好転?

『――見つけた』


 まるで血の涙を流したかのようにドス黒く濁った瞳が俺を映す。

 思わず床の方を見ると、あのぬいぐるみが俺を見ながら笑っていた。

 しまった、アイツの罠だったのかよ! こんなのありかよ! ちくしょう!!

 だけど、今の状態のままでいれば殺されてしまう。目の前の影が足を踏み出そうとした瞬間、俺は身を翻して駆け出していた。


『逃げるの、あたしから?』


 俺の後ろから聞こえた、心あらずといった呟き。

 その時の声の音やトーン。それは紛れもなく詩織のものに思えて。

 おかしいと感じていても、どこか後ろ髪を引かれる感傷が俺を襲った。


『信じてたのに、裏切らないと思ってたのに。あなたが裏切るから……!』

「……えっ?」


 だけど、様子がおかしい。だんだんと殺意を感じるようになって。


『やっと裏切らない人が見つかったのに。やっと信じられる人が見つかったのに。やっと誰かを信じられるようになったと思ったのにィィィっ!!!』


 そして、次に聞こえたのは絶叫。走る足に一層力が入った。 

 ……何を言ってんだよ、アイツは。裏切らないってなんだよ、信じられるってなんだよ! あれは、俺に、何を求めてるんだよ!!


『あなたが裏切るからっ!! あなたが裏切るからぁぁぁっっ!!!』


 やばい。とにかく、こいつはやばすぎる! とにかく逃げないと――


『あっちから大きな音……あっ! やっぱり道也だ! おーい!!』


 した時に、通路の向こうに照と若菜の姿を見つけた。

 目に入った時には、俺のすぐ近くにまで迫って来ていた。

 ……まずい。距離から見ると、このままだと鉢合わせになるんじゃ!?


『きゃあ!!』

『だ、大丈夫!? なーちゃん!!?』


 そんな時、料理を持っていた怪物が何もない場所で転びそうになった。

 完全に転びはしなかったけど、その足は一度止まった。もう片方の怪物はそれを見て、心配したのか傍に駆け寄っていた。

 ……今の光景は、調理部で度々見た2人の光景に重なった、けれど。


 とにかく、その隙に唯一の逃げ道の中央階段を3階へ駆け上がっていく。

 焦っていたから、無意識レベルの反射行為だった。1階の方が、開かないとはいえ出口らしきものがあって、一度来たこともあるから良かった気はした。

 そんな後悔はしたけど、今更戻ることは不可能。振り返れば、すでに怪物は階段に足を付けている。そんなことをしたら絶対に捕まってしまう。

 今は余計なことは考えず、こいつらから逃げられる場所を探すだけだ!


(……だけど、どこに逃げりゃ良いんだ?)


 とはいっても、行く先なんて分からない。

 そんな時、俺の目に飛び込んできたのは……他の部屋より豪華な扉。

 自分の背丈よりも大きく見えるその扉を開けてから、あることに気づいた。

 さっき見た監視カメラの映像によると、3階でこれくらの大部屋は1つしかなかった。そして、1つしかないその部屋に居たのは――


「道也くん。私のところに来てくれるなんて、嬉しいわ」

「……ゆ、ゆのねぇ」

「怖がらないで。落ち着いてね。慌てても、しょうがないわ」


 そうだ、ゆのねぇがいたじゃないか。いや、こいつは違う!

 しかし、そんなことを気にしてる暇じゃない。この状況、どうすれば良い?

 考えようとするが、まったく思いつかない。早く、後ろからあの3人が迫っているのに。早く、どうにかしないといけないのに。

 だけど、当のあいつは……焦る俺を宥めるように部屋の隅を指で示してきた。


「ここ、人が隠れられる大きさのクローゼットがあるわ」

「……はぁ?」

「大丈夫よ。“今日は”逃げられる。若菜ちゃんも私が言ったら誤魔化せるわ」


 何を言っているんだ? こいつらは俺を殺そうとしてるんだろ?

 訳がわからないし、疑いしかない。だが、後ろにはあいつらが迫っている。

 背に腹は代えられない。言われた通りにクローゼットの中へと入った。

 中には何もなくて、俺でもすんなり隠れられるくらいのスペースがあった。


「良い子よ。道也くんはやっぱりお利口さんね」

「……うるせぇよ」

「あらあら。気持ちはわかるけど、落ち着いてね?」


 扉の隙間から微かに見える、あいつの柔らかな笑み。物言い。

 その口調や振る舞いは、いちいちゆのねぇに似てて腹立たしくなる。

 だけど、確かにあいつの言う通りだ。今は信用して、息を潜めるしかない。


『ゆのねぇ! 道也を見なかった!?』


 突如、俺が半開きにしていた扉が完全に開かれる音が聞こえた。

 その勢いは壊れるんじゃないかと思うほど。あいつらの執念を感じる。


『優乃先輩よ、照ちゃん。それで道也くんなんだけど……』


 こいつは何を言い出すんだ。心臓が壊れそうなほど動きを始める。

 どくん、どくん。呼吸の音が何回か続いた後で、次の言葉が聞こえた。


『一度はこの部屋に来たんだけど、すぐに逃げられちゃったわ』

『ほ、本当、なんでしょうか、生徒会長さん……?』

『嘘を言ってもしょうがないでしょう。そもそもあの子だって馬鹿じゃないの。私を見た瞬間、どこかに行っちゃうに決まってるじゃない』

『そ、それは、そうですけど』

『まだ3階からは逃げてなさそうよ。別の部屋』

『そうなんだ! ありがと、ゆのねぇ! 行くよ! なーちゃん、吉永さん!』

『……わ、わかったけど』

『待ってください、照先輩ぃ~』


 どうやら、あいつらの会話が終わったようだ。

 3人の去っていく足跡が聞こえると、それは次第に音が小さくなった。


「……はぁ」


 張り詰めていた体の力が一気に抜ける。とりあえず助かったようだ。

 もう、なんか疲れた。夢が覚めるまで、ずっとここに――


「さて、すぐに帰るのもあれなわけだし、ちょっとお話をしましょうか」


 ――と、思いきや。この悪夢はまだ終わらなさそうだった。

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