4 換金できれば一発大逆転、できなければ一夜の夢――
去年の今月今夜に戻る――願いははっきりしているが、具体的に何をどうすれば戻れるのか、なかなかイメージできない。
まごついている冬也に、サンタクロースが助言した。
「慣れないうちは、何かはっきりした目盛をいじるのがコツじゃな。たとえば、西から陽が昇って東に沈むのを、一年ぶん想像するとかな」
なあるほど――。
冬也は左手の腕時計のライトを点灯した。時刻も年月日も同時に表示されるデジタル・ウォッチである。現在【SUN/23・30 06/1989 12・24】――1989年12月24日、日曜日の午後11時30分を過ぎたばかり。冬也の
「行けそうかな」
「はい、たぶん」
「
サンタクロースにうなずいて、冬也は目を閉じた。
そして、目を閉じる前には小刻みに増えていた秒表示が、逆に減算される様を想像する。秒が00まで減ったら、同時に分も1だけ減算され、時も日も曜日も月も同様に、連動して逆行することにする。そうした想像上の逆行を徐々に加速させてゆくと――やがて月の数字さえ目まぐるしく10から9に変わり、6から5などはほんの一瞬で変わり――。
そんな想像を、目を閉じたまま続けること数分、
「わ」
冬也は
座っていた椅子をいきなり後ろに引き抜かれるような不意打ちだった。
背骨や腰骨が歪むほど不自然なポーズでの尻餅だったが、連日昼夜二回それぞれ二時間超のパフォーマンスで鍛えたロック野郎のこと、反射的に後ろ手で地を支え、なんとか難を逃れる。
冬也は動悸を静めながら周囲をあらためた。
サンタクロースやトナカイたちの姿はどこにもない。橇も消えている。不忍池の彼方に見えるビル街の灯は先刻よりもやや暗く、まばらになった気がする。なにより冬也のいるその場所にベンチがない。地面には石畳も敷かれておらず、冬也とボクサーバッグとギグバッグは、乾いた土の上に放り出されていた。
念のため腕時計を確かめると【SAT/23・36 41/1988 12・24】――間違いなく目を閉じてから数分後、曜日と年表示だけが去年に遡っている。秒の部分は、見ている間にも42、43、44と増えていくので、今現在の時の流れは正常に進んでいる。
「やった……」
冬也はギグで難度の高いコードを完璧にキメたときのような、脳内麻薬のオーバーフローを感じた。数分前まで念頭にあった、去年のイブに戻る本来の目的よりも、確かに戻れたという事実そのものが、冬也の心を多幸感で満たしていた。
まさかのサンタクロースとの遭遇、そしてタイム・スリップの成功――。
そんな破天荒な体験を、たとえば去年のクリスマス・イブ、吉祥寺のアパートで初めて手料理を食わせてくれた彼女に、シャンパンを飲みながら話してやったらどんな顔をしただろう。
思えばこの一年、冬也は子供の頃から変わらない心底の本音を、彼女に晒したことがなかった。それは紛れもなく彼女に惚れていたからであり、本当の自分が、最新型のスティングレイよりも中古の安ベースが似つかわしい未熟な男であることを彼女に悟られ、愛想を尽かされたくなかったからである。しかし、どのみち本音の知れない男なら、顔がいい方が勝つに決まっているのだ。
冬也は、ふと計画を全面変更したくなった。
今、まさにこの時間、あの吉祥寺のアパートでは、一年前の冬也とまだ浮気していない彼女がシャンパンを飲みながら、ありもしない将来の話で盛り上がっている。ならば今の冬也は上野公園なんぞうろうろしていないで吉祥寺を訪ね、一年前の自分になんらかの助言を与える方が建設的なのではないか。しかし上野公園から吉祥寺までは、下北沢の倍以上離れている。冬也は依然として一文なしである。電車に乗る金がない。まるまる歩きとおす自信もまったくない。
――いや待て。もらった
冬也は懐の内ポケットから、例のなんだかよくわからないものを取り出した。
「ありゃ……」
鶏の卵くらいあったはずの塊が、ピンポン玉より縮んでいる。重さもおおむね半分くらいか。時間を一年移動するだけで、半分に減ってしまったのである。吉祥寺まで瞬間移動したらどこまで縮むか見当もつかないが、おそらく一年後のイブには戻れなくなってしまう。
「……やめた」
冬也はあっさり翻意した。
一年前の能天気な俺に、今さらそこまでしてやる義理はない――。
冬也は、やはり安ベースの似合う未熟な男であった。
それでもまだ心にわだかまる一抹の未練を、冬也はあえて振りきって、当初の計画を実行することにした。
大それたたくらみではあるが、けして複雑ではない。アメ横の乾物屋より先に九千万の当たりくじを拾う、それだけの話である。いつ拾えるかはまだ判らないが、どこで拾えるかは知っている。小一時間前、もとい来年のイブに、浮浪者のひとりが確かに言っていた。『下町風俗資料館の横の植えこみ』である。
そのこぢんまりとした区営博物館なら、冬也も上京後まもなく、仲間と覗いたことがあった。館内に昔の長屋や商家や駄菓子屋が再現され、古い街頭紙芝居の実演などもあり、田舎の昔とはまた違った、都会の下町らしいノスタルジーが楽しめた。その建物は、今いる不忍池の東側を、南に数百メートルほど進んだ先にある。
それが本当に実現できる計画なのか、実は冬也にも確信はなかった。さすがに最高額の当たりくじだと、胴元の銀行では当選者の名前や住所だけでなく、どこで買ったとかいつ買ったとか、うるさく聞いてくるらしい。身分証明は実家に頼めばなんとでもなるが、その宝くじがどこで売られたかまでは知る由もない。しかし、買った本人が最後まで名乗り出ないのも確かなのである。
換金できれば一発大逆転、できなければ一夜の夢――。
一夜の夢でもかまわない、と冬也は思った。札束の山よりも得難い夢を、すでにサンタクロースからもらっているのだから。
冬也はボクサーバッグとギグバッグを肩に、速めの8ビートで歩きはじめた。
*
冬也が目にする去年の上野公園は、先ほど歩いた来年のイブよりも、明らかに賑わいが足りなかった。若い連中はそこそこ見かけるが、大人が少ないのである。公園を取り巻くビルの灯も、歩を進めるたびにまばらさが目立ってきた。気のせいか風までが冷たくて鋭い。
未曾有の好景気の中で迎えたクリスマス・イブでも、この国は、やはり
しかし、まだ若い冬也は、ジャケットのジッパーを顎まで上げて、風を凌いだだけだった。気温は翌年と大差ないのである。ただ乾いているから鋭く感じる。確かに去年の、いやこの年の歳末は、いつも冬らしく晴れていた気がする。
やがて冬也が覗きこんだ下町風俗資料館の横の植えこみも、乾いた風にざわついていた。
林の一画を整地した立派な植えこみだが、前に来た初夏のような新緑はもちろん見られない。舗道灯のおぼつかない光の下、植えこみのほとんどは、冬枯れた低木の枝が風に耐えているばかりだった。
しかし、その一隅の花壇に、冬也は思いがけないものを見た。大小様々の、色とりどりの花々が、夜風に揺れていたのである。
――こんな真冬にも、こんなに色々な花が咲くんだ。
冬也は花々の
――あのなあ、吐くなとは言わんが、少しは場所を考えて吐けよ。
節操のない酔漢たちがしばしば路傍に臨時開店してしまう、いわゆる小間物屋の不定形店舗である。しかもバイパス沿いのジャスコほど広大に開店している。のみならず小間物屋の周辺には、開店時に自分のズボンや靴でも汚したのか、丸めたティッシュがいくつも散乱し、チラシを折りこんだポケット・ティッシュの空き袋まで、無造作にポイ捨てしてあった。
――あのなあ、大人なんだから、こーゆー恥の上塗りはやめとけよ。
冬也は中学時代から、何かと大人ぶりたがるヘヴィメタ・キッズとして、味見程度に酒をなめていた。高校に上がってからは、酒飲みに寛大な土地柄もあって、半ば公然の修行に入った。とくにバンドの連中とは、吐いて吐かれた仲である。それでも花見で吐くときはできるだけ人目につかない遠くの物陰で吐くとか、仲間の家で吐くときは便所に駆けこんで飛沫もきっちり始末するとか、皆、それなりに礼儀をわきまえていた。上州育ちのロック野郎は、あんがい公衆道徳にうるさいのである。
見た目の不快感に加えて、日本酒を痛飲した小間物特有の臭気に辟易し、冬也はその場を離れたくなった。しかし、これから誰かがこの辺りで別の貴重な落とし物をするのは確実だし、ことによったら、すでにどこかに落ちているのかも知れない。
小間物屋から目をそむけつつ、冬也は植えこみの中をひととおり探し回った。
残念ながら、宝くじらしい紙片やそれらしい袋は、どこにも見当たらない。
――ま、朝までの長期戦もアリだからな。
冬也はそう覚悟して、資料館前の遊歩道にあったベンチに足を向けた。
途中、あの花々に気を惹かれ、花壇の前に立ち止まる。
否応なしに例の小間物屋も目に入るが、そこはそれ脳内補正でシカトしているうち、
「……あれ?」
冬也は、つい独りごちた。
なるべく見ないようにしていたので今まで気づかなかったが、小間物屋の奥、低木の枝葉に紛れて見えにくいあたりに、丸めたティッシュよりも大きくて角張った、何か白いものが落ちている。
小間物屋を迂回し、横から茂みを掻き分けて、おそるおそる拾い上げてみると、それは明らかに封筒だった。それも、何か中身の入った封筒である。
「……ガッチャ?」
さすがに指が震えて、糊付けされていない封筒の口を、なかなか開けない。指をぷらぷらと振って震えを落ち着かせ、なんとか中身を引っ張り出し、舗道灯の明かりに向けて見ると――。
「……ガッチャ!」
ズバリ、年末ジャンボ宝くじが十枚、透明なビニール袋に収められている。
冬也は、恩人とも言うべき可憐なクリスマス・ローズやプリムラにしっかり頭を下げてから、そそくさとその場を離れた。あたりに他の人影は見当たらないが、無意識のうちに広い遊歩道を避けて、誰も来そうにない樹間の小道をたどる。
やがて資料館から充分に離れると、冬也は樹間の園灯の下に立ち、封筒の中身を確かめた。間違いなく、連番十枚の宝くじだった。しかも、さっきは気づかなかった購入時のレシートまで、封筒の底に隠れていた。
――完璧!!
十中八九、さっきの小間物屋を開店した酔っ払いが、ティッシュやら何やらいじっているうちに、うっかり封筒ごと落としてしまったのだろう。あとから気づいたとしても、たかだか三千円の損失、あそこまで鯨飲馬食できる懐具合なら、そうは苦にならなかったはずだ。むしろ、あそこで開店した事実そのものを、そっくり忘れてしまった可能性が高い。いずれにせよ、すでに冬也の換金を阻む者はない。
冬也は寒風に向かって思わず胸を張った。
――ゲロっぱき野郎の明るい未来、風と共に去りぬ。そして俺には、新しい未来の風が吹く。
冬也は意気揚々と、元の休憩スペースに向かって、樹間の小道を歩きはじめた。
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