第3話 彰子中宮、運命の日

 久しぶりに宮中に入り、若紫ちゃんのつぼねに向かうわたしは、その途中で異変に気付いた。どこも静かすぎるのだ。


「人がいない」

 いつもは女房たちが詰めている局だが、今日はどこも無人だった。なんだろう、すごく嫌な予感がする。


 そっと若紫ちゃんの局を覗く。

 ここも空っぽかと思ったら、まん丸い瞳と目が合った。

「あ、おねえちゃん。久しぶりだわん」

 あたまの上の三角形の耳がぴくぴく動く。


犬君いぬきちゃん。みんなはどこ行ったの? それに、何食べてるのかな」

 うん? と犬君ちゃんは自分の手元に目をやった。

「おいしいよ。おねえちゃんも食べる?」

 尻尾がぱたぱた揺れている。


 それ、確かにいい匂いはしているんだけど。形が……。

「リアルに鳥の形そのままなんですけど」

 どうやら、スズメの姿焼きは犬君ちゃんの好物のようだ。皿にまだ、たくさん載っている。わたしは一羽いただく事にした。


 光源氏に囚われた紫式部こと若紫ちゃんを救出するために大活躍した犬君ちゃんは、いまはこうして若紫ちゃんのお手伝いをしているのだ。

「紫のおねえちゃん? エロ親父の家だよ」

 口の周りについた脂を拭い、犬君ちゃんは言った。エロ親父つまり時の最高権力者、藤原道長のことだ。若紫ちゃんの仕える中宮、彰子しょうしさまの父親でもある。


「えーやだ。また何か、えっちな物語を書かされてるのかな」

 あの藤原道長という男、自分の女性体験を基に光源氏の物語を書かせたのだが、詳細を補足するのだと称し、若紫ちゃん相手に痴態を再現するという、とんでもないセクハラ上司なのだ。

 

「あら、末摘花さん。お留守番ですか」

 通りかかった女房が声をかけた。

 宰相の君とよばれる方だった。中宮彰子さまの従姉妹にあたるらしい。気品のある顔立ちだが、幼さの方が少し勝っている。

 一緒にいるのは小中将の君という女房だ。こちらは一分の隙も無く、髪型、お化粧、衣裳に至るまで完璧に整えている。ちょっと近寄りがたいほどの美女だ。


 あたしは慌ててスズメを呑み込んだ。

「他のみなさんは、どちらに行かれたんですか」

 宰相の君と小中将の君は顔を見合わせた。


「ああ。末摘花さまは、ご存じなかったんですね」

「皆さん道長さまのお屋敷に出向いておりますよ」

 へえ? まさか、今度はハーレム小説なのか。


「何ですかそれは。違います、彰子さまが産気づかれたんです」

「難産で、これから御祈祷がはじまるので、女房はその準備をしているのです」

 ふたりは局を出て行き、またわたしと犬君ちゃんだけが取り残された。


 そうか。臨月だとは聞いていたが、彰子さま心配だな。

 この時代、出産時の妊産婦の死亡率って結構な高さだったらしいし、現にさきの中宮だった定子さまは、産後すぐに……だったし。

 

「どうする、うちに来る? 犬君ちゃん」

 ご飯くらいならあるけれど。

「おねえちゃんの、お化け屋敷だね。行きたいわん」

 うん。ずいぶん失礼だが、反論の余地はない。


 ☆


 翌日の昼頃だ。局で待っていると疲れ切った様子の若紫ちゃんや、女房たちが戻ってきた。

「あの、彰子さまは……」

 おそるおそる声をかける。

「あ、みさきさま」

 紅野こうの みさきというのがわたしの本名だ。若紫ちゃんだけは本名で呼んでもらっている。

 

 若紫ちゃんの頬は涙で濡れている。胸に鋭い痛みが走った。

 だけど、その顔が一気にほころんだ。

「男の子です。彰子さまもお元気ですよ!」


 わたしは、なんだか変な声をあげて若紫ちゃんに抱きついた。

「よかった。よかったです!」

 わたしたちは抱き合ったまま、床にへたりこんだ。


「あー疲れたー。でもよかったー」

 しゃがれた声で、ふたりの女房が前を通っていく。ひとりは昨日の宰相の君のようだが、もうひとりは……誰だ?


「あんなひと、女房にいましたっけ」

 そっと若紫ちゃんに訊いてみる。あ、でもあの衣装は見覚えがあるけれど。

「小中将の君ですよ。ご存じかと思いましたが」

 笑いをこらえ、若紫ちゃんは言った。

「ああ!」

 涙で化粧が流れ落ちて、まったく誰だか分からなかった。

「すげー。人って化けるんですね」


 親王の誕生をうけ、それから何日にもわたって盛大な宴が繰り広げられた。


 その料理のお下がりを持って常陸宮邸に戻ったわたしは、玄関に三つ指をついた婆さんたちから丁重なお迎えを受けた。

「お帰りなさいませ、お嬢さま」

 おお、いい気分だ。


「これは立派な料理じゃのう」

「ほんに、お嬢さまを宮中にいれた甲斐があったというものじゃ」

「いやいや。わしはあのお嬢さまは、やればできるブスだと思うておりましたぞ」

「まあ、これを造ったのは、お嬢さまではないがのう」

「それはそうじゃ、かっかっか」

 三人で爆笑している。

 やはり歓迎されたのは、わたしではなく料理だった。


 とにかく、史実ではこの時から藤原氏の全盛期がはじまるらしい。


 でもわたしにとっては、さらに大きな問題があった。

 光源氏が、ふたたび宮中にその手を伸ばし始めているからだ。




 


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