第10話
「デッドリィーキーック」
俺は出し過ぎて枯れ果てた声で必殺技の名を叫ぶと、兼定達以外では最後の一機となっていた敵のジュゲムを倒した。
「これで後はあの二機だけですね。刀の刃がもうぼろぼろです。これでは新しいのを買わないと駄目かも知れません」
俺の隣には出会った頃のように猫の着ぐるみに身を包んでいる猫服先輩が散々にジュゲムを斬った日本刀を左右の手に一本ずつ持って立っていた。
「先輩。いつの間にその格好になったのです? それに、その着ぐるみ滅茶苦茶じゃないですか。なんなのですかそれ?」
猫服先輩の来ている着ぐるみはただの着ぐるみではなかった。装甲、機動力、力などがジュゲムに匹敵するほどの性能を持った着ぐるみ? だった。
「これは愛する人があまりに強大だった時の為に作ってあった物です。着ぐるみのあちこちに改造を施してあって私が携帯電話を使って呼ぶと私の所まで来るようにもなってるんです。まさかこれを実際に使うとは思ってませんでした」
愛する人が強大って。前提がおかしいよな? しかも、電話で呼ぶと来るって。はっ。いかん。いやいやいや、あれだ。実に猫服先輩らしくってスバラシイ。
「最後がカタカナになってますよ? ごまかしましたね?」
「先輩。見ないで下さいって言っているじゃないですか」
「またそれですか。見えちゃうんだからしょうがないじゃないですか。そんな事より、どうするんです?」
猫服先輩が言葉の途中から急に不機嫌になると片手を上げ持っている日本刀の切っ先を兼定達の方に向けた。
「やっぱり錫を助けるのは駄目ですか?」
「約束の為に助けたいんですか?」
猫服先輩がもう片方の手に持っている日本刀の切っ先を俺の方に向けて来た。先の戦闘中に俺は子供の頃に錫としたある約束の事を思い出していた。そして、それは頭の上に文字となって出ていたので俺の姿を見ていた誰もがその内容を知っていた。
「なんというか、約束を果たす事を凄く期待されている気がするのですが」
俺はやらなければしょうがないという空気を作り出してみよう思いそう言ってから顔を動かして俺達の事を遠くから熱心に見ている生徒達の方を見た。
「空気とかには負けませんよ。それに、私は全然期待してないですよ。途中までは颯太君の為に戦っていて凄く楽しかったんですけど、颯太君の頭の上に妹さんとの昔の約束の事が浮かんで来てからはなんだかさっぱりでした」
猫服先輩が責めるような目を俺に向けて来た。もう。頭の上の文字本当に最悪。
「そんな顔をしないで下さい。約束の事などは俺としてはどうでもいい事なのです。ただ、あんな昔の約束をずっと憶えていて、それを俺に思い出せる為に錫がいろいろしていたと思うと少しくらい付き合ってやってもいいかなっと思うのです」
「颯太君は冷たいですね」
「先輩だって十何年も会っていなかった妹がいきなり出て来たら俺みたいなりますよ。あいつの方は俺の事をあれやこれやと考えていたのかも知れないが俺は全然あいつの事を考えていなかったのですから」
「でも、約束を果たす為に助けたいんですよね?」
俺は錫の乗るジュゲムの方に顔を向けた。
「どうせ頭の上に出ると思うので包み隠さず言いますが、これに乗って思い切り馬鹿みたいに暴れて昔の、ずっと忘れていた、錫との約束の事を思い出したら、なんだか俺はこのままでいいのかななんて思ってしまったのです」
「颯太君の言ってる事はよく分かりません」
「恥ずかしい事を言っているのでよく分からなくっていいです。とりあえず兄らしい事を今はしてやろうかなと思っていたりするのです。ですから」
「行くんですね?」
猫服先輩がすすっと俺から離れると両足を前後に大きく開いてから腰を落とし体を俺に対して斜めにし両腕を前後に大きく伸ばした。
「それは?」
「私の考えた二刀流の構えです」
あ。これまずい奴だな。 行くのなら私を倒してから行って下さいとか言われそうな気がする。
「もう。なんでそんな事思っちゃうんですか? 言う事なくなっちゃったじゃないですか」
猫服先輩がぷりぷりと怒った。
「先輩。今までの俺ならここでうひーとか言って逃げていましたが、今回は逃げませんよ。今の俺にはこの必殺技機能付きジュゲムがあるのです。先輩にだって負けはしません」
「颯太君のそんな姿にちょっと幻滅です。小物っぽくって格好悪いです。でも、妹さんは助けさせません。私は颯太君の事を愛してますから」
猫服先輩の瞳に殺気が漲る。俺は来ると思うと息を大きく吸い込んだ。
「私の為にもう一度死んで下さい。すぐに私も後を追いますから」
猫服先輩が猫服先輩なりの愛の言葉を叫びながら斬りかかって来た。
「デッドリィィィィーパアァァァーンチ」
俺は渾身の力を込めて吠えるように叫び声を上げた。上げたのだが、俺の喉はここに来て限界を超えてしまったらしかった。
「音声認識ができませんでした。もう一度はっきりとした声と口調で入力して下さい」
JSがしれっと無情に告げた。俺はそんなあと情けない声を漏らしつつ涙目になりながらもう一度叫ぼうとしたが、猫服先輩の振るう二本の日本刀がジュゲムのボディを切り裂く方が早かった。
「ぎゃああああ。やられたあああ」
俺は断末魔の叫びを上げた。
「颯太君。外に出て下さい」
へ? あらら? なんだこれ? 俺はまだ生きているのか? 俺は自分の体が斬られていない事に気が付くと断末魔の叫びを上げた事にかなりの恥ずかしさを覚えながら切り裂かれたジュゲムのボディの隙間から外に出て地面の上に降りた。
「先輩。あのー、これはどういう事ですか? まさか俺を殺さない事にしたとかですか?」
俺は俺が錫のやっている事に付き合ってやろうかななんて思ったように猫服先輩にも何かしらの心境の変化があったのか? などと微かに本当に微かに期待しながら聞いた。
「変化なのでしょうか? どうせなら颯太君の顔をちゃんと見ながら殺してあげたいなっと思ったのです」
変わってない。全然変わってない。思いっ切り平常運転だよっ。
「では。さくっと死んで下さい。あの世で会いましょう」
猫服先輩が二本の日本刀を大きく振り上げた。
「人が大人しくしてりゃいい気になりやがって。いい加減にしやがれ」
錫の怒鳴り声がし、錫の駆るジュゲムが猫服先輩のすぐ後ろに姿を現すと猫服先輩に殴り掛かった。
「錫。おま、馬鹿。こっちに来たら駄目じゃないか」
俺は思わずそう叫んでいた。
「へふ? なんで?」
「助けられないだろうが」
「あーん。でも、兄ちゃま殺されちゃったらそれはそれで駄目じゃん。てーか、そっちのが手間が掛かると思う」
「そっか。そう言われると確かにそうだな」
「颯太君。どっちの味方なんですか? 私と妹さんがこうして戦ってるのになんでのんきに会話なんてしてるんです?」
そうだった。今、まさに二人は激闘を繰り広げ始めていたのだった。
「お嬢様」
「助太刀しまっす」
兼定と祐二が俺達の傍に来た。
「じゃあ、兼定はこっち。錫を人質にして」
「お嬢様。ですが、この方は非常に強いので」
「何? 錫よりも兄ちゃまが約束を果たす事よりもそっちのそれの方が大切って事?」
錫の奴、助けに来てくれたのにぐいぐい責めるな。
「それは、あの、ですが」
「兼定さん。俺なら大丈夫ですよ。錫様と颯太の方をやってやって下さい」
「はん? やっぱいい。こっちは錫一人でやる。なんかむかつくからもういい。二人でホモホモしく戦ってれば」
錫よ。ホモホモしく戦ってればってどんな戦い方なのだ?
「お嬢様。すいません」
「錫様。ありがとうでーす」
錫の乗るジュゲムがふっと猫服先輩から離れると俺の方に向かって走り始めた。
「逃げるんですか。そうはさせませんよ」
「あなたの相手はこの兼定と」
「祐二でございまーす」
なんか怖い。この二人息がぴったりだ。これで戦うとホモホモしい戦い方って奴になるのか?
「私の邪魔しないで下さい」
猫服先輩と兼定達が戦闘に入った。
「兄ちゃまー。助けてー」
俺から二メートルくらい離れた場所で足を止めた錫の乗るジュゲムが突然ゆっくりと片膝を地面に突いた。
「錫よ。もっとちゃんとしなくていいのか? ただでさえ、本当の約束はもう果たせないから形だけになるのだぞ?」
「いいよ。兄ちゃまが思い出してくれただけで錫は本当はもう満足なんだから。兄ちゃまが錫の傍に来てくれて、錫がジュゲムから降りたらぎゅっと抱き締めてくれて、凄く濃厚なフレンチキッスしてくれて、そんでもって、錫のスカートの奥に手を入れてショーツの中の秘密の花園に」
「おーい待てー。そこまでにしろー。それ以上はいかんだろうがー! 十八禁にする気かこの淫乱馬鹿妹」
何が秘密の、おっと、俺も言いそうなってしまったじゃないか。
「兄ちゃま。そんな事いいから早くこっち来て。キッス云々は冗談だから」
よくないわ。ここまで来て十八禁とか、今までの努力が無駄になるだろ。そんな事なら最初から濃厚な物語をだな、はっ? 今のはなんだ? 俺は何を考えているのだ?
「キッス云々は絶対にしないからな」
「ちっ」
「お前、今舌打ちしただろ?」
「しないよそんな下品な事」
「した。絶対にした」
「もう。どうでもいいじゃん。細かいな。早く来てよ。錫の事助けてくれんでしょ?」
「分かったよ。まったく。しょうのない奴だな」
俺が錫の乗るジュゲムの傍に行くとジュゲムの背中が開き錫が降りて来た。
「兄ちゃま。ちょっとだけでいいから抱き締めて」
「お前、キッス云々は」
「そうじゃないの。普通のでいいの。普通の兄妹だって抱き締め合う事くらいあるはずでしょ? ここまで来るのに随分かかったんだから。少しだけ。ね? お願い」
俺はこいつ何を企んでいるのだ? と思いながら錫の顔をじっと見つめた。俺が見つめている事に気付いた錫が懇願するような目でじいーっと俺を見つめて来た。
「少し、だけだぞ」
まあいい。ちょっとくらいサービスしてやるか。
「抱き締め合うんですか? 颯太君。わたしまだ戦ってるんですよ? 二体一ですよ? 酷くないですか?」
猫服先輩。すいません。今は、錫の方を優先させて下さい。というか、祐二の乗るジュゲムはもう手足が切断されていて動いていないじゃないですか。兼定の乗るジュゲムだって頭と左腕が既にないし。どれだけ強いのですか。
「先輩。ここに先輩の思うような愛はありません。これはあくまでも兄妹の関係での出来事なのです」
一応弁解しておくとしよう。後が怖いからな。
「兄ちゃま。そうなの? 愛はないの?」
「錫。さっき自分で普通の兄妹がどうたらこうたらと言っていただろ」
「そうだけど、はっきり兄ちゃまに言われるとなんか」
「駄目です。普通の兄妹だろうがなんだろうが絶対に許しませんから」
「錫。急ごう。抱き締めればいいのだな?」
猫服先輩が来たら絶対に約束を果たせなくなるからな。折角こういう気持ちになったのだ。最後までちゃんとやりたい。
「うー。なんかいろいろ言いたい事があるし、とりあえずやっとけばいいだろみたいな兄ちゃまの態度が気になるけど、しょうがないからそれでいいよ」
俺は錫の間近まで行くと、錫に向かって両手を伸ばした。
「兄ちゃま」
そっと触れているだけのような感じで抱くと錫が恥ずかしそうにしながら嬉し気な声で囁き顔を俯けた。
「錫。あれだ。ごめん、でいいのか? 本当はあいつ、あの男の元から助け出すっていうのが約束だったはずなのにすっかり忘れていたから」
なんだか俺も恥ずかしくなって来たのでその気持ちをごまかそうと思い言葉を出した。
「兄ちゃま。もっとちゃんと。ぎゅっと抱き締めて」
「あ、ああ。分かった」
俺は錫のとても幸せそうな様子にほだされて言われるがままにおずおずと錫を抱く手に力を込めた。
「錫にだって分かってるもん。兄ちゃまも錫も子供だったんだからしょうがないんだよ。一緒にメカメカカメーを見てた時だったから兄ちゃま興奮してて錫を絶対に父ちゃまの元から助け出すんだ、なんて叫んだんでしょ? でもあの時、錫は兄ちゃまと離れたくなかったから凄く嬉しかったんだ。あの時から兄ちゃまはただの兄ちゃまじゃなくって錫をいつか助け出してくれるヒーローになったんだよ」
錫が俯けていた顔を上げると潤んだ瞳で上目遣いに俺を見つめて来た。
「ヒーロー、か。じゃあ、やっぱりごめんであっているな。あのアニメの事も約束の事もすっかり忘れていて、お前にずっと守ってもらっていて、こんな形で約束を果たそうとしてしまっていて」
錫が否定するように大きく頭を左右に振ってから顔を俺の体にぐいっと埋めるようにして押し付けて来た。
「謝らないで。思い出してくれたんだもん。錫はМだからいろいろいたぶられた方が実は余計に嬉しいんだよ」
こいつ。かわいいとこあるじゃないか。
「もっとましな言葉を使え。折角のシチュエーションが台無しだ」
俺は自分の意思で錫を抱く手に今までよりも少しだけ力を入れた。
「兄ちゃま」
錫が小さな消え入りそうな声で囁き顔を俺の体から離した。また上目遣いで俺を見つめて来たと思うと目を閉じ唇をむーと言いながら突き出して来た。
「なんだそれ?」
錫がえ? という顔になりながら目を開けた。
「なんだそれって。キッスだよキッス。この状況だよ? 兄ちゃまこそシチュエーションを台無しにしてるよ。さあ、早く。むー」
こいつ。
「お前さ。キッス云々はなしってさっき言っただろうが。だいたいな、ちょっとおかしいぞ。俺は実の兄だぞ? 俺はお前を見てもなんとも思わないのに。なんでお前はそうなのだ?」
錫ががーんとかがびーんとかいう音が聞こえて来そうなほどにショックを受けているという顔になった。
「兄ちゃま。そんな。錫は兄ちゃまの事が好きなの。実の兄妹とかそんな事は関係ないの。兄ちゃまこそおかしいよ。錫の事なんとも思わないの? こんな風に抱き合って見つめ合ってむーってしてるのに。なんで? 兄ちゃまも兼定とかと同じって事? 嫌だ。そんなの嫌だ。おかしいのは兄ちゃまの方だよ」
錫が今までに見た事もないような取り乱した様子でヒステリックに叫んだ。
「おい。錫。どうした? 言い方が悪かったか? だが、無理な物は無理だぞ。俺はお前の事をそういう風には見られない」
今までが今までだからな。錫の様子が気にはなるが演技の可能性が高い。ここで甘くするときっとこいつはまた調子に乗る。
「なんだよ。兄ちゃまの男色家。そんなに錫の事が嫌いなの? こんなに頑張ってるのに。なんで? 錫はどうすればいいの? こんなに兄ちゃまの事が好きなの、に、兄、ちゃま」
錫が急に苦しそうな顔をしたと思うと体から力が抜けたようになって俺の腕の中からすり抜けて倒れて行きそうになった。危ない。こいつ。なんて事を。強硬策に出たのか? 俺はそう思いつつも錫の体がすり抜けて行かないようにと強く抱き締めた。
「おい。錫。どういうつもりだ? 何をしているのだ?」
錫はぐったりとしたまままったく動かない。
「おい。錫。いい加減にしろ。重いぞ。放すからな」
今までよりもかなりきつい口調で言ってみるが、それでも錫はなんの反応も示さない。
「錫。おい。錫ってば」
こいつ。まさか、本当に、倒れたとかなのか? そういえば、さっきの苦しそうな顔、本当に苦しそうだったよな? だが、あれだろ? ここまで引っ張っておいてからの、兄ちゃま~キッスして~みたいな? お。そうだ。いい事思い付いた。
「錫。分かったよ。キッスだろ? こうしてお前をぎゅうっと抱き締めていたらなんだか俺もムラムラして来た。顔を上げろ。濃厚なフレンチキッスをくれてやる」
凄く恥ずかしい。誰かに聞かれていたら首をくくりたくなるな。
「ふうーん。颯太君は妹さんにフレンチキッスなんですか? フレンチキッスの意味は分からないけど絶対にエッチな事のような気がします」
「錫様。おめでとうございます。いよいよですね」
「お嬢様。大丈夫ですか? お嬢様」
ひごぎごぎえげえええ。聞かれていたの? 今の全部聞かれていたの? フレンチキッスって猫服先輩言っていたよね? いたよね?
「お、お、おおお、お前ら。いつの間に? 戦いは? ジュゲムは? いつ降りた? ああ、そんな事より、どこから聞いていた?」
「颯太君が妹さんを急にぎゅうっと抱き締めた辺りからです」
「颯太が錫様を毒牙にかけようとした辺りからかな」
「お嬢様。お嬢様。お兄様。お嬢様をこちらに」
おい~。なんだよそれ。全部聞かれているじゃないか。こっちに来たらすぐに声を掛けろよー。あー。恥ずかしい。穴があったら入りたい。というかもう死にたい。
「お兄様。お嬢様を。お嬢様をこちらにお願いします」
ん? なんだ? 兼定が何か必死になって言っているぞ。ちょうどいい。恥ずかしさを紛らわす為に兼定とだけ話そう。
「兼定さん。どうした?」
「お嬢様をこちらへ。体がいよいよ限界に来たのかも知れません」
は? 何を言っているのだ?
「兼定さん? どういう事?」
俺は錫の体を兼定に渡しながら聞いた。
「お兄様。しばしお待ちを」
兼定が錫の脈を取り始めた。
「やはり。これはいけない。すぐに緊急手術の手配をしなければ」
兼定が錫を抱いたまま携帯電話を取り出すとどこかに連絡し始めた。
「兼定さん。俺は何をすればいいですか?」
兼定が連絡を終えるとやけに急いで祐二が兼定の傍に行った。
「祐二は少しだけ待っていて下さい。お兄様。ちょっとお話があります」
俺は母親が死んだ時の事を思い出しこういう場合の話は聞きたくないという衝動に駆られながら兼定の顔をじっと見つめた。
「何がどうなっている?」
俺は母親の時と同じように家族は俺しかいないのだと自分を鼓舞すると話を聞きたくないという衝動を必死に抑えながら急にひりひりとするほどに渇きを感じさせるようになった喉の奥から声を絞り出した。
「お嬢様の心臓は今停止しています。お嬢様の肉体はある一定の期間が来ると壊れてしまうのです。お兄様と同じように新しい肉体をえたお嬢様ですが、お嬢様が手術をした時代は今ほどは技術が進んでいなかったのです」
錫の心臓が止まっているだと?
「助かるのだろ?」
「はい。ですが、手術をする度にお嬢様は記憶を失って行っているのです。今までは致命的な記憶の欠落はありませんでしたが、今回もそうであるという保証はありません」
なんだそれは? 俺にそんな事を今言ってどうする気なのだ?
「俺を忘れるかも知れないから覚悟をしておけっていう事か?」
それくらいの事しか思い浮かばない。
「それは大丈夫です。お嬢様はお兄様を忘れない為に膨大なデータを持っています。今までにもお兄様の事を忘れてしまった事が何度かありました。ですがその度にお嬢様はお兄様を記憶し直していたのです」
なんだよそれ? 錫の奴、そんな事していたのかよ。
「お嬢様が自分自身の事を忘れた事はまだないのです。ですが完全な記憶喪失になってしまったら今までのようには行きません」
「そんな脅すような事言うなよ。今まで平気だったのなら今回だって平気だろ?」
俺は天から一筋だけ垂れている蜘蛛の糸にでもすがるような思いで言った。
「分かりません。ただ手術を繰り返す度に記憶を失くす度合いは酷くなって来ています」
錫がもしも完全な記憶喪失になったとしたら?
「また、思い出すだろ。俺もその時は協力する。いや。あれか。俺の事なんて思い出さない方がいいのかも知れないのか?」
混乱し始めていた。さっきまでは全然何事もなかったというのに、なんだこれは? どうしてこうなったのだ?
「この馬鹿野郎。錫様がお前の事を思い出さない方がいいなんて事あるか。しっかりしろ」
祐二がやけに大きな声で熱血教師のように怒鳴った。
「お兄様。前置きが長くなってすいませんでした。ですが、これがお嬢様の現状なのです。お嬢様はお兄様には知られないようにと努力していましたし、この兼定にも絶対にお兄様には言うなと言っていました。この兼定、お嬢様の言い付けを破るのは今回が初めてです」
言葉を切ると兼定が親が自分の子供を見るような優しい目で錫の顔を見た。何も言わずに錫の顔をしばしの間見つめてから兼定が俺の方に真剣な眼差しを向けて来た。なんだ? 兼定は何をしようとしているのだ?
「お兄様。お願いがあります。お嬢様を救う為に手術を受けて下さい。お兄様もお嬢様と同じように肉体を交換する手術を受けています。お兄様の体の中にはお兄様にあってお嬢様にはない細胞があるのです。それをお嬢様に分けてあげて下さい。同じ手術を最新の技術で受けていて同じ血が流れているお兄様にしかないできない事なのです。それをお嬢様に移植できれば記憶の欠落も起こらないようになり肉体もお兄様と同じように普通の人間の肉体のようになって長く壊れない物になるのです」
そんな事なのか? それで万事解決じゃないか。なんだよ。もったいぶって。最初からそれを言えばよかったのだ。
「俺が断るとでも思ったのか? 受けるに決まっている。いくら錫とはいえ、俺にできる事があると聞かされているのにそれをやらないと言って見殺しにしたら後味が悪過ぎる」
楽勝楽勝。早く病院に行こうではないか。
「お兄様。話はまだ終わっていません。その手術は非常に難しく大きなリスクが伴うのです。失敗すればお兄様は死に生き返らせる事もできなくなるのです」
死ぬ? 生き返らせる事ができなくなる?
「駄目です。そんな手術は受けさせません。命を懸けるなんて。それじゃあ颯太君が妹さんを愛してるみたいじゃないですか」
猫服先輩。今まで黙っていたのにここで参戦ですか。しかも、この状況で愛してるみたいって。本当にぶれない人だ。この真っ直ぐさを他の事に向ければいいのに。
「強制することはできません。お兄様の意思で決めて下さい」
兼定が俺に向かって深く頭を下げた。
「兼定さん。車が来ました。錫様の搬送をしましょう」
「祐二。よく気付いてくれました。お兄様。時間がありません」
俺は頭を上げ歩き出した兼定の腕の中にいる錫の顔を見た。まったく。本当にどうしようもない馬鹿妹だな、お前はよ。
「兼定さん。手術を受ける。行こう」
死ぬと決まった訳じゃないしな。大丈夫だ。きっと死にはしないだろう。
「駄目です。行かせません」
猫服先輩が日本刀の切っ先を俺の鼻先に突き付けて来た。
「先輩。兄としてです。大丈夫です」
「そんな理屈はいりません。妹さんの為に命を懸けるんですよ? 愛じゃないですか」
うう。なぜだろう。急に激しく悲しくなって来た。錫といい猫服先輩といい俺の事を好きだと言ってくれる人ってどうしてこんななのだろう。どうせ好きになってくれるのなら普通の子がいい……。
「先輩。これは慈善事業です。信じて下さい」
「駄目です」
「お兄様。ここはこの兼定に任せてもらえませんか? お兄様はお嬢様と一緒に行って下さい」
錫を部下達に渡して戻って来た兼定が俺の横に立った。
「先輩と戦うつもりなのか?」
俺は兼定の顔を見つめた。
「やむをえません。この兼定も命を懸けます」
「あなたみたい人は殺しませんよ。私は愛してる人しか殺さないんです」
「先輩。どうすれば分かってもらえますか? 俺は本当に錫の事を愛してなどいないのです」
猫服先輩が俺の鼻先に突き付けていた日本刀を下ろした。
「私と死んでくれれば分かってあげます」
猫服先輩の言葉を聞いた俺の頭の中に閃きが走ってしまった。あっちゃー。我ながら嫌な事を閃いたぞ。だが悩んでいる時間はないよな。お。待てよ。人を生き返らせるほどの技術があるのだ。ひょっとしたら全然平気なんて事があるかも知れない。
「分かりました。やって下さい。ここで今すぐにぐさっと。だが、刺された後に手術を受けます。それでいいですか?」
俺が閃いた内容を口にすると猫服先輩の目がとろんとした。
「もちろんです。私の方が先ですから。今すぐにいいんですか? 本当に?」
「お兄様。待って下さい。そんな事をしたら手術が失敗する危険が高まります。万全な状態で手術を受けて下さい」
そうなるか。駄目だったか。失敗した。先に聞いてから言えばよかった。だが、他に何かいい方法なんてあるのか? あー。どうせ生きていても俺の人生ぱっとしなそうだしな。死んでもいいなんて気もして来た。そういえば錫は俺の事ヒーローだなんて言っていたな。人生に一度くらい本当のヒーローみたいな事をしてもいいのかも知れない。あ。だが、ここで刺されるのか。絶対に痛いよな。それに死ぬ確率上がるのだものなー。なんだかんだ言っているがやっぱり死にたくないな。だが、しょうがないのかな。うーん。
「颯太君。さくっといいですか?」
おふっ。猫服先輩の期待に満ちた眼差しが痛い。
「えっと、なんというか、もうちょっと」
時間がないのに。俺は何を言っているのだ。
「ちょっとだけですよ」
猫服先輩が拗ねたように言った。
「お兄様。ここはやはりこの兼定に任せてどうぞ早く」
そう言われてもな。ここで俺が行ったら猫服先輩自殺とかしちゃいそうだものな。だあー。しょうがない。いいやいいや。駄目だった時は潔く死ぬか。
「これしか方法はないと思う。俺は一度死んでいてそれを錫が生き返らせてくれた。だから、これでいいのじゃないかな。錫がいなかったらきっと俺はあの時に死んでいるはずだったろうし。そうじゃなかったら錫を普通の体に戻す為にこうなったとかかも。とにかくそういう運命だったと思って駄目だった時は素直に死ぬよ」
おい。俺。そんな事を考えていたのか? 死のうって決めたらこんな言葉がぼろぼろ出て来るとはな。
「おい。颯太。どうした? なんかお前らしくなくないか?」
祐二がやけに心配そうな声で言った。
「そうか? だが、お前がそういうのならそうなのかも知れないな。祐二よ。今までありがとうな。なんだかんだ言っていつも傍にいてくれたものな」
「ば、ば、馬鹿野郎。何を急に」
「ああー。お前、まさか俺の事狙っていたのじゃないだろうな?」
「そんな事あるかよ。兼定さんに出会って目覚めたんだ。それまではノーマルだ」
本人の口からはっきりそうだと言われると百パーセントそうなのだろうなって思っている事でもなんかショックを受ける物なのだよな。それがたとえ祐二だとしてもな。
「それならよかった。俺が死んだら錫と先輩の事は頼むな。お前くらいにしかこんな事は頼めない」
「おい。颯太。嘘だろ? 俺だぞ? 祐二だぞ? カスで馬鹿でホモでどうしようもない俺なんだぞ?」
だが、お前はいい奴だろ? 本当はいつもそう思っていた。本当にだぞ。
「そんな祐二だから頼むのだ」
「颯太」
祐二がはらはらと涙を流し始めた。泣くなよ。俺までなぜだか泣きたくなって来たじゃないか。まさか祐二にもらい泣きさせられる日が来るとは思ってもいなかったよ。
「先輩。さくっとやって下さい」
今だろう。今なら逝ける気がする。
「もういいんですか?」
「はい。よろしくお願いします」
「分かりました。それで、同時に逝きますか? それとも私が後を追いますか?」
あー。それか。それな。そうだよな。すっかり忘れていた。猫服先輩そういう人だったものな。
「先輩。先輩は生きて下さい。俺の為に生きて下さい。俺は先輩と一つになって生きて行きますから」
猫服先輩が小首を子犬のようにかわいく傾げた。
「ええっと、それは?」
「先輩は死んではいけない。これは先輩を愛する俺の願いです。俺の最後の願い叶えて下さい」
猫服先輩が悲しそうな顔をすると涙で目を潤ませた。
「先輩。どうしたのです?」
「颯太君酷いです。前に言ったじゃないですか。一人は寂しいんです。もう嫌なんです」
そっか。それも忘れていたか。あれだ。両親の時の事があったか。
「先輩。それでも、お願いです。俺に俺が死んでもちゃんと生きて行くと誓って下さい」
俺はこの人に死んで欲しくないのだな。当たり前の事だと思うのだが、こういう状況だと本当に心からそう思える。
「お兄様。それならばお兄様が刺された後、この方をこの兼定が取り押さえます」
「それじゃ駄目なんだ。先輩の気持ちが変わらないと意味がない」
「颯太君。一人は嫌です。お願いです。私も一緒に死なせて下さい」
猫服先輩、なんて顔をしているのだ。だが、死なせない。生きていればきっといい事がある、って説得力ないな。そういう俺は諦めているのだものな。
「先輩。俺がもしも生きていたらどうします? あくまでも現時点では死ぬ可能性が高いというだけです。今一緒にやってみたとして先輩だけが死んでしまうかも知れませんよ」
これならどうだ? 我ながらこの状況でこんな屁理屈をよくすぐに思い付いたな。ナイス俺。
「そうなんですか?」
「はい。そうなのです。今は俺を刺しておいて自分は俺が死んだら死ぬという事でどうですか?」
兼定にはああ言ったがこれも結局一時しのぎだけどな。いや。待てよ? そうか。俺が生きているという事にしておけばいいのか。
「予約みたいな物ですか?」
予約って。実に猫服先輩らしい言い方だ。
「そうですね。そのような物です。俺が死んだと確認ができたら先輩は死ぬ。確認ができるまではちゃんと生きる。いいですね?」
猫服先輩が大きく頷いた。
「はい。それなら納得です」
猫服先輩が嬉しそうに微笑んだ。よし。いい笑顔ですよ猫服先輩。
「じゃあ、先輩。お願いします」
お願いしますってなんだよ俺。うわー。あの日本刀の刃の色と輝き。冷たくって痛そう。
「はい。予約します。颯太君が死んだと分かったらすぐに逝きますから。ちゃんと待ってて下さいね」
「分かりました」
「じゃあ」
「あ。その前にちょっといいですか?」
危ない。肝心な事を忘れそうになっていた。
「え? なんですか?」
猫服先輩。そんな嫌そうな顔をしなくっても。
「ちょっとだけ。兼定さんと話をしたいのですが?」
「ちょっとだけですよ」
「はい。じゃあちょっとだけ。兼定さん」
俺は兼定の耳に顔を寄せると片手で口元を隠し俺が死んだ時はその事実を絶対に猫服先輩には知られないようにしつつ俺が生きているように思わせ続けるようにと頼んだ。
「分かりました。万が一の時はそうします。絶対にあの方を死なせないと誓います」
兼定も俺と同じように俺の耳に顔を寄せ口元を手で隠してから返事をしてくれた。
「すいませんが、お願いします」
兼定にそう言い話を終えると俺は猫服先輩の方に顔を向けた。
「内緒話ですか?」
猫服先輩が至極不満そうな顔をした。
「すいません。男同士の秘密の話です」
「先輩。男には死んだ後に残せない物がたくさんあるんですよ。ハードディスクの中身とかベッドの下とか」
祐二よ。そんなフォローかよ。最後までお前は祐二だったよ。
「それは、形見分けの話ですか? そうなのならしょうがないです」
嫌な形見だな。でも、それも言っておけばよかったかも。妹物のネタとかなかったよな? もしもあったら錫が大変な事になるだろうな。俺は思わずちらりと兼定の方を見た。兼定が意味ありげに頷いた。これ、たぶん伝わっている。さすがだよあんた。
「さあ。先輩。やって下さい」
俺は自分の両頬を両手で挟むようにして平手で強めに叩くと頭を左右に振ってこの世への未練を断ち切るように頭の中を空っぽにしてからゆっくりと目を閉じた。
「先輩。死んだらあっちで。もしも生きていたらこっちでまた会いましょう」
「はい」
ざしゅっという音ともに俺の胸の辺りに冷たい何かが入って来たと思うとすぐに猛烈にその場所が熱くなり激痛が全身を駆け巡った。
「絶対にお兄様を死なせはしません。搬送急げ」
「颯太。颯太」
「颯太君。元気で」
元気でって猫服先輩らしい言葉だな。ふっとそんな事を思った瞬間俺の意識は急速に遠退いて行った。やばい。猫服先輩の背負う事になる罪の事考えていなかった。どうしよう。俺の意識は一瞬だけ覚醒し、そう思った途端にまた急速に遠退いて行った。
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