第5話 ミトメ
はじめてそれを体験した時、
保子(やすこ)は驚きのあまり、声を発することも出来なかった。
いや、実際の所、声を発せなかった。というのもあるのだが。
はじめてのそれは、高校生の時だった。
当時付き合っていた、同級生の男子、大和(やまと)くんと自転車に乗って、
保子達の住む街から少し離れた場所にある海辺の遊園地へ
デートに出かけた日のことだった。
とにかく、はじめての彼氏だったこともあり、
その日は一日中、空気の粒が弾けて二人のまわりで
光を放っているように感じられるぐらい楽しかった。
楽しい時間はたいてい早く過ぎていくもので、
最後に二人で観覧車に乗ってから帰ろうと保子が言い出し、
乗ることになった。
二人で横になって座り、手を重ね、
眼下のどこまでも続く海の景色に感動した。
言葉は要らなかった。
沈みゆく夕焼けが創りだす幻想的な赤ともオレンジともとれる光が
観覧車内をまるで愛情が埋め尽くしているようにキレイに飾りつけた。
幸せをいっぱいに感じたその時、
保子は思ったのだ。
この時間がいつまでも続けばいい。
できることなら時間よ止まって。
と。
きっと誰しも、経験があるであろうその瞬間の訪れを、
誰もが思うように感じ、願いを込めただけだったのだが、
保子の場合は、結果が違った。
願った直後は何が起こったのか、しばらく理解ができずにいた。
観覧車の窓越しに見える景色には、
進むこと無くその場で浮き続けている鳥の姿が見えた。
えっ!?
と思い、声を上げそうになったのだが、声は出ず、
大和くんの方を振り向こうと思ったのだが、体が動かない。
音は何も聞こえず、ただただ静かで、
何も起こらない空間に閉じ込められたかのようだ。
時間が止まってしまった…。
どういう原理かは分からないが、
まわりがそうであるように保子自身も止まっていたのだが、
保子が時間を止めた当事者であるからなのか、
視覚と思考だけは時を刻んでいた。
視覚が機能していると言っても、
目を動かせるわけではなかったので、
瞬きもできず、ただ、見えているものが見えているだけだった。
つまり、この時は宙に浮かぶ鳥と空と遠くまで続く海が見えているだけ。
それに反し、思考は自由だった。
止まった時間の中、思考を許されていることで、
自分だけが老いていくのかもしれないなとも思ったが、
結局のところ、その時は分からずじまいに終わった。
(今もわからないのだが。)
とにかくこの状況をなんとかしなくちゃ。
と思うのだが、体の自由が効かないこともあって、
どうにも出来ず、ただただ恐怖心がこみ上げてくるだけだった。
ほんと、ヤバイ。
これ、死ぬまでこのままなの?
イヤ、そもそも死ぬの?
最悪、永遠とこのままかも。
ちょ、ホントにやばいって。
時間が経過する?に伴って恐怖心はより一層増してやってくる。
もぉー!動いてよ!!!!!
と思った瞬間、
「また、一緒に来ようね。」
と大和の声が聞こえた。
保子は大和に抱きつき、その日一番の喜びを表した。
あの日から、保子は時間を自由に止めたり、
動かしたりすることができるようになった。
25歳になった今でも、あの日と同じように、
止まった時の中で自由に動くことはできないので、
何か考える時間がほしい時に使ったり、
はじめてお会いするお客様の名刺の名前を打ち合わせ中に忘れないように
時間を掛けて覚えたりする時などに使っている。
最近見つけたお気に入りの使い方は、
テレビのショッピング番組の電話番号や年末の宝くじの抽選番号など、
一時的に表示されて消える情報を覚える時に使うことだ。
もしかしたら、止めた時間の中で睡眠がとれるのでは?
と試したこともあったが、なぜか目を閉じていると時間を止めることが出来ず、
かと言って目を開けたままでは眠ることもできず、
卓越した兵士がそれをしていると聞いたことはあったが、
私には無理だわ。とすぐに諦めた。
おっと、もうこんな時間か、
トイレに座っていた保子は、スマホで時間を確認すると、
胸のポケットにスマホをしまい、
もう会社に向かう時間だとトイレから出るべく、
一式の動作を行って立ち上がった。
保子の家のトイレは水を流すとタンクの上部から流水がはじまるので、
その水で手を洗う仕組みだった。
手を洗い、拭くためのハンカチをパンツのポケットから取り出した時に、
一緒に入っていたポケットティッシュが飛び出して床に落ちてしまった。
あぁ、昨日昼頃に道でもらったやつをポケットに入れたままだったわ。
ポケットティッシュを拾おうとかがんだその時、
するりと胸ポケットからスマホが飛び出し、
まさかの便座に向けて落下をはじめた。
ちょ!ちょっとまって!
と保子が思うと、時間が止まった。
スマホは今にも着水せんばかりの状態で止まっている。
きっと時間を動かせばすぐに浸かってしまうだろう。
もう!!
どうしろっていうのよ!
しばらく考えていた保子だが、
いいアイデアが浮かばないまま、
時間を動かすことにした。
ポチャン!
おしまい。
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