7 ヘヴィメタ野郎は、いかなる際にもクールにキメなければならない

 借金だらけで首を吊る人間から見れば、一億の楽器を親に買ってもらえずに首を吊るお嬢様など、ただの鼻持ちならない大馬鹿だろう。しかし両者にあるのは、実は同じかさの欠乏――夢の喪失なのである。その意味では、あの浮浪者たちのように、一日空き缶を集めてワンカップと握り飯と魚肉ソーセージか柿の種を手に入れればその日の夢が叶い、充分に叶わなければ慈善団体の炊き出しで遠慮なく叶え足し、笑って眠れる者たちのほうがよほど幸福、天国の住人なのかもしれない。

 ――ま、俺はどっちも不向きだから、煉獄でうろうろしてりゃいいさ。これだけやったら、うっかりミスの責任もチャラになるだろうしな。あっちに帰ったら、覚悟して下北沢まで歩けばいいさ。

 そう楽観しながら、冬也は、お嬢様を公園の外の大通りまで送って行った。

 タクシーも無事に拾え、恥ずかしそうに深々とお辞儀してくるお嬢様に、

「あと、しつこいけどもうひとつ、これは絶対守ってね。簡単なことだから」

「はい?」

「どんな酒でも、ひと瓶イッキは禁止」

 酔いが醒めて白くなっていたお嬢様の顔が、また紅潮した。

「……はい」

 ――うん、これなら、もう大丈夫。

 また何かあっても首吊りだけはないだろう、と冬也は確信した。

 タクシーに乗りこむ前に、ふとお嬢様は冬也に向き直り、財布をごそごそして、

「……どうぞ」

 千円札三枚と百円玉を三個、冬也にさしだした。

「あ、いや、あれはあくまでプレゼントだし」

「でも、さっき……サンタさんは一文なしなんでしょう?」

 冬也は苦笑して、すなおに札だけ受け取った。

「ほら、さっき三百円借りたから」

「サンタさんは、ずいぶん細かいんですね」

「細かいついでに、ウーロン茶はプレゼントのおまけってことで」

「あと、お名前と電話番号、教えてください」

「えーと、住所はフィンランドの雪ん中。電話線がきてないから番号なし」

「でも……宝くじって、当たる確率はほとんどゼロですけど、当たるかもしれない確率なら、百パーセントじゃないですか」

 君の方がよっぽど細かいじゃん、とは口にせず、冬也は受け取った札を掲げてみせた。

「あれはもう俺の夢じゃなくて、君の夢だから。俺だって、いちいち番号なんか覚えてないし」

 お嬢様は数瞬とまどっていたが、また深々とお辞儀して、タクシーに乗りこんで行った。

 動き出すタクシーの後部席から、こちらを振り返って手を振っているお嬢様に、冬也もひらひらと手を振って見送った。

 やがてタクシーは、他の車列に紛れて見えなくなった。


          *


 冬也は元の公園に向かって踵を返した。

 他の通行人から見れば、仏像のような慈顔を浮かべているが、自分では悟っても憐れんでもいない。何事も深く考えていないだけである。

 あの池の畔の休憩スペースに戻る前、ふと思いついて水上音楽堂に足を向け、お嬢様が言っていた、無人のステージに上がりこむ。

 けっこう広いステージの前には、それに輪をかけて広い、千人以上入りそうな客席が半円に広がっていた。頭上を覆うドーム状の屋根は光を通すらしいが、全面を密な鉄骨が支えているので星空はほとんど見透かせず、今はただ深閑とした暗い空間である。

 ――こんなとこで夜中にひとりで弾いたら、絵になるどころか、そりゃ首吊りたくもなるよなあ。

 そう思いながら、ステージの中央に進む。

 足元にこつんと何かが当たり、客席の方に転がってゆくので、冬也はあわてて拾い上げた。マーテルのコルドンブルー、やっぱりフルボトルだった。中身は一滴残らず飲み干されている。

 ――ううむ、お嬢様、恐るべし。

 笑顔を引きつらせながら、傍に置いてあったギフト袋の空箱にボトルを戻し、舞台の隅に片づける。

 中央に戻ってデジタル・ウオッチを点灯してみると、現在【SUN/00・40 17/1988 12・25】。ずいぶんこっちで過ごしたような気がするが、着いてから一時間ちょっとしかたっていなかった。

 ――考えてみりゃ、来たときの三分後でも五分後でも、いつにだって戻れるんだよな。

 そう思ったが、なんとなく無理をしたくない気がして、やっぱり翌年の同じ時刻に戻ることにした。わざわざこのステージに上がったのは、あくまで役所が仕切る野外音楽堂のこと、夜中に人はいないし機材の置きっ放しもないと知っていたからである。

 コツをつかんでいるので、帰りは速かった。目をつぶってほんの三分ほどで、顔に当たる乾いた夜風が、雨上がりの湿った空気に変わる。目を開けてみると、案の定、空気以外に何も変わった様子はなかった。もちろん細かい部分は変わっているのだろうが、どのみち暗くて見えない。デジタル・ウオッチの表示は【MON/00・43 29/1989 12・25】、おおむね計算どおりだった。

 胸の内ポケットを探ると、あのなんだかよくわからない餅のようなものは、消えてなくなっていた。つきたての餅のようなぬくもりが、微かに残っているだけである。

 ――うわ、ぎりぎりセーフ。

 長居は無用と足早に音楽堂を出て、冬也は不忍池を巡る遊歩道をたどり、サンタクロースたちがいた、あの休憩スペースに向かった。

「チョト、オニイサン」

 遊歩道の横から、不意に聞き覚えのある声をかけられ、冬也はびくりと立ち止まった。

「ソコノ、アナタ」

 あのイラン人らしい密売人たちが、揃って手招きしている。

「……いつもびっくりさせるのな、あんたら」

「ビクリシタノ、ワタシ」

 代表交渉役らしい青年が、首をすくめて言った。

 それから冬也に何やらさしだし、

「コレ、アナタ?」

「おお!」

 青年が手にしている財布を見て、冬也は歓喜の声を上げた。

「おおおおお!」

 思わず両手で引ったくってしまったが、青年は気を悪くした様子もなく、仲間たちと〔やれやれ〕というような視線を交わし、

「コマッタヨ。ワタシタチ、オマワリサンキライ。コウバン、イカナイ。デモ、アナタイナイ」

 財布の中身をざっと確認すると、ほとんど落としたときのままだった。金もカードも免許証も全部入っている。免許証の場所だけ一番前に変わっているのは、その顔写真で落とし主を判別したからだろう。

 ――しかしこいつら、よくネコババしなかったもんだよなあ。

 冬也の内心を見透かしたのか、青年は言った。

「ワタシタチ、ショウバイ。ドロボーチガウ」

 あいかわらず人のいい露天商のような顔をしている青年に、冬也は両肩をばんばん叩いて礼を言い、ちょうどポケットにあった三千円をさしだした。

「これ、とっといてくれ。拾ってくれたお礼だ」

「オレイ?」

 青年は札を受け取って、仲間たちと何やら小声で相談したのち、仲間のひとりから何やら受け取り、それを冬也にさしだした。

「オレイノ、オレイ」

 冬也には読めない文字とカラフルな柄が印刷された、一箱の煙草である。

「タノシイタバコ」

 あくまで商取引にこだわるたちらしい。

 冬也はありがたく受け取って、

「――じゃあ俺、行くわ。あんたら商売がんばれよ。風邪ひくなよ」

「バカワ、カゼヒカナイ」

 あっちの国でもそうなのか、と冬也が感心していると、青年は残念そうに、

「ニホンノ、ジョーク」

 最後にウケたかったらしい。

 冬也は大真面目に返した。

「俺も風邪ひかない」

 お互いバカかいな――そんな冗談が言外に成立し、二人とも、にやりと笑う。

 手を振り合って別れる間際、青年は言った。

「インシャラー」

 他のイラン人たちも、冬也に同じ言葉をかける。

 その異国の常套句じょうとうくなら、冬也も洋画の中で聞いたことがあった。

 冬也は笑顔で返した。

「インシャラー」

 もっとも意味はよく知らない。異国の挨拶あいさつか何かだろうと思っている。

 ――世の中、善人ばかりじゃないのは確かだが、悪人ばかりじゃないのも確かなんだよな。

 冬也は弾んだ足取りで先を急いだ。

 結局九千万円は夢と消えたが、上野駅で降りたときの鬱々たる気分を思えば、今の気分は上々である。身につけている物は何ひとつ増えていないが、何ひとつ減ってもいない。脳味噌だけが、ずいぶん軟らかく膨らんだ気がする。サンタクロースへの土産話も増えた。

 ――でも、まだあそこで休んでるかな。上野で一泊ってわけにもいかんだろうしな。

 行く手に目を凝らし、不忍池の畔にルドルフの鼻らしい赤い光を認め、冬也は安堵した。

 どでかい橇や赤い巨漢やトナカイの群れも、確かに同じ場所にわだかまっている。

 あちらも冬也の姿に気づいたらしく、サンタクロースが手を振りはじめた。

 冬也は手を振り返しながら、その休憩スペースに近づいて行った。

「おう、あんちゃん、早かったな」

 ルドルフが、先に陽気な声をかけてきた。

「はい。でも、実はけっこう色々あったりして――」

 冬也がさらに近づくと、

「……あんちゃん」

 ルドルフの声が、急に沈んだ。

 鼻の光も、急に暗くなった気がする。

 ルドルフは眉をひそめ、

「あんちゃん……他人の生き死にに関っちまったな」

 最初に殴られたときよりも、さらにドスの利いた声である。しかし怒りの声ではない。ルドルフの目は、沈痛そのものだった。

 隣のサンタクロースを見ると、さっきまで振っていた手が、今は難しげに顎の白髭をまさぐっている。

 冬也は当惑し、

「……えと、まあ、確かにそんな流れもあることはあった、みたいな……」

 そうルドルフに返しながら、ギグバッグを横のベンチに置こうとして、冬也は硬直した。

 ギグバッグの黒革の奥に、乳製品メーカーのロゴが透けて見えた。ベンチの背もたれにペイントされていたはずのロゴである。

「え?」

 ギグバッグは、確かにロゴの前にある。

 しかし、目の迷いかと思って見直すと、見えないはずのロゴは、さらに明瞭になっていた。

「……え?」

 冬也はおそるおそる、自分の掌を目の前に上げてみた。

 掌を透かして、不忍池の対岸の樹木と、その外に立ち並ぶビル群の灯が見えた。

 サンタクロースが、どうしようもなく低い声で言った。

「最悪、今のお前さんが消えちまうこともある――そう言ったじゃろう」

 冬也は、なぜか、放心していなかった。

 てっきり脳味噌が真鱈まだらの白子のようになるかと思ったが、むしろ、軟らかく膨らんだままに感じる。

 ――やはり、あのお嬢様を、その場でもう一度ぶら下げるべきだったのか。それとも、お嬢様の夢に引導を渡して、泣いたまま帰すべきだったのか。しかし、それはない。そんなことをする俺がいたら、俺が叩きのめす。

 いずれにせよ――ヘヴィメタ野郎は、いかなる際にもクールにキメなければならない。

 冬也は、掌の向こうで輝きを増してゆく街の灯をながめながら、

「……はは、こうして見ると、ケバい東京の灯も、なかなか綺麗なもんですね」

 サンタクロースとルドルフは、何も言えずに佇んでいる。

「俺なんて、初めから、こんくらいでよかったんですよ。半透明くらいで……」

 他のトナカイの群れは、草食獣らしい優しさと諦念をたたえた瞳で、黙然と冬也を見守っている。

「……初めから、自分なんて半分くらいで生きてりゃよかったんだ。あとの半分は、惚れた女にでも、あっさりくれてやっときゃ……」

 半透明の冬也が、さらに薄れてゆく。

「じゃあ――」

 冬也が最後に別れの挨拶を言ったのか、感謝の言葉を言ったのか、サンタクロースにもルドルフにも聞き取れなかった。


          *


 いつしか、また小雨に煙りはじめた夜の公園で、長い沈黙の後、

「……あいつ、消えちまいましたなあ」

 赤鼻のルドルフが、しんみりと言った。

「なんや、かえって気の毒しましたわ」

 サンタクロースは、職責に似合わない憂愁の色を顔から振り落とすように、軽く頭を振った。

「まるっきり消えたとも限らんさ。責任の取り方は人様々じゃからな。そこいらの配剤は、天のお方にお任せするしかなかろうが――」

 そう言いながら、本来のもっともらしい訳知り顔――地上のすべての愛し子たちを枕辺で見守る好々爺こうこうやの顔に戻り、

「――ま、今日は御子息のめでたい誕生日、あの方もそれなりに手加減してくださるだろうよ」

「そうでんな……」

 それからサンタクロースとトナカイたちは、橇の準備を整え、夜空に飛び立った。

 見かけの古さとはうらはらに、その橇は上野の雨空を、天に続く孤峰の氷壁を駆け上がるように、速やかに上昇した。

 みるみる遠ざかる不忍池を後に、ほどなく低い雲を抜けて星空に達し、悠々と水平飛行に移る。

 そして、やがて糸月や朝日が昇る東の空ではなく、まだ星夜の続く西の空――中央アルプスを越えて、日本海の彼方に消える。

 冬也の帰りを待って、予定以上の休憩を挟んでしまったが、彼らには、まだまだクリスマス・イブの仕事が残っているのだった。


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