午前三時の小さな冒険

森れお

午前三時の小さな冒険

 海の底みたいに静かな真夜中、つかさの顔がスマホの画面の光に照されて、青く浮かび上がっている。

 司は寝転びながら、『田中さん』と書かれたアイコンのアプリをじっと見つめていた。


 このアプリは見知らぬ誰かと会話出来るアプリである。

 なかなか眠れなかった司は、次第に寂しさや不安に駆られて誰かと喋りたいと強く思い、存在を知っていたこのアプリを勢いでダウンロードした。

 しかし、結局見知らぬ誰かと繋がるのが怖くて接続出来ずにいる。すでに午前三時になっていた。


 意を決して『田中さん』をクリックする。広告が表示され、それを閉じると『ビデオ通話をする』『電話をする』というボタンが表示された。

 指先が冷たくなり、心音が早くなる。『電話をする』というボタンを押してみた。二回鳴ったあと繋がる。


「……」


『……』


 司は相手の応答を待ち切れず、「もしもし」とかすれた声を掛けた。一人言以外の声を出すのは一週間ぶりである。 


『こんばんは……』


 返ってきたのは若い男の声だ。よく通る、ミュージカル歌手のような声をしている。

 さて、繋がったはいいが、何を話すかまで考えていなかった。

 司はベッドから起き上がると、そわそわと真っ暗な部屋の中を歩き回る。


「こんばんは。えぇっと、今何されてたんですか?」


『振られた彼女に復縁して欲しいってライン送ってました』


「こんな時間にですか」


『んーっ、そうっすよねー……こんなだかれ振られるんだわ……』


 男は酔っているのか、最後呂律が怪しかった。


「なんで、振られちゃったんですか?」


『聞いちゃいます?それ』


「あ、言いたくなければ別に」


『いや、聞いてください』


 ちょっと面倒な人だなぁと思ったが、司は見知らぬ相手の恋愛話に興味もあった。

 

 振られた理由は、ここ数ヵ月彼女の事を疎かにしていたからだと言う。


『彼女に浮気を疑われましてね。それは誤解だと分かって貰えたんですけど、彼女の気持ちは戻らないほど離れてしまったみたいなんです』


「どうして彼女のこと放っておいたんですか?」


『転職に有利な資格を取ろうと勉強してたんですよ。彼女との結婚を考えてまして……給料アップして、楽な生活をさせてあげたくて。今同じ職場なんですけど、なかなかの激務でしてね……彼女が辞めても生活出来るぐらい稼ぎたいな、と』


「それで離れていったらもとも子もないですねー……」


『そうなんですよぉ』


 彼がその場で頭を抱え込むのが目に見えるようだった。

 それから随分と二人は話したが、空が白みかけたのをキッカケにして話は収束していった。


『愚痴愚痴言ってすいませんでした。最後に下の名前だけでも聞いていいですか?僕はたける


「司です」


『えっ』


「なんです?」


『彼女の名前も司です』


「珍しいですね、女性で司って。私もですけど」


『ねー、驚きました……はは。実はね、声とか口調とかも似てるなって思ってました、彼女に。では、色々聞いてもらってありがとうございました』


 そのまま、偶然の出会いは終了した。


「ちょっと面倒臭そうだけど、優しそうな人だったな……何より声が良かったわ。あー、私もあんなに思ってくれる彼氏ほしーっ」

  

 司は背伸びしたままベッドへ倒れ込んだ。


 翌日、司が会社へ出勤すると、見知らぬ若い男性が自分の席の隣に座っていた。彼は司に気付くと、立ち上がって「おはようございます」と爽やな笑顔で挨拶をした。

 聞き覚えのある声だった。先日、電話で話した見知らぬ彼と非常に似ている気がした。


白石尊しらいしたけるです。今日から配属になりました。よろしくお願いします」


 驚いた。名前まで合致している。まさか、と思いつつ、好奇心を抑えられず聞いてしまう。


「おはようございます、笹野司ささのつかさです……あの、先日『田中さん』してました?」


「田中さん?してる?何のことですか?」

 

 尊は不思議な顔をする。とぼけているのではなさそうだ。恥ずかしくなって顔が熱くなる。


「あっ、いえ、なんでもないです。私の気のせいでした」


 そういえば、と司は思い出した。

 見知らぬ尊は、振られた彼女と隣の席で仲良くなったと言っていた。


「司さんて呼ばれてるんですよね?僕も呼んでいいですか」


 尊は人懐っこい笑みを浮かべた。

 

「どうぞー」


 司は笑って答えた。


(了)



 



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