第3話

「昨日、一緒に帰ったんだってな」

 教室に入って来るなり近付いて来た祐二が勢いよく俺の机の上に座りながら言った。

「まあな。告白まで行った。後は猫服先輩の返事待ちだ」

「マジか? 相変わらず早いな。けど、告白がうまく行っても駄目だからな。あの着ぐるみの中を見ないとお前に勝ちはないぜ」

 俺は祐二の言葉になんの反応もしないで猫服先輩に対して感じた事を口にした。

「かわいいし話をすると全然普通だった。着ぐるみを着ている意味が分からん」

「へえー。普通に話しできるんだ。なんかああいう格好してるから他人との接触を拒絶してるようなところがあるのかと思ってた」

 俺は祐二の顔を見ながら一緒に帰った時の猫服先輩の態度をあれこれと思い出してみた。

「まあ、あの格好で平気でいるのだからそういう所はあるとは思う。だが、何かを見たとか感じとかそういうのはなかったな」

 人と話すのは嫌いじゃないようだった。俺の事を気遣ってくれてもいた。あの着ぐるみさえ脱げば猫服先輩はただの、いや、かわいくてモテる女子高生になるのだろう。

「なんでだろうな」

 口からそんな言葉が自然に漏れ出た。

「何がだ?」

「着ぐるみだよ。あれさえなきゃ残念な子から一気に人気者に早変わりしそうなのに」

「それな。関係するかは分からないけど、ちょっとした情報を仕入れて来たぜ」

 祐二が得意気に言った。

「人の彼女になる女の事をこそこそ調べるとか最低だな」

 俺は軽蔑の眼差しを祐二に向けた。祐二がそれを軽く受け流した。

「あーはいはい。お前のそういう鬱陶しい所はとりあえず無視しとくわ。そんでな。猫服先輩の両親って、二人とも同じ日に自殺してんだって」 

「それ、本当か?」

 始まった。祐二はたまにこういう酷い嘘をつく事がある。本人は驚かそうとして言っているのだろうが、この手の嘘は聞いていて全然面白くない。

「マジだよ。信じられないのならネットで検索してみ。ちゃんと出るから。何か悩んでたとか生活苦だったとかそんな事は全くなく突然の事だったんだってよ。猫服先輩が中一の時の事らしい」

 どうやら今回は本当の事を言っているらしい。

「それから着ぐるみなのか?」

「いや。その辺は調べてない。なんか、自殺の事知ったら萎えた。他のクラスの奴に猫服先輩と同じ中学だったって奴がいて聞いたんだよ。いきなり両親の自殺の話だろ。重過ぎて他の事聞く気がなくなった」

 確かに重過ぎる。そんな過去を背負った奴と出会った事なんて今までなかった。ましてやそれが好きになった相手とか。

「どうした? やる気なくなったか? こんなんで賭けに勝っても嬉しくねえぞ。俺はあの着ぐるみの中身に興味があんだからな。諦めるなよ」

 祐二が俺の肩をポンポンと軽く叩いて来た。

「励ましているつもりか?」

「まあな。お前の顔見てたら、なんか悪い事した気がして励ましたくなった」

「俺の顔ってなんだよ?」

「お前、気付いてないのかよ。なんともいえない切なそうな表情してたぜ。本気で好きになってんじゃないの?」

 俺は反射的に自分の顔を手で撫でた。

「お前の所為で、今日会ってもうまく攻められなくなりそうだ。そうだな。だが、両親が自殺してようがなんだろうが俺が見ているのは猫服先輩だ。凄く驚いたけどな。自殺とかじゃないが俺も両親がいなくなっているからな。まあ、大丈夫だろ」

 祐二が俺の机の上から軽く飛ぶようにして下りた。

「そのうちお前も着ぐるみで登校して来たりしてな。やめてくれよそういうの」

「着ぐるみのペアルックかよ。寒気がするわ」

 ない。絶対にない。

「俺の方はもう余計な事するのやめとくわ。そん代わりに、ちゃんとどうなったか報告しろよ」

「お前に俺の恋の進捗状況を話せと?」

「そういう事。相手が相手だぜ。さすがのお前も今回は一人じゃ不安だろ? 相談相手になってやるよ」

 祐二が自分の席に向かって歩き出す。

「自慢話とのろけ話でいいのなら話してやる」

「あー。はいはい。よろしく」

 唐突にふっと猫服先輩のお互いの事を何も知らないんですよ? という言葉が音声付きで頭の中で再生された。両親の自殺の事は知られたくない過去なのだろうな、と俺が考えたところで担任教師が教室に入って来た。とりあえず両親の事は知らない振りをしておこう。俺は担任教師のする話を上の空で聞きながらそんな風に思った。

「で、今日はどうすんの?」 

 放課後になるとすぐに祐二がまた寄って来た。

「特には何も。会って適当に話をするくらいか」

「おっ。噂をすれば影だ。猫服先輩が通ってったぞ」

 俺はゆっくりと立ち上がった。

「祐二。またな」

「おう。明日の報告を楽しみにしてるぜ」

 教室から出るとすぐに廊下の先を行く猫服先輩の後ろ姿が見えた。普段よりも少し速足で歩くとあっという間に猫服先輩に追い付いた。

「先輩。今日も一緒に帰りましょう」

 俺は驚かさないように横に並んでから声を掛けた。

「出ましたな。ナンパ妖怪一年生の後輩君」

 猫服先輩がささっと俺から数歩離れるとファイティングポーズをとった。あまりにも予想外な事が起きたので俺は驚き呆然と猫服先輩の姿を見つめた。

「あの。後輩君?」

 ファイティングポーズをやめた猫服先輩が俺に近付いて来ると、俺の顔の前で右手を振った。

「すいません。先輩があまりにも突飛な行動に出たので驚いて意識が飛んでいました」

 我に返った俺が言うと猫服先輩が顔を俯けた。

「くうぅ~~」

 猫服先輩が小さな声で唸った。

「先輩? どうしたのですか?」

 猫服先輩が顔を上げると、両手で顔を覆うようにして隠した。

「君は誰かな? 私に君のような知り合いはいないんだけど」

 なんだろうこれは。まったく理解できん。

「先輩。何がしたいのかさっぱり分かりません。分かるようにやって下さい。意味不明でいらっとします」

 猫服先輩が着ぐるみの手の隙間から俺の顔をちらりと見た。

「怒らせてしまいましたか? ごめんなさい。おかしな人の振りをして君に嫌われようと思ったんです」

 はっぐう。俺は息を飲んだ。おいおい。なんなんだよ本当にこの人は。

「最後までやらないと意味がないじゃないですか。どうして謝ったりしたのです?」

 猫服先輩ががっくりと肩を落とし恨めしそうに言う。

「誘導尋問です」

 いやいやいや。勝手に自爆しただけだろ。

「それはそうとして。無視するのではなかったのですか?」

 猫服先輩が口を開こうとしたが、猫服先輩が言葉を出す前にどこからか猫服先輩と一年生の男子がいちゃいちゃしているなどという声が聞こえて来た。

「ここにいると目立ちますね」

「先輩がそんな格好をしているからです」

「こ、これは」

 狼狽える猫服先輩の着ぐるみに包まれている右手を俺はそっと握った。

「なんです?」

 猫服先輩が体をびくっと震わせてから泣きそうな声を出した。

「歩きながら話しましょう」

 俺は猫服先輩の右手から手を放した。

「あ、はい。そうですね」

 猫服先輩が着ぐるみに包まれた手の俺の手が触れていた部分を見つめながら歩き出した。

「先輩。前を見ないと危ないですよ」

 俺も歩き出し猫服先輩の横に並んだ。

「そうですね」

 どこか上の空な感じで猫服先輩が言い数歩分進んでから思い出したように腕を下ろし顔を前に向けた。部活へ向かう生徒や帰宅を急ぐ生徒達の間を通り抜け俺と猫服先輩は下駄箱へと到着した。小さなロッカーのようになっている下駄箱の蓋を開け俺が靴を履き替えていると先に着ぐるみの足の部分を履き替え終えた猫服先輩が傍に来た。

「あの。また女の人の悲鳴が聞こえたんです」

「悲鳴ですか?」

 言いながら俺はそういえば昨日も猫服先輩はそんな事を言っていたなと思った。

「あ。ほら。また」

 猫服先輩がそう言う前に俺の耳にも助けてという女の子の声が聞こえて来ていた。

「確かに聞こえますね」

「私、見て来ます」

 猫服先輩が駆け出した。

「先輩」

 何かおかしなトラブルにでも巻き込まれたら困るし、そもそも面倒臭い事はごめんだと思い、しばらくの間逡巡していたが猫服先輩がどんどん遠ざかって行くので仕方なしに俺は走り出した。着ぐるみを着ているというのに猫服先輩は器用に走り、その速度は結構速かった。更に距離も離れてしまっていたので俺が追い付く前に学園の近くにある遊具も何もない小さな公園に入った猫服先輩は足を止めた。

「助けてー誰かー」

「大人しくしろ」

「逃げられないぞ」

 猫服先輩の目前で二人の黒づくめの男達が一人の少女を取り押さえているという何かの撮影なのか? と思ってしまうようなべたべたな光景が繰り広げられていた。

「大人しくしろ。誰も助けになんて来るもんか」

「いやー。助け」

 男達に取り押さえられている真っ赤なワンピースを着ていてプラチナブロンドの長い髪をツインテールにしている少女が猫服先輩に気付くと上げていた悲鳴を途中で切った。

「おう。着ぐるみ。なんでてめぇなんだよ」

 カラーコンタクトを入れているのかワンピースの色にも負けない燃えるような赤色の瞳を細めるようにして猫服先輩を睨むと小さな薄桃色の唇を動かして少女がドスのきいた声を出した。

「あうぅ。ごめんなさい」

 猫服先輩が何かに襲われそうになった小動物のように体を硬直させてからおろおろしつつ思いっ切り頭を下げた。

「謝んなら来んなよ。ギョエエエー」

 少女の瞳がすっと横に動き俺と目が合った瞬間、少女の口から車に轢かれた蛙が上げるような声が飛び出て来た。

「助けてー。お願いー。早くー」

 少女が数回咳払いをしたかと思うと急に俺に向かって訴えるように鈴の鳴るような澄んだ声色の悲鳴を上げ始めた。

「先輩。帰りましょう」

 俺はまだ頭を下げたままでいる猫服先輩に近付くと声を掛けた。

「で、でも。また悲鳴が」

 猫服先輩が顔を上げ何が起きているのか分からないといった感じでおどおどしながら俺と少女の顔を交互に見た。

「演技しているだけですよ。何がしたいのか知らないが、くだらん。関わるだけ時間の無駄です。さっさと行きましょう」

 俺は猫服先輩の着ぐるみに包まれた手を取ると公園の外に向かって歩き出そうとした。

「ええ? 私もなんですか?」

 不意に猫服先輩の素っ頓狂な声がし、猫服先輩の着ぐるみに包まれた手から俺の手が離れたので何事かと思い振り向くとあろう事か少女を拘束していた黒づくめの男達二人が少女から離れ猫服先輩を二人がかりで拘束していた。

「その人から手を離せ」

 かっとなった俺は吠えるように声を上げた。

「我らに勝てるか若造」

「くうーふっふっふっふ。たっぷりとかわいがってやるぜ」

 男達が猫服先輩から離れると俺に体の正面を向けじりじりと距離を詰めるようにして近付いて来た。俺は少しずつ後ろにさがりながら制服のポケットから携帯電話を取り出した。

「クズどもが、お前らの相手なんてするか。すぐに警察を呼ぶからな」

 俺は携帯電話を操作し警察に通報しようとした。

「させるか」

 男達のうちの一人が素早く動き携帯電話が一瞬にして奪われた。

「お、おい。お前、返せ」

 俺は俺の携帯電話を持っている男を狼狽えながら睨み付けた。これはまずい事になった。殴り合いとかになったらまず俺は勝てない。今までの人生で掴み合いとか殴り合いとかなんて一度もした事がなかった。

「後輩君。大丈夫です。私も携帯持ってます」

 かしゃっと音がすると猫服先輩の来ている着ぐるみの右手の甲の部分の一部が回転し携帯電話の液晶画面が現れた。

「その多機能着ぐるみについてはもう何も言いません。早く通報お願いします」

「させるかよおっ」

 少女がツインテールを振り乱しながら猫服先輩に飛び付いた。

「わわっ。いきなり何するんですか」

「うるせえ。人の恋路を邪魔すんじゃねえ」

 猫服先輩と少女が携帯電話を巡って揉み合いを始めた。

「こら、このクズ。先輩の邪魔をするな」

 俺は猫服先輩から少女を引き離そうと思い二人に近付いた。少女が着ぐるみの手の甲に埋め込まれている携帯電話を両手で掴むとぐいぐいと強く引っ張った。

「なんなんだよこれはよ。全然取れねえじゃねえか。あ。取れた」

「後輩君。危ないです」

携帯電話がいきなり外れたので少女の体が俺目掛けて勢いよくすっ飛んで来た。ごすっという鈍い音ともに少女の頭が俺の頭に当たり、俺は不覚にもその衝撃で意識を失ってしまった。

「ん?」

 目を開けると見た事のない熊の縫いぐるみが自分の腕越しに見えた。

「目が覚めたんですね。良かった」 

 熊の縫いぐるみの向こう側から猫服先輩の声が聞こえて来た。

「先輩? あれ? 俺は」 

 熊の縫いぐるみがどけられるとその後ろから猫服先輩の顔が現れた。

「そんな不安そうな顔をしなくても大丈夫です。君は今私の部屋のベッドの上で寝てるんです。君が気を失ってしまったので連れて来てしまいました」

 俺が気を失った? そうだ。学園の近くの公園で変な奴らと出会って。あいつらはどうなったのだろう。

「先輩。あいつらは?」

「あいつらですか?」

 猫服先輩がゆっくりと顔を近付けて来る。

「あの先輩。近いです」

 どんどん近付いて来る猫服先輩の顔を見ていて恥ずかしくなった俺は我慢できなくなり声を上げた。

「そうですか?」

かわいい顔が息遣いを感じるほどの距離まで来て止まった。

「だから先輩。近いですって」 

 猫服先輩がそこから顔を動かそうとしないので俺は起き上がって猫服先輩から離れようと思った。

「あれ? 手が」

 右腕を動かそうとして、なぜか右腕が動かせない事に気が付いた。右腕も左腕も万歳をするような形で上に向かって伸びている。気を失っている間に自分でこんな格好をしたのだろうか? それとも猫服先輩が俺を寝かせる時にこの格好にしたのだろうか? 俺は顔を動かして右腕の肩から掌に向かって視線を這わせるように移動させて行った。

「捕まえちゃいました」

 俺が手首に回っている銀色の金属製の輪に気付いたのとほとんど同時に猫服先輩の言葉が聞こえた。

「これ、手錠ですか?」

 実物を見るのは初めてだったので思わず確認してしまった。

「はい。手錠です」

猫服先輩が瞳をきらきらと輝かせながらどこか熱っぽい声で言った。やばい。これ関わ

っちゃ駄目な人だろ。背中にぞくりとした悪寒が突っ走り、一瞬にして俺の頭の中は混乱でぐちゃぐちゃになった。誰か今すぐに助けてと叫びたくなった。

「なぜ?」

 叫んだら猫服先輩が逆上するかも知れない。そうなったら何をされるか分からない。混乱をきたしながら咄嗟にそう思うととにかく猫服先輩を刺激しないようにしなければと俺は必死に平静を装いながら言った。

「その人から手を離せって言った君はとても素敵でした。この人になら私の事を話してもいい、いえ、話したいと思いました」

「それで、手錠なのですか?」

 どうしてそうなるのかまったく分からない。

「はい。話し出した途端に逃げられても困りますし、それと、えっと、男の人とこうして二人きりになるのは初めてなので」

 ああ。確かにいきなり二人きりは警戒するかも。そうだよな。よかった。少しはまともなのか? いや、全然駄目だろこれ。いきなり手錠で拘束するなんて、いくらなんでもありえない。

「先輩。話はちゃんと最後まで聞きます。先輩におかしな事をする気もありません。ですから、手錠を外してもらえませんか?」

 俺はこれ以上ないという真剣な眼差しを猫服先輩に向けた。

「彩絵です。大津賀、彩絵です」

「は、はあ。それって先輩の名前ですか?」

「はい。君の名前はなんというんです?」

 何を言っているのだこの人はいきなり。そんな事より手錠を外せと言いたかったが、ここは合わせないと危険だと思い直すと俺は自分の名前を口にした。

「佐井田颯太君ですか。では颯太君と呼びます。君は私の事をなんて呼びますか?」

「今まで通り先輩で」

 当たり前だが今の俺の気持ちは絶対零度並みに思いっ切り冷めている。普段なら初めて下の名前で呼び合うイベントはそれなりに盛り上がる物なのだが今の俺には鬱陶しいだけだった。さっきからずっと近くにある先輩のかわいい顔も全然かわいいとは思えない。むしろかわいい分余計に不気味さが募って行くだけだった。

「そんなの嫌です。彩絵と呼んで下さい」

 先輩が恥ずかしそうにしながら微笑むとおずおずとしつつ少し拗ねたように言った。

「先輩。俺なんかのどこがいいのですか? 見たでしょう? 公園で俺は何もできなかったのですよ? この際だからはっきり言いますが、俺、滅茶苦茶駄目ですよ。運とかツキとかなんかそういう物のお陰でうまくやっているだけで何もありませんよ? 性格も悪くって本当の友達と呼べる奴だって一人もいませんし。俺の事、気に入ってくれているみたいだがやめた方がいいと思います」

 俺はなんでもいいから嫌われようと思い付く端から自分に関するネガティブな事を口にした。

「大丈夫ですよ。君がどんな人だって私の気持ちは変わりません」

 励まされているよね? これ、励まされているよね絶対に。そいう事じゃないから。

「君がそうやって自分の事を話してくれて嬉しいです。誰だって自分の嫌いな所はありますんもんね。けど、君はそんな言い難い事をちゃんと話してくれました。ありがとう」

 猫服先輩が目を涙で潤ませながら心から嬉しそうな笑顔を見せる。俺はその顔を見、言葉を聞き、そうじゃないだろうーと心の中で叫んだ。

「先輩。勘違いです。俺は先輩の事なんて本当は全然好きではないです。賭けだったのです。着ぐるみを着ている先輩の着ぐるみの中身を見たいと知り合いのクズが言って来て。じゃあ俺が見てやるから賭けをしようってなったのです。だから、今までの事は全部先輩と仲良くなる為の芝居です」

 これでどうだ。刺激してしまう危険はあるがしょうがない。自分が賭けのネタにされて騙されていたと知ったらさすがの猫服先輩も俺の事を嫌うだろう。

「それ本当なんですか?」

 よしっ。先輩が悲しそうな顔になった。

「本当です。俺は自分で言うのもなんですが、人の気持ちなんぞちっとも考えない最低な奴なのです」

 猫服先輩が顔を俯けた。今、何かが先輩の顔から、涙だ。先輩、泣いたのか。これはちょっと、来るな。ちょっと、ちょこっとだけだが、かわいそうな事しちゃっているよな。

「先輩。傷付けてしまってすいません。俺みたいな奴の事はさっさと忘れて下さい」 

 猫服先輩が顔を上げた。

「へ? なんで?」

 俺はその顔を見て間抜けな声を上げてしまった。猫服先輩の顔には何かしらを強く決意した者が見せるような清々しいほどに吹っ切れた表情が浮かんでいた。

「忘れられません。忘れられるはずなんてありません。君は、いえ、颯太君は私の事が嫌いですか?」

 嫌いです。なんて即答できるかっ。この状況でそう言える奴がいたらそいつは友達が一人もできないような性格破綻者だ。

「はい。嫌いです」

 おお。言ってしまった。俺ってやっぱ性格破綻者なのだな。だから友達が一人もいないのだな。

「今なんて?」

「嫌いではないです。す、好きでもないですが」

 しまった。思わず言い直してしまった。

「それなら私にもチャンスがありますね」

 ありません。頼むからもう帰らせて下さい。

「先輩。手錠の方をそろそろ外してもらえないでしょうか?」

 こうなったら隙を見て強引にでも逃げ出すしかない。

「それでは、私の事を話します。ちょっと待ってて下さい」

 わざとなのか? わざと自分に都合の悪い事を黙殺しているのか? 猫服先輩が俺と俺の寝かされているベッドから離れると、着ぐるみを脱ぎ始めた。

「先輩。何を?」

普通に考えればただ着ぐるみを脱いでいるという、あれ? 着ぐるみを普通に来ている事自体が普通じゃないが、ん? 普通普通ってじゃあ普通って一体なんなのだ? 待て待て。そんな青臭い主張じみた事は今はどうでもよくって、なぜに今このタイミングで脱ぐ? 猫服先輩が着ぐるみを脱皮する蛇のようにすべて脱ぐと真っ白な長袖の薄手のシャツにこれまた真っ白な薄手の足首まであるスウェットパンツという姿になった。猫服先輩の体は出る所がそれなりに出ていてなんというかこうして見てみると、結構エロかった。猫服先輩が頭の上でまとめていた髪を解いた。深い黒色一色の長い髪がさらりさらりと動きながら腰くらいまで垂れ下がり、俺はその輝きと美しさに思わず見惚れてしまった。

「中身もちゃんと見せますよ」

 猫服先輩が切なそうなそれでいてどこか嬉しそうにいたずらっ子っぽく言った。

「中身も見せるのですか?」

 猫服先輩いけません。いえ。いいのです。私のすべてを見て下さい。えーい、がばあっ。ああ。猫服先輩。颯太君。愛しています。猫服先輩。颯太君。俺は置かれている状況の事をすっかり忘れ実に思春期の男子らしい妄想を頭の中で繰り広げ始めた。

「最初はこの辺りからです」

 猫服先輩が長袖のシャツの右腕側の袖を手首の所からゆっくりと捲って行き始めた。猫服先輩の一点の曇りもない透き通るような白色の陶器のような肌が徐々に徐々に露わになって行き、その辺りから見せるのか。だがなぜその辺りから見せて行くのだろう? と思いつつも続行していた俺の思春期の男子らしい妄想は物凄い勢いで打ち消された。

「驚きましたか? 驚きますよね? けど、これは愛の証です。両親が私に残してくれた愛の証なんです」

 俺は絶句していた。驚き、いや、普通の驚きを遥かに通り越していたので驚愕と言った方がいいのかも知れない。あまりの事に俺の頭の中は真っ白になっていた。

「この子の名前はシモン。こっちの子はヤコブ。十二使徒の名前を付けてくれたんです。私をずっと見守ってるっていう事らしくって」

 猫服先輩は幸福そうに語る。俺は猫服先輩の右腕と、その後に袖を捲られて露わになった左腕の中ほどにある長さにして二十センチ以上はあろうかという痛々しい縫合痕まである切り傷の痕を見せられていた。

「目をそらしましたね? やっぱりおかしいですか?」

 サイコだ。猫服先輩はサイコパスだ。今更だがやっぱりおかしい人だったのだ。やばいやばいやばい。これ絶対この後切られるとか殺されるとかするフラグだ。

「あ、いえ。あの。その」

 何も言えない。

「言葉がないですか?」

 こくこく。俺は頷いてからこの対応は失敗だったかも知れないと思い慌てて言葉を出そうとしたが、言葉は何も頭の中に浮かんでは来ず、やっぱり何も言う事ができなかった。

「理解が難しいですよね。説明しますとね。私の両親はこうして傷を付ける事でしか愛情を表現できない人達だったんです。そんな両親にずっと育てられていた私もそれが当たり前だと思ってました。そういう価値観しかない世界にいたんです。だから当時の私にはそれが当たり前だったんです。ただ外ではこの傷を絶対に人には見せちゃいけない。人にお家でやっている事は言ってもいけないしやってもいけないとは教えてもらってましたけどね。幼稚園も小学校も中学校もそれなりにうまくやっていたんですよ。友達はいなかったですけど。両親が死んで、こういう言い方は、卑怯かな。後々誤解を招くかも知れないですね。そうなると面倒なんでもう言っちゃいますけど、私が殺したんですけど、一人になって色々見たり聞いたりして自分と両親が普通とは違ってんだって気付いたんです」

 猫服先輩は両腕の傷跡を愛おしそうに見つめながら終始優しい過去を懐かしむような口調で話していた。殺される。俺はきっとここで死ぬ。俺の頭の中に突如として生まれてから今までの様々な出来事が走馬灯のように駆け巡った。走馬灯って本当に見えるのだな、という思いが頭の隅に浮かんだがそんな事は今はどうでもいい。そうか。そういう事だったのだな。俺が今まで運がよかったのは、きっとここで死ぬ運命だったからなのだ。俺は普通なら七十年とか八十年とかもある生涯に散りばめられていたはずのツキをすべて先払いで使っていただけだったのだ。頭の中は滅茶苦茶になっていて俺は支離滅裂に取り止めのない事を次から次へと脈絡もなく考えていた。

「はあ。私、今、猛烈に颯太君の事が欲しくなってしまいました。颯太君。私を殺しますか? それとも私に殺されますか? 愛する人の手で殺されるというのはとても幸せな事なんですよ。私の両親は私に殺される時、とても喜んでいたんです。あ。その顔。信じてないですね? けど、本当ですよ。刃物も自分達で用意していたんですよ。オーダーメイドで二百万円くらいしたそうです。ダマスカス鋼を使って作った日本刀で、とっても綺麗なんです」

 猫服先輩が不意に体の向きを変えたので俺は情けなくもびくっと体を震わせてしまった。猫服先輩が着ていた着ぐるみを少し持ち上げると背筋にあるチャックの脇からすらりっと白木の鞘に収められている日本刀を抜き出した。

「これ、両親の血なんです」

 柄の部分が黒みがかった色に変色していて、猫服先輩がそこを撫でながら微笑んだ。

「どうです? この刀身。惚れ惚れするでしょう?」

 至極慣れた手付きで猫服先輩が鞘から日本刀を抜いた。抜き放たれた刀身はダマスカス鋼特有のなんとも表現のしがたい不思議な紋様に覆われていた。

「綺麗ですよね」

 猫服先輩が熱っぽい瞳を刀身に向けうっとりとしたような声を出した。猫服先輩が刀身から瞳を離すと、俺の方を見た。俺は蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまい、見つめ合いたくなんてないのに猫服先輩と見つめ合ってしまった。

「颯太君。今回は本当を言うと君に殺して欲しいんです。両親を殺して、私は両親と一つになれたけど、心の中ではいつでも両親に会えるんですけど、なんだかずっととっても寂しいんです。一緒にいるはずなのに時折凄く孤独を感じるんです」

 猫服先輩が微かな衣擦れの音とともに動き出し、ベッドの上に乗ると俺の上に跨った。

「私を殺して下さいな」

 猫服先輩がしゃがむと体を伸ばし俺の両腕を拘束していた手錠を外した。

「さあ、立って下さい」

 猫服先輩が俺に跨ったまま立ち上がった。俺は今すぐにでも逃げ出したいという衝動に駆られながらも恐怖で実行できず、言われるがままにのろのろと少しずつ後ろにさがりながら立ち上がった。

「これを使って下さい」

 猫服先輩が日本刀の柄を俺の方に向けて来た。俺は自分に向けられている柄を見つめごくりと唾を飲み込んだ。チャンスだ。これをもらえば猫服先輩の手に凶器はない。立場が逆転する。俺はそう考えるとゆっくりと柄に向かって手を伸ばした。俺の手が柄に触れると猫服先輩がそっと柄から手を離す。

「どう斬りますか? 私としては首をバッサリと落としてくれるとありがたいです。やっぱり酷い痛みに苦しむのは嫌なので」

 俺は手の中にある柄の木の手触りに酷く禍々しい物を感じつつ、これからどうしようかと必死に考えていた。

「そうでした。忘れてました」

 突然猫服先輩が何かに弾かれたように声を上げた。猫服先輩が後ろを向くとベッドから飛び降りる。すぐ近くの壁際にあった箪笥の一番上の引き出しを開けると中から深いワインレッドの鞘に納められた一振りの日本刀を取り出した。うわー。うわー。なんだよこの展開。チャンスが来たと思っていたのに全然チャンスなんかじゃないじゃないか。

「そうでしたそうでした。それは両親が自分達用に用意した物でした。私が殺される時はこっちを使いなさいと言われていたんでした」

 猫服先輩が日本刀を大切な縫いぐるみか何かのように胸にぎゅっと抱きながら言った。

「こっちは隕石から取れた鉄でできているらしいんです。けど、見た目は普通なんですよ」

しゅるんっという音とともに新たに登場した日本刀が抜かれ冷酷な刃の輝きが俺の目に飛び込んで来た。

「これを」

 猫服先輩が俺に近付いて来る。再びチャンス到来だ。このままもう一振りももらってしまおう。

「あ」

 猫服先輩が小さな声を上げるとベッドの間近まで来ていた足を止めた。俺の方に向けていた顔を手に持っている日本刀の刀身の方に向ける。

「いい事思い付いちゃいました。颯太君。お互いにお互いの事を殺しましょう。そうすればずっと一緒です。どっちかが残って寂しい思いをしなくて済みます」

 が~んという昔から使い古されている効果音が俺の頭の中で本当に鳴った気がした。

「さっきからずっと黙ってますね? どうしてです?」

 猫服先輩が言いながらベッドに上がって来た。

「それは」

 言葉の続きが出て来ない。こんな時何を言えばいいのかなんて俺には分からない。というか分かる訳がない。俺の手にも日本刀。猫服先輩の手にも日本刀。こんな状況、どうしようもないじゃないか!

「それは、なんです?」

 口を開こうとして俺はすぐに閉じた。駄目だ。やっぱり何を言っていいのか分からない。

「同時に刺しますか? よく考えたら、颯太君は初めてですよね?」

 何が? この状況の事か? 当たり前だろ。こんな事が何度もあってたまるか。

「私が自分を刺した後に颯太君を刺した方がいいのかな。颯太君、私を殺す事できます?」

 猫服先輩がなんでもない事のように持っている日本刀を逆手に持ち替えると自分のお腹に突き立てる練習のような事をし始めた。殺される。このままじゃ駄目だ。なんとかしないと。しっかりしろ俺。

「先輩」

「はい。なんですか?」

 猫服先輩が手を止めて俺の方に顔を向けた。

「俺、死にたくないし、先輩を殺したくもない、かな」

 何がかな、だよ。もっと強気で行かないと。

「急にどうしたんです? 気が変わったんですか?」

 気が変わった? 俺は一度もやる気になんてなってないぞ。

「先輩。何か勘違いしていませんか? 俺は一度も先輩を殺したい、先輩に殺されたいなんて思っていませんよ」

「え?! そうだったんですか?」

 猫服先輩のあまりの驚きように俺まで思いっ切り驚いてしまった。

「そうですよ。俺が一度でも死にたいとか先輩を殺したいとか言いましたか?」

 俺はここぞとばかりに一気に捲し立てた。猫服先輩が片手を顎に当て小首を傾げるとうむむむむと小さな声で唸り始めた。

「確かに、そういう言葉を口にしてはいなかったかも知れないです。けど、私を真剣な眼差しでじっと見つめてくれたり、差し出した刀を受け取ってくれたりしたじゃないですか? そんな事をしておいて今更です」

 思い出した! という顔になりつつ、ぽんっと手を打ち今度は猫服先輩が一気に捲し立てるように言った。言い終えてからすぐに猫服先輩の表情が寂しそうな暗い物に変化し始めたのを見て、俺はこれは危険かも知れないと思い慌てて言葉を出した。

「先輩。勘違いさせてしまった事は謝ります。この通りです。ごめんなさい。だが、先輩。これはいい機会かも知れないですよ。先輩も俺も生きるのです。さっき先輩が言っていたじゃないですか。両親がいなくなってしまってから凄く孤独を感じるって。殺さなければ、相手が生きていれば孤独なんて感じない。大丈夫です。俺が、いや、生きていれば誰かしらが必ず傍にいてくれます。そうすれば孤独になんてなりませんよ」

 猫服先輩の目に涙が浮かんだと思うとその涙を隠すように猫服先輩が顔を俯けた。

「そういう事を。どうして、そういう事を言うんです? そういう事を言われた私が今どれほどの孤独を感じてるか。君には分からないんですか? 死んだ両親と君しか私にはいないんです。もしも、君がいなくなったら、もしも、私から君が離れて行ってしまったら私はどうすればいいんですか? 初めてだったんです。男子に告白されて、あんな風に守ってもらって、この部屋に来てもらって。全部初めてだったんです。こんな、普通の女の子みたいな出来事が自分にも起こるなんて思ってなかった。どうして? どうしてここまで来て裏切るの? だったら最初から、私になんて声を掛けないでよ。こんな、こんな幸せで楽しい時間があったなんて知らなければ、私はこんな気持ちにならなかったのに」

 途中から顔を上げた猫服先輩は涙声で叫ぶように言い、言い終えるとしゃくりあげながら泣き始めた。失敗した、変に刺激してしまったと猫服先輩の気持ちそっちのけで思っていた俺だったが、さすがに今の言葉、特に最後の方の部分はぐさりと胸に突き刺さった。

「俺、傍にいます。可能な限りですが。だから、孤独なんかじゃないですよ。普通の女の子みたいに過ごしましょう。先輩はちょっと、いや、かなり、かな。まあ、変わっているが、普通の女の子ですよ。だから」 

 猫服先輩が片手で涙を拭きながらもう片方の手で持っている日本刀の切っ先をこっちに向けて来たので俺は慌てて口を閉じた。その所為でだからに続くはずだったそんな刀なんて捨てましょうという肝心な言葉が言えなかった。

「もう、いいです。もう、聞きたくありません。やっぱりこれが一番冴えたやり方なんです。すぐに後を追いますから。好きです。大好きになっちゃったんです。君と一瞬でも離れたくないんです」

 猫服先輩が涙を拭くのをやめると、その手を柄頭の部分に添えた。

「待って。先輩。待って。考えて。よく考えて下さい。駄目ですってば」 

 猫服先輩が堂に入った仕草で切っ先を俺に向けたまま日本刀を構えると俺の体を一気に貫こうとするかのように全身に力を溜め始めた。

「颯太君。一つになりましょう」

 引き絞られた弓がその内包していたすべての力を使って矢を放つように猫服先輩の手に握られている日本刀が空気を切り裂くしゅっという音ともに突き出された。猫服先輩の突きはとても速くて目を閉じる事すらできなかった。鈍い衝撃とともに胸の部分に冷たく硬い何かが突き通った感触があった。刺されたと思い、刺された、とそのまんまな言葉を出そうとして口を開くと、胸の辺りから強烈な嘔吐感が襲って来て真っ赤な血が口から溢れ出て来て飛び散った。正面にいた猫服先輩の顔が俺の吐いた血で赤く染まった。

「温かい。これが、君の命の温かさなんだね」

 猫服先輩がとっても幸福そうな笑顔を見せた。

「てめえ。この糞女なんて事しやがる。どけ。早く離れろ。おい。お前ら。早く来い。兄ちゃまを。早く兄ちゃまを連れ出せ」

「いきなりなんです? 人の家に勝手に。放して下さい。今は大事な時なんです」 

 猫服先輩が俺の目の前から突然現れた黒づくめの男達に引きずられるようにしてどこかへ連れて行かれると、代わりに公園で見たあのツインテールの少女が視界の中に入って来た。

「兄ちゃま。ごめんね。まさかこんな事になるなんて。でも大丈夫だからね」

「なんだ、お前」 

 ごふっと音がして、再び俺の口から血が溢れ出た。これは駄目だ。絶対に死ぬ。そう思うとまた走馬灯が駆け巡り始めた。

「兄ちゃま。大丈夫だよ。必ず生き返らせてあげるから」

 走馬灯の中に出て来た幼い少女がそう告げる。走馬灯の登場人物って話ができたのか。これって凄い発見だったりして。

「錫子か? 錫子だよな? 懐かしい」

 さっき走馬灯を見た時は全く思い出さなかったのだが俺はその声を聞いて唐突にもう何年も面影すら思い出した事のない妹の錫子の事を思い出した。

「うん。錫子もとっても懐かしいよ。ねえ、兄ちゃま。こっち。一緒に来て」

「え? ああ、うん。分かった。なんか、行っちゃいけないような気がなぜだかするのだが、まあいっか。なあ、錫子。お前、昔のままの姿だな。どういう事だ? それに、今までどうしていた? ずっと、連絡よこさなかったじゃないか」

「後で話したげる。今は、まだ駄目」

「なんだよそれ。あいつ、あの男は元気なのかよ?」

「父ちゃまの事? それも後で。早く早くもっと早く歩いて」

「あんなの父親じゃない。失敗した。俺はなんだってあいつの事なんて聞いたのだ。そんなに強く引っ張るなって。分かったから。目的地に着いたらお前の事、ちゃんと話せよ」

 俺は妹の錫子に手を引かれどことも知れない場所に向かって歩き出したのだった。

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