弥縫なる悪夢の終わり

 戸の隙間からは、あいつの子どもを見守る母親のような微笑みが見える。

 ゆのねぇを模したあの怪物。今は襲ってくる気配はなかった。だけど、いつ手のひらを返してくるか分かったもんじゃない。

 狭苦しい空間の中、焦りと緊張を抑えつつ、俺は口を開けた。


「……お前と話すことなんてねぇよ」

「あら、ひどい。頼りになるあなたのお姉ちゃん、風見優乃に向かって」


 それを聞いて、熱が体中に込みあげてくるのを感じた。


「ゆのねぇじゃねぇよ、お前は! いや、お前だけじゃない。照も若菜も詩織も鈴も……! 違うんだよ! あんな化け物なんて――」

「一緒よ」


 ぴしゃりと言い切られて、咄嗟に俺は黙ってしまう。

 その時の声音はどこまでも冷たく、夜道に潜む刃物のようだった。


「例え信じられなくても、あの娘たちはあなたの“知ってる”彼女たち。そして、あなたが“知らない”、“知ろうとしなかった”彼女たちなの」

「知ってる、知らない。どっちなんだよ……! それに今と何の関係が」

「ああ、道也くんの大好きなゲームみたいに、チュートリアルもなかったからそう思っちゃうわよね。その辺りのことも話しましょうか」


 なんだろう、的を射ない感じ。俺と話してるようで会話が通じてない。


「まず、これは悪夢よ。謎の屋敷の中で、身近な人達から襲われる悪夢なの」


 それは、寝る前に見たブログ記事にも書かれてたな。

 普通なら受け入れないことだけど……この状況では信じるしかなかった。

 何も反応しなかった俺を見て納得したと思ったのか、あいつは続ける。


「だから、逃げたのは正解よ。今のあの子たちはあなたを殺すから」

「殺すってどういう意味だよ」

「もちろん言葉通りよ。安心して、ここは夢の中だから死なないわ。だけど死ぬほど苦しいでしょうし、何度も繰り返されれば……正常な思考はできなくなるわ。例えば、夢と現実の区別が分からなくなって人を殺しちゃうとか? まあ、道也くんみたいに優しい子なら、そんなことはしないって思ってるけどね?」


 聞いた瞬間、今朝のニュースの映像が頭をよぎった。

 妻と娘をゴルフクラブで殺し、その後も人を襲い続けた男性の話。

 もちろん、この悪夢と直接の関係があるとは分からない。それでも可能性は考えられた。そうだとしたら、俺も同じようになってしまうのか?

 だけど、慣れたのか麻痺したのか、それに恐怖は感じなくなっていた。

 むしろ良い意味で頭が真っ白になっていた。そこから浮かんだのは1つの疑問。


「何で、俺はこんな悪夢を見せられてるんだ……?」

「呪いよ。道也くんだけじゃない、この世界全体への」


 ……呪い? 何を言い出すのかと思えば、呪いだって?


「今の人々は知りたいことしか知ろうとしない。物事の一部、変わらない現在、表面を見ただけで知った気になって、不都合なことがあったら耳を塞ぐ。ありのままに生きるだとか個人主義だとか御題目を唱えて、都合の良い情報だけに触れるだけ。自分や自分のコミュニティを正義として、他を悪と思い込んでしまう。これで多様性だなんて馬鹿みたい。結局、たくさん閉塞的関係が乱造されただけなのに」


 怪物の口から話されたのは、ありとあらゆる意味で狂っていた。

 ……分からない。話が壮大すぎるし、飲み込めない悪意に満ちていて。

 思考が追いつかない俺とは反対に、あいつは淡々と、それで饒舌に語っていく。


「そんな世界じゃ、周りに自分が違うことが知られたら糾弾される。他人に気に入ってもらえなければ孤独になる。そうして人々は知られないように己を隠すようになる。これが終わりのない円舞曲のように繰り返されていく内に――人は、特に孤独だと思っている人は、醜い”怪物”を心の中で育てていく」

「…………」

「だから、これは呪いなの。怪物を生み出すような不安定が生んだ悪夢」


 断片でも知りたくて、少しでも情報が欲しくて、隙間から見る。

 余裕たっぷりの笑み。ますます何を言いたいのか理解できなくなった。


 言ってることは確かにその通りなのかもしれない。

 今の人たちはそういう風に考えているなとは。子どもながら思ったりする。

 だけど、それだけじゃない。そんなのに囚われず、本音で接すること、接することのできる関係だってあるはずだ。全てが全て、そうじゃないはず。


 ……それに。仮に今までのことが本当だとしても。

 こいつに言われてきたことを、素直に納得できるわけがなかった。


「でも、こんなの理不尽じゃねぇか。なんで俺が……!?」


 俺だって、あいつの言ったような奴らの1人かもしれない。

 みんなのことを全部は知らないから、傷つけたこともあったかもしれない。


 だけど、何も考えずに、やろうとしたことは絶対にしなかった。

 そんな俺に、こんな悪夢を見せられても理不尽以外の何物でもない。

 いきなり閉じこめられて、何も知らないのに襲われて。何よりも勝手に俺の大切な人に扮してふざけた真似をされる。


 それを世界が悪い、呪いだから、なんて言われても怒りしか生まれない。

 そんな俺に対して……あいつは肩を竦めると、諭すような物言いをしてきた。


「理不尽だと感じるのは、まさしく知ろうとしてないからよ。だから、あなたは知らなくてはならない。彼女たちの闇、潜む影、閉じた心の内を」


 飛んできたのは、今まで以上に意味不明な発言。

 ……ここまで来ると、怒りよりは呆れとか力が抜ける感覚だった。


「話になってねぇし、わけわかんねぇ」

「あの娘たちに捕まらず、殺されず。だけど怖がらず、逃げ出さず、絶対に自分が潰れず。頑張って、なんとかする。結果として――深淵を覗くことになっても」

「し、深淵ってなんだよ……!」

「それは――」


 あいつが、その言葉の先を言い淀んだ時だった。

 目の前がまばゆい光に染まっていき、それに体が飲まれそうになる。


「あら、もう朝なの。早いわね、夢の中の時間は」


 惜しむような声と一緒に、クローゼットの戸が開いた。


「っ!!?」

「大丈夫よ。でも、明日からはこの部屋に来ないでね」


 人差し指を口元に軽く当てて、ゆのねぇに似た、あいつ。

 いきなりのことで思わず身構えたけど、その意志はなさそうだった。


「色々とひどいことを言ったけれど、私は人の可能性を信じている。そして、道也くんならこの悪夢を変えられると信じてるわ」


 “頑張ってね、道也くん”


 次に聞こえたのは、考えもしなかった、こいつからの言葉。

 その姿は……お昼の時に見たゆのねぇのものと重なって見えた。


「だから全力で生き抜いてね。あと電気は消しなさい。次は無いからね?」


 そして、腑に落ちない応援と、意味不明なアドバイスを受けて。

 ――こうして、謎に満ちまくったこの悪夢はひとまずの終わりを告げた。

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