午前三時の小さな冒険
森れお
午前三時の小さな冒険
海の底みたいに静かな真夜中、
司は寝転びながら、『田中さん』と書かれたアイコンのアプリをじっと見つめていた。
このアプリは見知らぬ誰かと会話出来るアプリである。
なかなか眠れなかった司は、次第に寂しさや不安に駆られて誰かと喋りたいと強く思い、存在を知っていたこのアプリを勢いでダウンロードした。
しかし、結局見知らぬ誰かと繋がるのが怖くて接続出来ずにいる。すでに午前三時になっていた。
意を決して『田中さん』をクリックする。広告が表示され、それを閉じると『ビデオ通話をする』『電話をする』というボタンが表示された。
指先が冷たくなり、心音が早くなる。『電話をする』というボタンを押してみた。二回鳴ったあと繋がる。
「……」
『……』
司は相手の応答を待ち切れず、「もしもし」と
『こんばんは……』
返ってきたのは若い男の声だ。よく通る、ミュージカル歌手のような声をしている。
さて、繋がったはいいが、何を話すかまで考えていなかった。
司はベッドから起き上がると、そわそわと真っ暗な部屋の中を歩き回る。
「こんばんは。えぇっと、今何されてたんですか?」
『振られた彼女に復縁して欲しいってライン送ってました』
「こんな時間にですか」
『んーっ、そうっすよねー……こんなだかれ振られるんだわ……』
男は酔っているのか、最後呂律が怪しかった。
「なんで、振られちゃったんですか?」
『聞いちゃいます?それ』
「あ、言いたくなければ別に」
『いや、聞いてください』
ちょっと面倒な人だなぁと思ったが、司は見知らぬ相手の恋愛話に興味もあった。
振られた理由は、ここ数ヵ月彼女の事を疎かにしていたからだと言う。
『彼女に浮気を疑われましてね。それは誤解だと分かって貰えたんですけど、彼女の気持ちは戻らないほど離れてしまったみたいなんです』
「どうして彼女のこと放っておいたんですか?」
『転職に有利な資格を取ろうと勉強してたんですよ。彼女との結婚を考えてまして……給料アップして、楽な生活をさせてあげたくて。今同じ職場なんですけど、なかなかの激務でしてね……彼女が辞めても生活出来るぐらい稼ぎたいな、と』
「それで離れていったらもとも子もないですねー……」
『そうなんですよぉ』
彼がその場で頭を抱え込むのが目に見えるようだった。
それから随分と二人は話したが、空が白みかけたのをキッカケにして話は収束していった。
『愚痴愚痴言ってすいませんでした。最後に下の名前だけでも聞いていいですか?僕は
「司です」
『えっ』
「なんです?」
『彼女の名前も司です』
「珍しいですね、女性で司って。私もですけど」
『ねー、驚きました……はは。実はね、声とか口調とかも似てるなって思ってました、彼女に。では、色々聞いてもらってありがとうございました』
そのまま、偶然の出会いは終了した。
「ちょっと面倒臭そうだけど、優しそうな人だったな……何より声が良かったわ。あー、私もあんなに思ってくれる彼氏ほしーっ」
司は背伸びしたままベッドへ倒れ込んだ。
翌日、司が会社へ出勤すると、見知らぬ若い男性が自分の席の隣に座っていた。彼は司に気付くと、立ち上がって「おはようございます」と爽やな笑顔で挨拶をした。
聞き覚えのある声だった。先日、電話で話した見知らぬ彼と非常に似ている気がした。
「
驚いた。名前まで合致している。まさか、と思いつつ、好奇心を抑えられず聞いてしまう。
「おはようございます、
「田中さん?してる?何のことですか?」
尊は不思議な顔をする。とぼけているのではなさそうだ。恥ずかしくなって顔が熱くなる。
「あっ、いえ、なんでもないです。私の気のせいでした」
そういえば、と司は思い出した。
見知らぬ尊は、振られた彼女と隣の席で仲良くなったと言っていた。
「司さんて呼ばれてるんですよね?僕も呼んでいいですか」
尊は人懐っこい笑みを浮かべた。
「どうぞー」
司は笑って答えた。
(了)
午前三時の小さな冒険 森れお @mori-leo
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