5 これはもしや、稲川淳二や一龍斎貞水が、お盆の深夜番組で語りだすタイプの女?
来年の今夜にはどの場所からでも戻れるのだろうが、来年の様子を知らない場所から下手に戻って、そこに新しいベンチでも置いてあったらただでは済まない。こちらに来たときは、座っていたベンチが消えたから尻餅で済んだだけで、逆だったらどうなるか見当もつかない。ベンチで足が切断されるのか。それとも同一空間に物質が重複して、いつか読んだSF漫画のように大爆発するのか。
――映画の『ザ・フライ』みたいに、遺伝子レベルで融合したりしてな。蝿男じゃなくて、恐怖の木製ベンチ男。
そんなおどけた想像をするほど、冬也は浮かれきっていた。
気が大きくなってみれば、免許証や保険証の他にも、身分証になるものがあるのを思い出す。秋に台湾でライブをやったとき作ったパスポートを、渋谷の事務所に預けてある。今の冬也には、上野から渋谷まで歩くくらい楽勝に思えた。途中で夜が明けたとしても、事務所が開く時間までに着ければいいのである。交番や財布は後回しでいい。まずは銀行で換金の相談、それが最優先だ。
――しかし九千万か。ちょっと半端な額だよな。今年の年末ジャンボなら、ジャスト一億でキリがいいのにな。
などと、虫がいいにもほどがあることを考えながら、冬也は悠々と歩を進めた。
そろそろ林が尽きると思う頃、不忍池を巡る遊歩道の明かりが、木の間隠れにぼんやりと見えてきた。
――よし、ゴールまで、もうひと息。
高揚に任せて冬也が足を速めたとき、斜め前の木立の奥で、なにか人影らしいものが動いた。
冬也はびくりと背筋をこわばらせた。別に悪事を働いているわけではないが――いや発覚する恐れがないだけで立派に悪事を働いているから、できるかぎり他人の目は避けたい。
足音を忍ばせながらそちらに目を凝らすと、細道からかなり外れた林の奥で、確かに人影が
――女?
冬也は思わず立ち止まり、さらに様子を窺った。
目が暗がりに慣れているので、遠目でも、おおよその見当はつく。明らかに、白っぽいコートを着た小柄な女である。後ろ姿なので顔は見えないが、背中にかかるセミロングのワンレンからして年は若そうだった。
女は冬也にまったく気づいていないらしく、こちらに背を向けたまま、ゆらゆらと体を揺らしている。その揺れ方が、どうも怪しい。宙に浮かんで揺れているとしか思えないほど、足元と地面が離れて見える。あまつさえ女のいる方から、すすり泣きのような、か細い声も聞こえてくる。
――これはもしや、稲川淳二や一龍斎貞水が、お盆の深夜番組で語りだすタイプの女?
それでも、なぜか冬也は恐怖を感じなかった。そもそも陽気なサンタクロースがイブの夜空を橇で飛び回る世の中、陰気な女が冬休みに彼岸から帰省してきたって、なんの不思議もないわけである。むしろ、ついさっきまでおめでたの境地に達していたせいか、お
――さわらぬ神に祟りなし。
そう割り切って、冬也がこっそり立ち去ろうとしたとたん、女が奇妙な動きを見せた。
白いコートのベルトを外し、両手に掲げ持つ。
それから背を伸ばし、両手を高々と上げて、ベルトの端を宙にある何かに結びつけるような仕草をする。
同時に、樹木の枝がかさかさと揺れる音が聞こえてくる。
冬也の目は、さらに暗闇に慣れてきて、ずっと気になっていた女の足元の実態も見えてきた。宙に浮いているのではない。女は大ぶりの庭石の上に立ち、うんしょうんしょと伸び上がっている。
あらためて女の手先に目をやると、立木の枝に結びつけたベルトの下端は、すでに輪っかの形に結んであり、女はその輪っかを自分の首に――つまり彼岸から帰省した女ではなく、これから彼岸に渡ろうとしている女なのである。
「やめろ馬鹿!」
冬也は後先を忘れて、林の奥にダッシュしていた。
「お願いだから首吊りはやめろ!」
正味の話、冬也は脊髄反射だけで行動していた。
実は冬也には、首吊りに関して重大なトラウマがある。まだ小学校に上がる前、近所の浪人生が三度目の受験に失敗して精神を病み、夏頃、ついに首を吊った。それも、吊るなら自宅で吊ればいいものを、わざわざ夜中に冬也の家の畑に忍びこんで、梨の木にぶら下がった。どうも梨の大好きな浪人生だったらしい。そして冬也も梨が大好きだったから、朝のお散歩の途中、実り具合が気になって畑を覗いたら――キリンのように首を伸ばした浪人生が、梨といっしょに実っていたのである。
女が前のめりになって庭石から足を離した瞬間、冬也は、かろうじて女の背中を抱きかかえた。
間に合った安堵より先に、冬也は思わず顔をしかめた。
――うわ、酒臭え。
やたらと揺れて見えたのは、酔っ払った末の、いわゆる
止めないで止めないでとお決まりの哀訴、そして身も蓋もない鼻声のすすり泣きを混然と繰り返しながら、女は冬也の腕の中で身悶えしつづけた。じたばた振り回す足の
女はその場にうずくまり、わっ、と号泣しはじめた。
――うわ、こんだけ離れても、やっぱり酒臭え。
それでも、その酒の匂いがどうやらお上品系の洋酒らしいので、さほど不快には感じなかった。高価なワインやブランデーで泥酔した女と、安い日本酒や焼酎で泥酔した女には、冬也が思うに、レクサスと
「……まあ、今んとこ、何を言っても、無駄だろうけどさ」
冬也は地面に片膝をつき、女の肩にそっと片手を置いた。
「せめて酔いが醒めてから、もういっぺん考えてみろよ」
聞こえているのかいないのか、女はぐすぐすとしゃくり上げつづけている。
そのまま放置するわけにもいかず、冬也は両手を肩に添えてみた。
女はだしぬけに身をよじり、冬也の胸にすがりついてきた。
再びわあわあと号泣モードに入ってしまった女の背中を、冬也はせいぜい優しく抱いてやった。
――ま、こーゆー高そうな女には、ふつう触れないからな。ちょっとボリューム足んないけど。
などと呑気にかまえているうち、ある重大な事実に思い当たり、冬也は愕然とした。
――いやまて!
抱いている泣き
――これってモロに他人の生死に関わってないか、俺ってば。
しかし関わらなければ死んでいたはずの女は、今、冬也の胸に顔を埋め、わあわあと酒臭い息を吐きながら、熱い涙を流しまくっているのである。今さら、もう一度ぶら下げるわけにもいかない。
赤鼻のルドルフが言っていた「そりゃ変わり方しだいやがな」、サンタクロースが言っていた「今のお前さんが消えちまうこともあるぞ」、そんな二つの言葉が耳に蘇る。この場合、冬也はいったいどんな責任をとることになるのか。
――ああ俺の馬鹿。俺の不幸は、いつだって俺自身が呼んでいるのだ。
もはや年末ジャンボさえ自分と一緒に消えてしまったような気がして、冬也は、ただ放心するしかなかった。
*
即身仏と化した冬也に同調するように、やがて、女の号泣も静まってきた。
「……すみません」
いささかのしゃくり上げを残しながら、女がつぶやいた。
蚊の鳴くような声は、いかにも若く、奇妙なほど上品だった。
我に返った冬也は、レザーパンツのポケットからごそごそとハンカチを取り出し、娘にさしだした。
「……ほら」
とりあえず、それしか責任を取る端緒が思い浮かばなかったのである。
遠慮がちに受け取って、うつむいたまま、ちまちまと涙を拭う娘をその場に残し、冬也は立ち上がった。
娘はぴくりと身じろぎして、冬也に顔を向けた。
まともに顔を合わせるのは、それが初めてである。
上目遣いの心細げな瓜実顔に、冬也は目を見張った。
こ、これは、もしかしてモノホンのお嬢様――。
お嬢様顔、という顔面造作の分類が日本語にあるのかないのか、冬也は知らない。
しかし、冬也が演歌顔で他のメンバーがロック顔、そんな社長の分類法だって、冬也が『嫁に来ないか』を歌いそうな顔をしている以上、あながち無茶とはいえない。ならば、お嬢様顔だって、あってもいいわけである。それはつまり、小学校でクラスの女子をたばねていた土地成金の娘のような作為的上品顔すなわちタカビー顔ではなく、中学時代にクラスでなんとなく浮いていた、けして存在感は強くないのに他の女子とは明らかに違った世界観を漂わせ、ならばイジメられても不思議はないのに他の女子もなんとなくお雛様扱いしていた女生徒――そんな顔である。当人はいっさい自慢しなかったが、噂によれば母親が鎌倉時代から続く上州有数の旧家の出、そんな育ちの女子だったらしい。
冬也はどぎまぎしながら言った。
「……いや、別に警官呼んだりしないから」
関わってしまった以上、自分の責任の具体像を探るためにも、今すぐ別れるわけにはいかない。
「ほら、俺、あっちに荷物、ほっぽりだしてきたから」
冬也がもとの小道に戻ってボクサーバッグやギグバッグを回収していると、林の奥から娘が現れた。
庭石の近くにでも置いていたのか、冬也同様、ふたつの荷物を携えている。ひとつは飾り気のない茶革のポシェット、もうひとつは冬也のギグバッグを縮小したような形の、黒いハードケースである。
「へえ、バイオリンやってるんだ」
娘も、林の奥より明るい小道に出て、ようやく冬也の全貌と所持品を把握し、
「……デーモン閣下のお仲間の方ですか?」
「あ、いや……あそこまで吹っ切れない質なんで、どっちかっつーとアイアン・メイデンとか、日本だと
娘は微妙な笑顔を浮かべ、こくりとうなずいてみせた。
あたしへびめたなんてわっかんな~い、と言わないところがお嬢様なんだよな、と冬也は思った。
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