2 お前は今年一年、ちゃんといい子にしてたか?
以前、冬也が似たような時刻に同じ入口から上野の森を訪ねたとき、直近の東京文化会館や日本芸術院はすでに灯が落ちて黒々とした影になっており、その奥にある国立西洋美術館や国立博物館まで足を運んでも人っ子ひとり見当たらず、上野公園全体が、暗い樹間に舗道灯だけが点々と続く陰気な場所に見えた。
しかし、今夜はクリスマス・イブである。同じ上野の森にある寛永寺や上野東照宮はさすがに光っていないが、点在する西洋料理店や喫茶店の前庭では、華やかなライトアップや煌めくイルミネーションが夜通し光のタペストリーを描き、そのタペストリーたちを結ぶ樹間の道にも、酔い覚ましにそぞろ歩くパーティー帰りの一団、隣接する東京芸術大学の美術科や音楽科で何か華やかな行事を終えてきたらしい学生たち、あるいはベンチに集ってうらぶれたなりに騒々しい酒宴を催している浮浪者たちなど、舗道灯の光が届く
そのどれにも属さない冬也は、無意識に賑わいを避け、
「テレカアルヨ。ヤスイヨ」
坂の途中、いきなり片言の日本語で話しかけられ、冬也はぎょっと立ちすくんだ。
声の主は、浅黒い中東系の青年だった。このあたりに多いと聞く、偽造テレホンカードの売人だろうか。ふと気づけば、左右にも背後にも同じような人影がある。両腕や背中に触れかねないほど身を寄せてくるので、冬也は思わず虎の子のギグバッグを抱きかかえた。
しかし彼らは皆、人なつっこい笑顔を湛えていた。引ったくりや強盗よりも、あちらの国の露天商あたりに似合いそうな顔である。
「タノシイタバコアルヨ。ヤスイヨ」
冬也の風体が、いかれたメタル野郎そのものなのを見て取ると、青年は、お勧め商品のジャンルを切り替えてきた。
「ゲンキデルクスリモアルヨ。チョットタカイ。デモスゴクヤスイヨ」
言わんとする意味は解る。彼らの扱う商品の中では高価格、でも日本のヤのつく業者よりは激安、そう言いたいのだろう。
冬也は、大麻は嫌いではない。しかし今は金が惜しい。覚醒剤はそもそも苦手である。
警察のポスターや政府広報では、ヤクに手を出すとひとり残らず廃人化するように謳っているが、冬也にとって、大麻はリラックス効果が優れているぶん高価なヤミ煙草、つまりタノシイタバコそのものである。覚醒剤に関しては、確かにハマりすぎて廃人化した同業者を知っているが、冬也のバンド仲間は、皆なぜか合わない体質だった。頭が冴える前に嘔吐したり、役に立たない方向に錯乱してしまうのである。遊びにも休みにも向かず、ライブやギグにはなおのこと役に立たない。それも上州名物赤城おろしの効能だろうか。
「あー、間に合ってるから。俺はいらんから」
事を荒立てないように、冬也が軽い調子で言うと、男たちはあっさり納得し、軽く笑い合いながら離れて行った。遠ざかる笑い声の中に、「オレワイラン?」「オー、イラン!」、そんな愉快そうな声も聞こえた。イランから出稼ぎに来て、落ちこぼれた連中なのだろう。
冬也は気を取りなおして、不忍池の畔に出た。
池を巡る遊歩道にも、所々にグループやカップルの影があったが、ニキロほどの周囲をたどるうちには、孤独に浸るのに格好な暗い林もある。
冬也は途中の自販機で缶コーヒーを買い、そんな寂しい樹間の、池に面したベンチに腰を下ろした。ベンチはまだ少し湿っていたが、尻が濡れるほどではない。
誰もいない思って腰を据えたのに、林の奥にもベンチがあるらしく、年輩の男たちの陽気な
「やっぱり都内は炊き出しが旨いよなあ」
「行き倒れになるときも都内に限るぞ」
「そうなの? どこだって同じじゃないの? どうせ死ぬんだし」
話の内容に興味を覚えて冬也がチラ見すると、奥の
「いや全然違うんだなこれが。俺、夏に新宿あたりを根城にしてたら、西口公園で仲間が行き倒れになったのよ。なんか肝臓、いや腎臓だったかな、とにかく持病こじらせて。そしたら、なんか区役所の福祉パターンにドンピシャとかで、ロハで入院して体なおして、今じゃ都営アパートに住んで生活保護受けてる。週に一度はボランティアの姉ちゃんたちが来て、掃除洗濯までやってくれるとよ」
「へえ、俺も糖尿の持病があるから、いつぶっ倒れてもおかしくないんだわ」
「じゃあ新宿行けよ。池袋でもいいかな。千葉や埼玉で倒れたら、たらい回しにされてるうちにお陀仏だぞ」
「そりゃありそうだわなあ。おまわりとか役所とか、しょせん税金頼みだからなあ」
「ここいらはどうなんだろうね」
「こんだけ賑やかなら、税金もしこたま入るんじゃねえか」
「でもビンボそうな家も多いぞ」
「お前にビンボとか言われたら人間しまいだわなあ」
「うん、言ってる俺もそう思うわ」
「俺は生活保護なんぞ御免だね。窮屈でやってられん。動けるうちはせっせと缶拾いして、動けなくなったらあっさり死ぬのさ」
「そのわりにせっせと炊き出しに通って、キリスト様にペコペコしてるじゃねえか」
「食えるうちは食い、食えなくなったらあっさり死ぬのさ」
「そりゃビンボだって金持ちだって、食えなきゃあっさり死ぬわいなあ」
彼らの緊張感のない会話を聞いていると、冬也も徐々に気が休まってきた。
――ううむ、やっぱ人生、ヘヴィメタありバラードありブルースあり、ドリフの全員集合だってアリだよなあ。
あんがいゆったりした気分で缶コーヒーを啜りながら、今後の算段を立てる。
――とりあえず今夜は、昨夜のようにカプセルホテルに泊まって、明日から泊めてくれそうな奴に当たりをつけよう。万年インディーズの顔なじみなら、メジャーから落ちこぼれた俺なんか、話の種に喜んで泊めてくれるだろう。それとも、追っかけの女の誰かに電話して――あの手の娘たちは、基本、打算より感情で動くから、俺みたいなポジションでもスキマ需要があるはずだ。まあ、そうトントン拍子にはいかないにしろ、明日には口座に給料がまるまる入る。当分は、宿にも飯にも困らない。
さしあたって今夜の有り金は――。
確か三万くらいはあったはず、と、ジャケットの懐を探る。
「……ありゃ?」
いつもの内ポケットに財布がない。
あわてて外ポケットや隠しポケット、さらにパンツのポケットを探しても、ハンカチくらいしか見つからない。知り合いに配りきれなかったライブの招待券が一枚出てきたが、終わったあとではただの紙くずだ。着替えくらいしか入っていないはずのボクサーバッグを念のためかき回しても、やっぱり着替えしか入っていない。
まさか、さっきの外人連中が――いや違う。そのあとで自販機のコーヒーを買ったとき、まだ財布はあった。っつーことは――。
自販機からここまでの過程を子細に思い出そうとしても、ずっと上の空だったことしか覚えていない。
それから冬也はベンチと自販機の間を、あわただしく、あるいは這うようにゆっくりと、厭になるほど往復した。
結局、元のベンチに座りこみ、ただ嘆息する。
――ど、どーすんだよ俺。
現金が一円もなくなってしまった。キャッシュカードは財布の中である。クレカもテレカもしかり。銀行の通帳なんぞは、実家の机の引き出しに置き去りである。交番に落とし物の届けを出せば、電車賃くらいなら貸してくれると聞いたことがあるが、ホテル代は貸してくれるだろうか。
――いや待て。ベースがあるじゃないか。昔の安物のベースだって、質屋に持ちこんだら何千円か貸してくれた。このスティングレイならきっと何万も――いや待て。質屋に見せる免許証がない。このところ身分証としてしか使っていなかったから、やっぱり財布の中に入れっぱなしだ。じゃあ保険証とか――うわ女の部屋の引き出しに置いてきちまったよ吉祥寺の。
冬也は両の掌で顔を覆い、うなだれるしかなかった。
――ああ俺の馬鹿。俺の不幸は、いつだって俺自身が呼んでいるのだ。
*
暗澹たる冬也のベンチをよそに、林の奥の東屋では、まだ浮浪者たちの酒宴が続いている。
もうすぐあっちの仲間になるのかもしれんなあ、などと自嘲しながら、冬也が聞くともなしにうつむいていると、
「そういや去年のクリスマス、この公園で宝くじ拾った奴がいたよな、年末ジャンボの」
「おう。確かアメ横の乾物屋の親爺だろ。イブの飲み会で羽目はずして、朝帰りの途中に拾ったとか聞いたぞ」
「あれ、どうなったんかなあ」
「んなもんハズレに決まっとるわ」
「あれ? お前ら知らなかったの? 一等と前後賞、合わせて九千万になったってよ」
そんな景気のいい話が聞こえてきたので、冬也は、つい耳を立てた。
「げ」
「マジかよ」
「ああ。俺、今年はずっとここいらを回ってたから、ニュースでやらない話だって、たいがい知ってるんだ」
「でも、拾った宝くじだろ」
「バレたら捕まるぞ」
「馬鹿正直に交番に届けたんだよ。半年たっても落とし主が出てこなくて、拾った奴のもんになった。現ナマ拾ったのと同じ理屈だ。あの親爺、取手にでかい家建てたとさ」
「でもあの乾物屋、店が家じゃなかったか?」
「うん。一階に店出して二階に住んで。それが今は常磐線で通勤してるわけよ」
「そろそろ隠居するつもりなんじゃねえか、もう歳だし」
「アメ横の店売ったら、また何千万、いや今だと何億か」
「ほんと金って、あるところにばっかし集まるのよなあ」
「あの宝くじ、どこに落ちてたんだっけ」
「知らんわ」
「俺知ってる。確か下町風俗資料館の――」
彼らの声は、依然として陽気そのものだった。全てを失って久しい彼らには、他人の大当たりもあくまで他人事、珍奇な話題のひとつにすぎないらしい。
――くれ。一割でいいから俺にくれ。万札一枚でもいい。
などと本気でツッコみそうになっている自分に愛想を尽かし、冬也は力なくベンチを離れた。
落ちこんでいても仕方がない。とりあえず交番に行こう。もし交番で金を貸してもらえなかったら――ドラムのアパートが下北沢にある。気のいいあいつなら頭を下げやすい。問題は、ここからそこまで何十キロあるのか見当もつかないことだが――まあ、夜が明ける前にはたどり着けるだろう。
冬也は、哀愁を帯びたブルースのコードで歩きはじめた。クリスマスらしいバラードの気分には、とてもなれない。ましてヘヴィメタなど、遙か彼方の聖夜である。
どこに最寄りの交番があるかわからず、不忍池に沿って上野駅方向に戻っていると、遊歩道の水際の、石畳が敷かれた休憩スペースに、奇妙な影がわだかまっているのが見えた。
赤く塗られたでかい
赤い服の巨漢だけなら、今夜は街中に看板を持ってうろついているが、橇とトナカイの群れまではさすがに見かけない。映画かドラマ、あるいはCMとかMVのロケだろうか。いや、わざわざ当日の夜にやっているからには、今まさにテレビで流れているバラエティーの中継に違いないと思い、冬也は邪魔にならないよう、その場を迂回しようとした。
しかし、周囲にいるはずのカメラやら照明やら、スタッフ連中がどこにも見当たらない。あくまで暗い水際の一画で、白髪豊かなサンタクロースが、白髭の口元にパイプを咥えて悠々と一服つけ、橇の引き綱からハーネスを解かれたトナカイたちが、てんでんばらばらに池の水を飲んでいるだけである。それも明らかに本物のトナカイだ。子馬や鹿に細工した偽物ではなく、まして作り物や着ぐるみでは絶対にない。
冬也は思わずその場に立ち止まり、旨そうに煙を吹いているサンタクロースの顔を、しげしげと見つめてしまった。
ふと、サンタクロースの視線が冬也の視線に交わった。
「……お前さん、まさか
冬也は憑かれたように答えた。
「はい」
一瞬サンタクロースは大きく目を見開き、それから愉快そうに破顔した。
「もしかして、お前さん、昔から色々見える
「はい」
冬也は正直に答えた。
「……毎年、お盆になると、死んだ祖父さん祖母さんが茶の間で笑ってたり……夜中に墓場の横を通ったら、でっかい蛍みたいな人魂が、うようよ飛び回ってたり」
人に言うと妙な顔をされるので、いつしか誰にも話さなくなった、幼い頃の思い出である。稲川淳二や一龍斎貞水ならウケるであろう話も、なぜか冬也が語ると相手に引かれてしまう。
しかしサンタクロースは、さすがに疑義をただしてこなかった。
「もっと妙なもんも見えたんじゃないか?」
「……幼稚園の頃、裏の川で河童と遊んでました。あと、年とった猫って、けっこう人の言葉でしゃべりますよね。たまに猫じゃ猫じゃとか踊るし」
実は陰気なガキの妄想だったのではないかと、今は自分でも疑っている幼時体験を、事実として語れる相手が目の前にいる事実――冬也はなんとも久しぶりに、甘美なノスタルジーの世界に浸っていた。
サンタクロースが、上機嫌な笑顔で言った。
「かわいそうに、お前さんは頭がおかしいんじゃな」
「…………は?」
聞き間違いかと思ったら、サンタクロースは満面に笑顔を浮かべたまま、
「人間、死んだらそれっきりだ。人魂は大気中のプラズマ放電現象だ。河童なんぞ、この世にいるわけがない。猫はにゃあにゃあ鳴くだけだ。当然、儂らだって、この世にいるわけがない。サンタクロースはパパだ。だからママがキッスする。どんなに浮気性のママだって、こんな百貫デブの老いぼれにキスするわけがなかろう」
まさか全否定されるとは思ってもいなかったので、冬也は愕然とした。
「……………」
「お前さんがそんなキテレツな頭でギンギラギンなナリをしとるのも、脳味噌が腐っとる証拠じゃ」
そ、そこまで言うか――。
冬也は愕然を通りこし、憤激してしまった。
「ほっほっほ」
サンタクロースは、あっけらかんと笑いながら、
「すまん、冗談じゃ冗談」
――そうか冗談か。冗談なら、まあここは許してやろう。
冬也は懸命に気を静めた。しかし内心の怒りは治まらない。
「で、クリスマス・イブのサンタクロースとして、お前に訊いとかにゃならんことがある」
サンタクロースは真顔になって言った。
「お前は今年一年、ちゃんといい子にしてたか?」
――よし、この流れなら納得できる。てか、初めからちゃんと、そう訊いとけよ。
「はい、いい子でした」
「嘘じゃな」
「嘘じゃありません。ちゃんと真面目に働いてました」
不本意なスポットでのギグだって、フヤけた音楽番組のゲストだって、事務所の指示どおりに唯々諾々とこなしてきた冬也である。
しかしサンタクロースは、
「それが正直な話だとしても、わしゃ『いい子か』と訊いたんだぞ。お前さん、大人になってから何年たっとる」
――ケンタ前のおっさんみたいな善人面しやがって、そーゆーのアリかよ、おい!
冬也はついに逆上した。
サンタクロースの赤い襟元を、白髭といっしょに掴み上げ、
「なめやがって糞爺い! スマキにして不忍池に沈めたろか!」
そう叫んだ直後、冬也の後ろ頭を、正体不明のとてつもない鈍器が、ごん、と横殴りに張り飛ばした。
「ぐえ」
冷たい石畳にうずくまり、涙ぐみながら後ろを見上げると、赤鼻のトナカイが、草食獣らしからぬ三白眼で冬也を睨んでいた。
「こんガキ、スマキにして池に沈めましょか親方」
なぜか関西訛りでそう言いながら、宙に掲げた前脚の
――いかん。この手合いに、ハンパな態度を見せてはいかん。
冬也は明瞭に主張した。
「すみません冗談です冗談」
サンタクロースが、声高にトナカイを叱りつけた。
「こらルドルフ、手を上げる前に儂に相談せいと、いつも言っとるじゃろう」
「……すんまへん親方」
ルドルフはすなおに頭を下げたが、ちらりと冬也に向ける陰険な目つきには、まったく反省の色がなかった。
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