第2話

廊下を進みながら見掛けた何人かの生徒に聞くと猫服先輩をすぐに見付ける事ができた。下駄箱で着ぐるみの足の部分を履き替えている猫服先輩に近付きながら着ぐるみの足の部分って下半身と一体になっていないのだな、などと思いつつ俺は猫服先輩に振り向いてもらおうとそっと着ぐるみの柔らかいカーブを描いている肩に手をのせた。着ぐるみ越しに猫服先輩がびくっと体を震わせたのが感じられたので俺はリラックスしてもらおうと思い口を開いた。

「先輩、すいません。驚かせちゃったですか?」

 極めて真剣にかつ謙虚に言いながらちょっとおどおどした風を装ってみる。

「いえ、あの、はい。驚きました」

 聞こえるか聞こえないかくらいの小さな小さな、けれど想像していたのとは違うどこにでもいそうな女子の声がして猫服先輩が振り返り俺の方に顔を向けた。

「かわいい」

 俺は思わず息を飲みつつ呟いてしまった。

「はい?」

 俺の言葉が聞こえなかったのか猫服先輩が小首を傾げる。髪型は頭を覆う着ぐるみの所為で分からない。だが、顔だけが出るように作られている穴から出ている顔は冗談抜きにしてかわいかった。黒くしっとりと濡れていてきらきらと光っている瞳。そんな瞳を優しく内包するように生えている長い睫毛。けして高くはないが周囲とのバランスを保ちつつ綺麗に整った形をした鼻。ちょっとふっくらとした感じだが、厚ぼったさなどは微塵も感じさせない桜の花弁のように淡いピンク色をした唇。俺は時が止まってしまったかのように猫服先輩の顔をじっと見つめたまま固まっていた。

「あの、なんでしょうか?」

 なんとか絞り出したというような小さな消え入るような声で言いながら猫服先輩が恥ずかしそうというよりは気まずそうな感じで目を伏せた。俺は演技ではなく素で慌てながら着ぐるみの肩にのせていた手を引いた。

「一緒に帰りましょう」

「え?」

 猫服先輩が伏せていた目を上げて俺を見た。俺はその瞳を獲物を狙う猛禽類の目をイメージして力を入れた目でがっつりと掴むように見た。

「一緒に帰って下さい」

「え?」

 猫服先輩の瞳に動揺の色が広がった。

「一緒に帰るくらい誰でもしている事です。何か問題がありますか?」

 俺は断る隙を与えないように畳み掛けた。

「でも、君と私は」

「初対面です。今まで一度も話をした事もありません。だが、それになんの問題がありますか?」

 猫服先輩が少し困ったな、というような顔をしたかと思うと、優しい、けれど、何かを諦めたような目をし、普通に聞こえるくらいの声で言った。

「私と一緒にいると色々困った事になりますよ?」

 俺の耳に女子のクズどもの声が入って来た。クズどもは、何あいつ猫服先輩の事ナンパしてない? などと言っていやがった。

「ああいうクズどもには好きに言わせておけばいい。そもそも先輩はあんな奴らの事全然気になんてしていないでしょう?」

 猫服先輩が驚いたのか目を真ん丸にして俺の顔を見た。

「クズ、ですか?」

 俺は大きく頷いた。

「はい、クズです。どいつもこいつもクズです。何もできない、何もしない。与えられた境遇に甘んじただダラダラと生きている。そんな奴らがクズ以外のなんでしょうか?」

 猫服先輩がすっとなんでもない事のように俺が掴んでいた瞳ごと顔を動かし声を掛ける前の時のように俺に背中を向けた。俺はその仕草を見て驚いた。この人はきっと意思が凄く強いのだろうと思ってから、すぐに当たり前かと思った。俺がこの学園に入る前の事は実際に見てはいないが、少なくともここに入学してから今までの間ずっと着ぐるみで登校し続けていると聞いている。俺は先輩が遭遇したであろう困難を想像して、不覚にもちょっと泣きそうになった。

「歩きながら話しましょう。ここだと目立ちますから」

危うく聞き逃しそうになったが、俺の耳は確かにそんな言葉を聞いた。

「はい。靴を履き替えて来ます」

 俺は少々感傷的になった心の中を切り替えるように頭の中で祐二に勝利宣言をしながら、自分の下駄箱の前に行き靴を履き替えた。

「一年生なんですね?」

 背後から猫服先輩の声がした。

「先輩、いつの間に」 

 不意を突かれて俺は思わず目を大きくしながら猫服先輩の顔を見た。

「驚きましたか?」

 猫服先輩の顔が心なしか得意げな顔をしているように見えた。

「はい」 

 俺はまだ少しどくどくと普段よりも大きく脈を打っている心臓を意識しつつ頷いた。

「さっきのお返しです。凄く驚いたんですから」

 猫服先輩が嬉しそうに言ってから歩き出す。ちょっと待て。なんだこれ? この人、本当にかわいいぞ。これは、あれか? 着ぐるみを着ている変人だと思っていた奴の顔がちゃんと見てみたら実は凄くかわいく話してみると普通で、いや、普通よりもなんとなく親しみやすいような感じがしちゃっていて、それでそんな風に思えているのか? 俺、今まで結構恋愛して来たつもりだが、こんな感じは初めてだ。なんか、今までにないくらいに本気で惚れそうな気がする。着ぐるみを来ていると思うと微妙だが、まあいい。脱がせて普通の服装にさせれば良いだけだからな。

「無口になりましたね?」

 俺が自分の世界に没入しながら歩いていると猫服先輩が声を掛けて来た。何も言わずにどんな顔をしているのかと思い猫服先輩の方に顔を向けたが、猫服先輩は少し俯きかけた顔を前に向けていて着ぐるみ頭部の側面しか見る事はできなかった。

「住宅街といっても結構人に出会います。別々に歩きますか? 一緒に帰ろうって言った事後悔してるんでしょう?」  

 猫服先輩の言葉を聞いて唐突に俺の胸の中に怒りの感情が沸き上がって来た。

「先輩は好きでその格好をしているのですよね?」

「はい。私はそうです。けれど、君は違います。私は良いんです。けれど、君まで変な目で見られると思ったら申し訳なくなって来てしまっています」

 怒りがいきなり消えて、俺の胸の中には感動の渦が巻き起こった。

「勝手な憶測はやめて下さい。俺は考え事をしていただけです。先輩があまりにもかわいくって俺のタイプで」

 俺は一度そこで言葉を切った。告白してしまおうかどうか考えていた。俺の恋愛にセオリーはない。俺は常に自分の好き勝手に気持ちを相手にぶつけて来ただけだった。それで今までうまく行っていた。だから今回もうまく行くであろう事に微塵の疑いも抱いてはいなかった。

「もう我慢できません。先輩。好きです。俺と付き合って下さい」

 俺は足を止めると猫服先輩の頭を包んでいる着ぐるみの頭部の側面を真剣な眼差しで射るように見た。猫服先輩が足を止め、ゆっくりと顔を俺に向けた。猫服先輩の驚いて目を真ん丸にした顔がすぐに悲しみに暮れる捨てられた子犬のような表情に変わった。

「ストレートなんですね。けど、軽率な感じがします。私達、自己紹介もまだなんですよ?」

 どうしてそんな表情をしながら言う? 俺はその真意をたださずにはいられなかった。

「なぜそんな悲しそうな顔をするのです? その顔で言われてはちゃんとした段階を経て告白してもフラれそうな気がします」

 猫服先輩が両手で覆うようにして自分の顔に触れた。その両手はもちろん着ぐるみを着ているのでかわいい猫の手の形をしていた。

「その手で鉛筆を持ったり、教科書を開いたりできるのですか?」

 俺は好奇心に駆られ思わずこの場の雰囲気にまったくそぐわない事を聞いてしまった。

「この手でですか?」

 猫服先輩が手の肉球側を見せるように両手を顔から離すと俺に向かって伸ばして来た。

「はい。その手でです」

「色々改造してあるんです。鉛筆などはここの穴に挿せば操りやすいです。他にも実はこんな風に指と指とが離れるようになっていたりもします」

 かわいくもこもこしていて一つ一つがくっ付いている着ぐるみの手の指が突然人の手の指のように離れ離れになった。うげげっ。なんか怖いぞ。

「なんだかちょっと、グロいですね」

「そうでしょうか? これはこれでかわいいと思うんですけど」

 猫服先輩が指を曲げたり伸ばしたりジャンケンのパーを作るように開いたりした。

「すいません。その指はもういいです。あまり長く見ていると怖い夢を見そうなので話を戻しましょう」

 猫服先輩が少し残念そうな表情をしながら両手を下した。

「どこの話に戻すんですか?」

「さっき軽率な感じがします云々と先輩が言った時の表情の所までです。なぜあの時あんな風に悲しそうな顔をしたのです?」

 猫服先輩が両手で覆うようにして自分の顔に触れた。俺はもう手の事には触れなかった。

「それは秘密です。女の子には簡単には人には言えない秘密があるもんなんです」

 猫服先輩の表情は手で覆われていたので見る事ができなかった。

「分かりました。秘密なら仕方がありません。では、告白の返事はどうです?」

 猫服先輩が突然その場にしゃがみ込んだ。

「大丈夫ですか? 気分でも悪くなりましたか?」

 俺がしゃがみ込んで顔を覗きこもうとすると猫服先輩が俺から逃げるように今度は立ち上がった。

「平気です」

「今、逃げました?」

「いえ。足が痺れたので立っただけです。これを着ていると、ほら。関節部分を曲げると凄く曲げた場所が圧迫されるんです」

 猫服先輩が右足を俺に見せるように前に出すと膝を曲げてそこを指差した。

「まあ、逃げられてもいいのですけれどね。それで告白の返事は?」 

 猫服先輩が顔を俯けてから上を向きそれから正面を向いたと思うと右を向いて左を向いて、そして俺の方に顔を向け俺の顔をちらりと見てまた俯いた。

「さっきも言いましたけど、お互いの事を何も知らないんですよ?」

 今のは狼狽えていたのだよな? だとしたら悪くない反応だぞ。

「そうですね。じゃあ、自己紹介をしましょうか?」

 猫服先輩が不意に何か気になる物を見付けた子猫のように体をピクンと動かし、周囲を見回し始めた。

「どうしました?」

「今、どこかから女の人の悲鳴が聞こえたような」

「悲鳴?」

 俺には何も聞こえてはいなかった。何かが起きているのであればまた何かしらの声や音がするだろうと思い俺は目を閉じて周囲の音を聞く事に集中した。

「おかしいですね。さっきは聞こえたような気がしたんですけど」

 猫服先輩が不思議そうな声を出した。俺は目を開けると猫服先輩の顔を見た。

「空耳だったのか、もしくは、あっという間に解決したか。ああ。最悪の状況っていうのもあるかも知れないですね」

 俺はこんな着ぐるみを着ていてよく意識していない所から聞こえて来た音に気付いたな、と思ったがここでまた着ぐるみネタをふっても時間の無駄だろうと考え何も言わなかった。

「あ。いけない。もうこんな時間です。私、急いで帰るので今日はこれで」

 猫服先輩がいかにも演技をしていますというような口調と声で言った。

「演技がへた過ぎです」

 猫服先輩がうわーばれたというような顔をしてから激しく頭を左右に振った。

「演技なんてしてません。本当に急いでるんです。とにかく帰ります。ああ、もう。分かりました。告白の返事です。嫌いです。君なんて大嫌いです。二度と私に話し掛けないで下さい。もしも話し掛けて来ても無視しますから」

 言い終えた猫服先輩が逃げ出すように駆け出した。

「諦めませんよ。一晩ゆっくりと考えてみて下さい。自分の気持ちとか俺の事とか。ではまた明日」

 俺は猫服先輩の背中に向けて声を掛けた。猫服先輩は一瞬立ち止まったが何も言わずにまた駆け出した。猫服先輩の姿が路地の角を曲がり見えなくなってから俺は自宅へ向けて歩き出した。お互いの事を知る、か。そんな事どうでもいいのに。一緒にいて楽しきゃそれでいい。猫服先輩はかわいいからな。おっと。明日会うのが楽しみになって来た。過去の経験から俺には自信があった。こんな風に状況が芳しくなくってもだいたい一日か二日経てば向こうの気が変わってうまく行ってしまうのだ。今まではずっとそうだった。どういう風に気持ちが変化するのかは知らないが、そうだったのだから、今回もそうなるのだろう。運というか、なんというか、まあ、俺にはそういう何かがある。俺は顔を上に向けると空を見上げた。こんな風に充実した気分になるのは久し振りな気がする。祐二の言い出した賭けに乗って正解だったのかも知れない。賭けは俺の勝ちですぐに終わるが、猫服先輩とはその後も付き合って行けたら嬉しいね。 

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