オーシャンビュー

詩鳥シン

第1話 海の妖精。

 気が付くと私は海にいた。


 いつもは暇なとき河川敷を自転車で下る。私の趣味というと少し悲しくなるが、そうしていると気持ちが安らぐ。そして今日はいつの間にか河口までやってきていた。最近は距離も伸びていると感じていたがここまで来てしまうとは。自分に驚きだ。


 ここは冬に行われるマラソンのルートだった。また冬にここに来るとなると寒さに凍えるが、今は春。明後日からは学校。波風がまだ心地よい。


 せっかくここまで来たのだから、思いっきり羽を伸ばそう。コンクリートの敷かれた道は少しの雑草があるだけであとは白く乾いていた。貝殻も落ちている。ここまで波が来る、ということは無いだろう。カモメかな。遠くに見える鳥が運んできたのかもしれない。


 堤防の端に腰掛ける。足は堂々と海に出す。水はまだ五十センチほど下に存在し届かない。波の音が耳に流れ、波風が肌をなでる。


 海面はゆったりと流れそのまま川に直結する。ここでどこから海でどこからが川かなんて質問されてもわからないだろうな。カモがいる。カモが数羽浮いていた。ここは川かな。鼻には磯のにおい。やはり海だろうか。


 微妙に難解な問いに頭をひねる。そしてそのままはるか遠くに存在する水平線を眺めた。


 海とは近くで見るとよく動くが、遠くの水平線は真一文字に伸びていた。ここでのさざ波も遠くの水平線も続いているのに、視点を主観的に持つと静けさと騒々しさのコントラストに魅せられた。


 こうして一人、物思いにふけるというのか、ぼーっとしているというのか、していると、この先のことも考えなくなる。


 気楽だ。私はこのまま海に浮いていたい。静かで躍動的で生物の原点に還る、そうすると、何故だか少し愉快に感じる。心の高鳴り。そう言うものを感じられた。


 じりじり。


 太陽が少ししつこく感じる。まるで海でなく、俺を見ろと言わんばかりに。見たら目が灼けてしまうだろう。でも、太陽がそこにいるなと感じることはできる。暖かく、生きている。


 ふと海面を見る。ただ何となくそうしたかった。だが、ここで得体のしれないものを目にする。


「ん?」


「ぶくぶくぶくぶく。」


 目がある。二つの大きな目が海からこちらを見ている。堤防と海面には一メートルの高さがあり、私の座高も考慮し一メートル五十センチ強。その高さで目が合う。


 一瞬魚かなと思った。もちろん現実逃避だ。でもその目はちゃんと正面に存在し、真ん中に眉間、二つの目の上には細い眉と、濡れた髪があった。


 頭半分が海から出ている。ちょっとしたホラーだった。


 その頭はスクっと伸びた。いや正確には浮き上がったのだろう。首元までが海面に姿を現す。海底はもっと低いところにあると思う。なのに浮き上がった顔は首元まで出ていた。立ち泳ぎというやつだろう。


 顔は女の子だった。小さな口元も海面に出てきて、表情はきょとんとしていた。そしてとても可愛らしかった。まるで作り物であるかのような容姿はどんな表情にも対応していると思わせた。顔も少し濡れていた。


「あなた、誰?」


 きれいな声だった。されどちゃんと聞かないと流れていきそうな声の芯の弱い声だった。


「え、と。」


 私の唇は震えている。現状を理解していないようだ。頭は追いついて身体だけが踏みとどまっている。動こうとしない。


 落ち着こう。私は深呼吸をした。目を閉じ、潮風を思いきり肺に流す。少し気持ち悪い。


 目を開く。少女がいない。


「え?」


 海面に存在したはずの頭がなくなっていた。


「あなた、誰?」


 驚愕、そして悪寒。私の後ろから聞こえる声は先ほどの少女のものだった。危うく自分が海に落ち、立場逆転も起こり得る状況だった。


 振り返る。立っていた。全身濡れた少女だった。制服を着ていた。明後日私が登校する学校の。濡れて、下着が透けていた。白。


 少し紅潮。ではなく、青ざめる。ようなそうでないような、顔が紫色になっていないか不安になる。


「葵。牧葵。」


 心の動揺と正反対に私は少女の問いに答えた。ちゃんと声も出た。それは相手が人間だと理解した安堵からの結果だった。


「あお、い。」


 私の名前を復唱する。私と同い年だろうか。きれいだ。そう思った。


「あなたは?」


 私はそう口にした。名前を知りたかったのか、聞いたのだからこちらにも教えてという単なる生理的返答だったのかは分からない。


「わたしは…………ウミ。」


「ウミ?」


「うん、ウミ。」


 名前はウミだそうだ。海に浮かんでいた少女の名前がウミ。不思議としっくりくる。別に自己紹介のために海にいたわけではないだろうが。では何故。


「ウミちゃんはなんで海にいたの?」


「……好きだから。」


「そう、なんだ。」


「うん。」


 返しになっていない。海が好きだから海に浮かんでいました、なんて言われても春の海だし。落ちたとしか考えられない。


「葵はなんで海にいるの?」


「私?」


「うん。」


「なんとなく、というか、暇だったから。」


 自分で暇人ですと告白している。悲しいな。でも事実だからな。うん。


 ウミは静かに私の隣に来ていた。いつの間にか服も乾いていた。早い。


 二人で堤防に腰掛ける女子高生とは何なのか。でもまだ、女子高生になってはいないから、セーフだ。たぶん。なにがだ。


「わたし、明後日、高校生になる。」


「私もだよ。同じ学校ね。」


 ウミの話題は同じ年齢であることを明かしていた。


「同じクラスになれるかな?」


「わからない。」


 ウミはそう言い、遠くを眺めていた。きれいな横顔だ。感心する。適度に潤いを持っていた。海に入っていたからか? でももう髪も乾いている。早い。


 同じクラスになれるかな? 初対面の相手にこんな質問をしたことは無い。そりゃそうだ。でも、なんとなくウミとは初めてあった気がしない。どこかの小説の文をそのまま引用している私は海に不思議な感覚を持っていた。そして彼女にも。


 不思議な子だな。


 出会いが、海に浮かぶ頭であった。どうやってあがったのかもわからない。でも知らないでもいいと、心のどこかがそうささやいているように感じた。


「帰る。」


 ウミは呟く。


「そう。」


 さっき会ったばっかりだというのに。ウミはそういうとこはさばさばしているのかな。


「明日もここにいるわ。」


「なら来てみようかな。」


「待ってる。」


 ウミからの招待を受け入れ、私は立ち上がった。後ろにおいて置いた自転車に近づく。潮風に触れて錆びたりするのかな。帰って拭こう。なんとなくそう思った。


 背後でぼちゃんと石の落ちるような小さな音を聞いた。


 振り返ると、誰もいなくなった堤防が沈黙を貫いていた。


 ウミは帰ったのだろうか。どうやって。海に飛び込んだのだろうか。まさか。でも出会いがあれだった。


「ま、いいか。」


 明日聞けばいい。そのための約束かもしれない。


 自転車にまたがり、こぎ始める。潮風が背中を押してくれた。体が軽く、海が私を送り出す。




 ――高校生活の二日前。私はウミという一人の少女と出会った。

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