深い部分にある水面に、ゆっくり、ゆっくり、波紋が広がっていくような。誰にも見つからないように、注意深く隠していた何かまで、まっすぐに線を落とされてしまうような。

 私は、今まで何の感情も見せなかった男が微かに見せた怒りの色に触れながら、ぼんやりとある人のことを思い出していった。


 母は、美しい人だった。強くて、綺麗で、聡明で。全てに恵まれていて、女だったら誰もが憧れざるを得ないような人だった。

 それなのに、いや、だからこそ、なのかもしれないが、ずっと孤独だった。ある種のさみしさに蝕まれていた。友達はいたのだろうか。そんな影は見たことがない。

 ひびの入ったグラスを見つけるたび、私は母みたいだ、と思う。どんなにたくさん注いでも、そこら中に穴が空いているものだから、立ちどころに漏れだしてしまって満たされることがないのだ。いつも渇いていた。


 母は子どもの私から見ても、生きるのがどうしようもなく下手な人だった。常に何かに噛み付いていないと生きていけないような類いの。普通という言葉が何よりも嫌いで、納得できない色に均質に染められてしまうことが許せなくて、思ったことは口に出さずにはいられなかった。

 とにかく損ばかりしていた。上司の不正や社会の差別、この世界にありふれている理不尽に、いちいち反発するものだから、何をやっても、誰といても、どこに住んでも、長続きなどするはずがなかった。


 母がそんなだったから、私の子ども時代は引越しに次ぐ引越しだった。一年以上同じ場所に留まっていた記憶はない。

「ごめんね、由依。またお引越しなの。でも一つの場所にずっといるのって滑稽じゃない。家も、職場も、学校も、この街もさ、何ひとつ私たちが望んだものじゃないんだよ。誰かに命令されて、あるいは選ぶように仕向けられたものだけで。そんな意味のないものだけが狭いところに窮屈にまとまっていて、何もかもがぞっとするような退屈さの延長にあって、油断し切ってて、みんなそろいのお面でもつけてるみたいにぼうっとした顔してさ。洗脳みたいでしょう。可哀想ね。みんな、停滞と惰性の中で何も考えなくて良くなってしまうことが、平和とか安心なんだと思い込んでいるんだよ」

 転職に伴う引越しの度に、母は私にそんなようなことを言って聞かせた。何かの言い訳みたいに。

「ねえ分かるでしょう? 由依にも」

 そして最後にはきまってそう言って、いつも私に同意を求めるのだった。

 血の繋がりをこの世の何よりも信じている人で、それはほとんど依存と言ってしまってよいほどだった。


 私が高校に入った年に、母が死んだ。

 入水心中だった。名も知らない男と。たまたま近所に出入りしていた土木作業員だったこと以外、私は今も何も知らない。知ろうとも思わない。何を知っても意味のないことだと思う。

 思えば、母は常に怯えていた。怖がっていた。得体の知らない何かからずっと逃げ続けていた。

 私は、母はその何かに捕まってしまうことに耐えられなくて、そうなる前に死を選んだのだと思った。つまり、殺されたのだと思った。誰かに、とかそういう単純な話ではなく、もっと大きなものに。間接的に。どれだけ抗おうとしてもそれを許さない、飲み込んでしまう、何か大きな流れのようなものに、母は拒絶され、嫌悪され、殺されたのだ。

 たとえば、社会に。


 近くの貯水池から引き上げられた、母のぶよぶよに膨れた死体は、醜くて、汚くて、とてもあの美しい母だとは思えなかった。

 でも、変わり果てた母の姿は、私の記憶にある生前のどんな姿よりも自由そうに見えた。

 私は、母は逃げきれたのだ、と思ったのだ。何の心配もない、極めて安全な場所に辿り着いたのだ、と。


 日常のどこかに落ちている母の破片に触れるたび、なぜ私を一緒に連れていってくれなかったのだろう、と思う。本当に愛していてくれたのなら、そんな男ではなく私の手を引いて、二人でどこへでも行けたのに、と。

 たとえそれが死であっても、私は別に構わなかった。

 私にとっては、母だけが真実で、清潔で、正解だった。

 魔女の夢を見るようになったのは、母の死からすぐのことだった。


 瀬戸の言葉を聞いて、なぜ母を思い出したのかは分からない。

 外見、仕草、声色、私が夢の中で触れた魔女の、どこをどう切り取っても母の面影は見つけられなかったし、母を連想させるものは何もなかった。

 私は魔女が母であるはずがないと思う。それは私の経験や感覚から来るもので、ほとんど確信と言ってしまってよかった。そしてそれとは少しも矛盾しない不思議な冷静さで、魔女が母であることも知っていた。それもまた、ある種の確信と呼べるものなのだった。


「母かもしれません」

 言葉がぽつりと宙に浮かんだ。

 口に出してはじめて、それはずっと私が思っていたことなのだと感じた。本能的に。

「なぜそう思うのですか?」

「分かりません。うまく言えません」

「でもそう思えるのですね?」

「はい」

「でしたらそれが答えなのでしょう。大切なのは答えの正誤よりも、それが答えだと信じられるという事実ですから」

「でも、まだ分かりません。いったい母は何をしたいのでしょう? なぜ私の夢に現れて、毒を飲むのでしょう?」


 瀬戸は何も答えなかった。

 私も何も言わなかった。

 ほとんど永遠と思われるほどの時間が流れたあと、瀬戸は、やれやれというように頭を掻いて、私は夢占いが専門な訳ではないので、と前置きした。


「私は夢占いが専門な訳ではないので、ここからの話は参考程度です。私はあくまで事実を話すだけです。いいですか?」

「はい」

「魔女狩りってご存知ですか?」

「魔女狩り?」

「ええ。世界史の教科書に載っている、あの魔女狩りです」

「教養程度でしたら」

「結構です。キリスト教徒たちによる魔女狩りが最も激しかった16世紀後半、魔女の疑いをかけられた女たちは、家を捨て、街を離れ、獣すら近づかないような荒廃した山中に一人、毒を飲んだそうです」

「毒を?」

「ええ。それが何のためなのか分かりますか?」

 瀬戸は私の顔を探るように覗いて、ゆっくりと後ろを振り返るような注意深さで、大きく息をついだ。

「最愛の子どもを、魔女の子にしないためですよ」

 撃ち抜かれた気がした。

 瀬戸は続ける。

「魔女、と呼ばれた彼女たちに本当に疑われていたような力があったのかは分かりません。あったとして、その力が何か社会に実際的な仇を成していたのかどうかも。今となっては、どちらも確かめようのないことです。とにかく彼女たちにとって肝心だったのは、死ななければならないという事実だった。彼女たちは社会から拒絶され、嫌悪され、社会によって殺されなければならなかった。死は恐ろしいことです。無実であるならばなおさら。それに、彼女たちは助かろうと思えば助かれた。権力者に縋ったり、団結して戦ったり、全てを捨てて逃げたりする道だってあったはずです。それでも魔女は毒を飲んだ。社会は凶暴です。悪意に満ちています。魔女として処刑された女に子どもがいたらどうでしょう? そんなの袋叩きにされるに決まっています。力のない子どもではとてもじゃないけどその荒波を生きてはいけない。魔女たちは、母として我が子を守るために、その縁すら切り、毒を飲んだのです。私はこんなにもあなたのことを愛しているんだよ、と伝えるために。それから、魔女が毒を飲む、という行為は、死にゆく親が我が子への愛を示す、一種の象徴のようなものなのです」


「私は、愛されていたのでしょうか?」

 かろうじて言えたのは、それだけだった。

「さあ、それはどうでしょう。私は歴史の話をしただけです。あなたの夢とは何の関係もない話かもしれないし、どこかで繋がっている話かもしれないし、あるいは全く同じ話であるかもしれない。でもあなたは、はじめからその答えを知っていたと思いますよ。ただずっと、それを思い出せずにいただけで」


 外に出ると、辺りはもうすっかり暗くなっていた。

 もう来ないでくださいよ、などと軽口を叩く瀬戸に深く頭を下げて、私は駅に向かって歩き出す。

 西の空では、沈みかけた太陽と濃さを増していく星空が藍色のグラデーションをつくっている。

 吐く息が白い。

 東京の街をあてもなくさまよう乾いた風が、私の頬を切っていく。一月の外気は冷たく澄んでいて、耳をすませば聞こえそうなほどだった。

 私は大きく息を吸う。

 肺に潜った清潔な空気に混じって、私の中にあった、何かあたたかなものがゆっくりと溶けて、それから全身に優しく染み渡っていくのを感じた。


 夜はまだ浅い。

 行き交う車はあっという間に視界の端まで行って、赤く滲んだ線を残して消えていく。

 私は、歩道橋の階段を上って、遠くのビルの明かりのひとつひとつに思いを馳せて、微かに見える東京の夜空の星に手を伸ばしてみる。


 それから、魔女は見ていない。

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