8 三木のり平の物真似をする三船敏郎みたいな新沼謙治

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「――おい、冬也」

 ドラムの声が聞こえたような気がするが、冬也は、まだ夢の世界から抜けきっていなかった。

「おい、冬也!」

 さらに肩を揺すられ、眠りに就く前の酒席と今の意識が、わずかだが重なってくる。

 ――あ?

 目をしばたたきながら、横にいるドラムの顔を認めた頃には、うたた寝の夢の記憶など、どこかに霧散してしまっていた。

 ――あれ? 俺……寝てた?

「うわこら冬也」

 ドラムとは逆の横から、キーボードが冬也の顎の前に灰皿を突き出した。

 ――え? え?

 眼下の灰皿に、煙草の灰がぽとりと落ちる。吸われないまま白くなった、長い灰だった。

「俺もそこそこ長く生きてるけどさ」

 キーボードは呆れたように言った。

「煙草くわえて座ったまま寝る奴、生まれて初めて見たわ」

 残り半分の煙草を口にくわえたまま、寝ぼけまなこできょろきょろする冬也に、他のメンバーもマネージャーも苦笑している。

 テーブルの向かいから、ギターが言った。

「そーゆーいい煙草吸ってるからだよ」

 手を伸ばし、冬也の前に置いてある煙草の箱を取って、

「俺も一本もーらお」

 さっそくライターで火を着け、深々と一服し、うっとりと目を閉じる。

「……こりゃ本場もんだわ」

 冬也はめいっぱい混乱していた。

 ――え? え? え?

 うたた寝する直前の記憶が、しだいに蘇ってくる。

 ――えーと、バッグから出した煙草を吸ったら、間違えて持ってきたあの女のメンソール入りだったんで、それで思わずボーカルに腹を立てて――。

 しかしボーカルは向かいのギターの右隣で、いつものイケメン顔を、なんの乱れもないベストの上に乗せている。冬也の注目に気づくと、思わず恐縮して顔を伏せたりもしている。女の押しに弱いだけで、根はいい男なのである。

 ――そうか。俺はムカつきをこらえているうちに、なんか悪酔いして寝ちまったんだ。

 周囲を見渡せば、クリスマスの飾りつけも小洒落たなりに品のある、大人の隠れ家的な、社長好みのいつもの酒場である。

 冬也はほっとして、グラスの水割りを干した。

 ――でも、なんかやっぱりおかしいような……。

 そもそもギターが持っていった煙草は、どう見ても例のメンソールではない。冬也には読めない文字が印刷された、異国風の派手な箱である。

 冬也は目一杯悩んでしまったが、

 ――やめ! もう何がどうでも気にしねえ。

 ウイスキーのボトルを鷲づかみにすると、グラスにどぼどぼ注ぎこみ、

 ――だいたい好きな酒、妙にケチったりするから調子狂うんだよ。

 冬也はひと息にグラスを干した。氷はほとんど残っておらず、すでに生粋のストレートである。

 ギターの左隣で、マネージャーが言った。

「変わった匂いの煙草だね」

 ギターはご満悦で胸を反らし、

「そりゃもう、いいクサが入ってますから」

「え?」

 マネージャーは顔色を変え、

「それって、まさか……」

「大丈夫っす。コナじゃあるまいし、アメリカやカナダじゃみんな平気で吸って――」

 言い終わらないうちに、マネージャーはギターの口から煙草を引ったくり、大あわてで灰皿にこすりつけると、ナプキンを広げ、灰皿の灰を全部ぶちまけた。煙草の箱もそこに乗せ、さらに冬也の前の灰皿も引ったくってぶちまけ、一切合切、ナプキンごと丸めてビジネスバッグに突っこみ、

「…………あのね」

 メンバー全員を、蛇のように鋭い社畜の瞳で見渡して、

「君らはもう、チンケなアマチュアじゃないんだから。『次の夏は武道館だ!』とか社長がはりきってるんだから。まあジャンル的に、女性関係はそうそううるさく言わないけど、お願いだからクサとかコナだけは――」

 いつもの説教を食らいながら、ドラムが冬也に耳打ちしてきた。

「アレどこで仕入れたん?」

 冬也はグラスを干してから、

「いや、俺、買ってねえし」

「うわ水くせえ」

 するとキーボードが、

「六本木のハウスじゃねーの? こないだの水曜の」

 冬也は、ストレートの連杯がいい具合に回ってきて、

「そう言や、あそこだったかな」

 そもそも、寝ている間の夢がまったく思い出せないように、寝る前の記憶さえ今は曖昧になっている。

「こら、そっちの三人、聞いてるか」

 マネージャーが釘を刺した直後、背広の内ポケットで携帯が鳴った。

 ボーカルが、事務所の女性社員を真似て言った。

「あの、マネージャー。会社からお電話が入っております」

 今どきのイケメンは、これくらいノリが良くないと女が寄ってこないのである。ちなみに小型携帯電話は機体も通信料もまだ高価なので、個人使用は一般化していない。

 まったくもうこの連中は、などとぶつぶつ言いながら、マネージャーは通話を始めた。

「あ、社長! こんな遅くまで、お疲れ様です」

 初めはしきりに頭を下げていたマネージャーの顔が、通話が続くに従って、クールな彼には珍しく面白いように千変万化してゆく。怪訝けげんそうになったり、かなり驚いたり、いきなり輝いたり――『MHK―BS』とか『音楽世界』とか、ちまたに名高い放送メディアや雑誌メディアの名称も、たびたび口にしているようだ。

 やがて、最敬礼に近いお辞儀をしながら、マネージャーは通話を終えた。

「……驚いた。マジに武道館、いや東京ドームだって夢じゃない器なのかな、君たちは」

 いちおうリーダーに祭り上げられているボーカルが、興味津々で訊ねた。

「なんか、すっげーいい話みたいっすね」

「ああ。だからこそ、ああいったクサだのなんだのは、もう金輪際こんりんざいだめだぞ」

 マネージャーは説教を駄目押ししてから、

「四月の初旬にMHKのBSで、ちょっと思いきった音楽特番を生放送する。クラシックやJ―POP、演歌からロックまでジャンルを問わず、期待の新人を一挙に集めて入学入社シーズンを盛り上げる――そんな、紅白に匹敵する大企画だそうだ。鳴り物入りで始めたBSがイマイチ普及しないから、新し物好きの口コミをここでどーんと盛り上げよう、そんな腹だろうね」

「その話、もう知ってますけど」

 ボーカルは、拍子抜けしたように言った。

「でも俺らは関係ないっしょ。出演者、もう決まってるし」

「今さっき、急に追加のオファーが事務所に入った。ロックのジャンルで、予定のエックスとBUCK―TICKに加えて、君たちにもゲスト出演して欲しいそうだ。つまり彼らの対抗馬みたいな扱いだな」

 メンバー全員の目が点になった。

「……マジっすか?」

 ボーカルもそれ以上の言葉が出ない。

 さらにマネージャーは、

「あと、番組の翌日、別口で『音楽世界』の対談が入った」

「え? ちょっと待ってください」

 キーボードが口を挟んだ。

「あれってクラシックの専門誌ですよね」

「対談相手の御指名らしい。その相手が、なんと朝比奈琴音ことねだとか」

「そりゃなんでまた……」

 キーボードはその名前を知っているらしいが、冬也を含めて他のメンバーは、まったく心当たりがない。

「それって誰?」

 ボーカルがキーボードに訊ねた。

 冬也も他のメンバーも、キーボードを見る。

「若手では、もしかして世界一の女流バイオリニストだよ」

 ちなみにキーボードは、エックスのYOSHIKIに憧れて、ドラムは無理でもピアノならイケるんじゃないかと、クラシック系に足を突っこんでいる。ただしYOSHIKIのように幼時からピアノに秀でていた天才とは違い、あくまで女にもてたくてミニ・キーボードから始めた電子派だから、譜面に明るい冬也に色々教わったりしても、まだアコースティックは荷が重い。それでも冬也と違って、今もクラシック系の雑誌を読みかじっている。

「春にベルギーの国際音楽コンクールで優勝した人だ。あっちの大御所たちに見初められて、オーストリアとかドイツとかイタリアとか、あっちこっちで直々にレッスン受けながら、一流オーケストラで弾いて回ってる」

 あの世界三大コンクールのひとつか、と冬也は思い出した。昔の受賞者ならバイト時代に聞いたことがあるが、今のクラシック界には縁がない。

「顔は?」

 ギターが単刀直入に訊ねた。

「うーん……綺麗っちゃ綺麗かな。なんか大人しそうな、お嬢様っぽい顔してる。ぶっちゃけ地味系だよね」

「じゃあ俺はパス」

 ボディコン系が好きなギターは、あっさり投げた。

「会ったって話すことないもん」

 そう言やそうだよなあ、と揃って懐疑的な顔をしているメンバーに、マネージャーが言った。

「いや、ごめん。最初に言っとくべきだった。そっちの対談は、冬也君だけでいい」

「は?」

 冬也が面食らっていると、

「『音楽世界』の対談は基本的に一対一だから。つまり朝比奈琴音本人が、北森冬也個人と話したがってるわけだな」

 ――な、なんで?

 冬也は仰天した。他のメンバーも呆気にとられている。

「……実は、冬也の幼なじみ?」

 横のドラムが言った。

「昔、冬也の小学校に、都会からワケアリの子が転校してきたんだよ。で、俺らみたいな田舎のガキに、毎日いじめられてたんだ。それを冬也が、颯爽さっそうと助けてやった。でもその子はワケアリだから、じきに都会に連れ戻されて、でも、ずっと冬也が忘れられなくて――」

 ドラムの長々としたボケに、冬也より先にギターがツッコんだ。

「そりゃどこのラブコメだよ」

 すると横のキーボードが、真面目な顔で言った。

「たぶん、俺らのアルバムとか聴いて、わかったんじゃない? 他とは違う、ベースの確かな音楽性、みたいな」

 それには冬也自身がツッコんだ。

「その無茶振り、力いっぱいスベってるぞ」

「いやスベってない。だっておまえ、俺がライブで無茶苦茶やったアドリブとか、あとで譜面にしてからかったりするだろ。ふつうできないぞ、そんなこと」

 ボーカルがうなずいて、

「あ、それ、俺も思ってた。たぶん冬也は、絶対音感あるよな」

「またまたぁ」

 冬也は軽く流した。女がらみの罪滅ぼしに持ち上げてくれるのはいいが、見え透いたお世辞はかえって居心地が悪い。居心地を良くしようと、またグラスを干す。

「……いや、当たってるかもしれない。実は、僕もそうなんじゃないかと思ってる」

 マネージャーまで言いだすので、冬也は面食らった。

「まあ、それはちょっと横に置いといて――ここだけの話なんだけど、先のMHKのオファーも、社長の裏情報だと、どうも朝比奈琴音の事務所が関わっているらしいんだな。つまりその生放送に、彼女もクラシック系の最大の目玉として、急遽きゅうきょ出演することになった。前にMHKがオファーしたときは『うちの朝比奈は日本の音楽バラエティーに出る必要も暇もありません』とか、けんもほろろに断られたらしいんだが、今夜になって、君たちと共演できるならスケジュールを都合する、と。MHKとしては、是が非でも世界の朝比奈が欲しいわけだ。まあ、君たちが近頃、オリコンの上昇株なのも間違いないしね」

 ほほう。すると、これはいよいよ、その女と冬也がらみ、謎が謎を呼ぶ急展開――。

 仲間たちの妙な視線を一身に浴びてしまった冬也は、しばし挙動に窮し、もはや何杯目か見当もつかないグラスをごくりと干したのち、

「……ま、どうでもいいじゃん。どうせ先の話なんだし」

 ぶっきらぼうに居直って、あっちこっちのグラスに、どぼどぼとボトルのウイスキーを注ぎながら、

「さあさあ皆さん、飲んで飲んで。パーッといきましょう。バカになりましょう」

 セリフのわりには、ずいぶん腹の据わった声である。

 ボーカル以外の全員が、目を丸くしながら、こう思っていた。

 ――うわ、三木のり平の物真似をする三船敏郎みたいな新沼謙治。なるほどマジな失恋は、ここまで男を大きくするのだなあ。

 ボーカルだけは、こう思っていた。

 ――よかったよかった。どうやら、もう冬也にシメられる心配はなさそうだ。

 もとよりすっかり居直ってしまった冬也は、何ひとつ深く考えていなかった。

「ま、お嬢様でもなんでも、俺がワッショイしますよ。対談上等。終わったら飲みに誘って酔いつぶして――」

 こんな有様であるから、実はタノシイタバコ以外にも、不可解な変化があることに――レザーパンツのポケットの中でハンカチと重なっていた一枚の余剰チケットが、いつの間にか消えてしまっていることに、気づくはずもない。

 それに気づかないくらいだから、去年のクリスマス・イブ、おかしなロック野郎から借りたハンカチに妙な紙片が挟まっていたのを、とりあえずコートのポケットにしまい、翌朝になって思い出した娘がいることも、なおのこと知るはずがない。

 また冬也だけでなく、バンドの連中もマネージャーも、確かに目にしていながら気づけなかった意外な事実があることを――その噂の女性バイオリニストが、実は今日の午後、マスクとマフラーで公衆の目を眩ましながら成田に降り立ち、そのまま渋谷のライブハウスに直行し、最前列に陣取って、主にベースの熱演を最初から最後まで食い入るように見つめていたことなど、神ならぬ身の彼らには知る由もない。

 そしてライブ終了直後、付き添っていた母親と女性マネージャーに急かされ、ウイーン・フィルハーモニーのニューイヤー・コンサートに備えるべく、後ろ髪を引かれる思いで成田空港にとんぼ返りしていったことも、朝比奈琴音と少数の関係者以外は、誰ひとり知らなかったのである。


          *


 ともあれ、そうした人智の及ばぬことどもを、過去と現在と未来の聖夜に、人知れぬままゆるゆると溶かしこみながら――。

「♪ ら~~す、くりすます ♪ あ、げぶゅ、まぃはぁ~~~ ♪」

 渋い酒場のクリスマス・イブは、毎年恒例、一夜限りの無礼講へと移調し、

「♪ ばとぅ、べり、ねく、で~~ ♪ ゆ、げびるぁうえ~~ぃ ♪」

 他の常連客やマスターや従業員、さらには夜半近くに合流した社畜社長まで巻きこんで、底なしの午前様へと突入してゆくのだった。




                            【終】

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